第31話 「温室は雨を覚えている」
ソラーナ王国からの帰路の馬車は、行きよりずっと静かだった。
窓の外では、夕暮れの景色がゆっくり流れていく。
ソラーナでの任務は無事終了した。
色々あったはずなのに、今は妙な疲労感だけが残っている。
ディオンは椅子へ背を預け、小さく息を吐いた。
「……楽しかったな」
向かいに座っていたカイルの肩が、僅かに止まる。
俺は、カイルの様子に気付かないまま窓の外を見た。
(……きれいだった。少し前の自分には想像できなかったよな。きれいだ、楽しかったなんて思うようになった。)
「飯、美味かったし、街も綺麗だったし……あと、フローレンス姫、思ったより普通に話す人だった」
そこまで言ったところで、何故かカイルが妙に静かなことへ気付く。
「……カイル?」
カイルは一瞬遅れて顔を上げる。
「ん?」
「さっきから固まってないか?」
リネが本から顔を上げ、静かにカイルを見る。
「……確かに」
「別に」
「いや別にじゃないだろ」
(……たぶん、フローレンス姫のことだろう。分かりやすいなカイルは)
カイルはまだ少し気まずそうに視線を逸らしていた。
「……見送りの時さ」
「あんま、怪我すんのむいてないですよ”って言っただろ」
「ああ」
リネは、慣れた様子で本を開きながら相槌をうつ。
「あれ、完全に覚えられた気がする」
「何だそれ」
照れているカイルを見るのは、正直少し面白かった。
普段は割と涼しい顔をしているくせに、こういう時だけ妙に分かりやすい。本人は多分、自覚してないんだろうけど、カイルは昔から、肩書きで人を見ないから。相手が貴族でも、騎士でも、王族でも変に媚びたり、逆に気負ったりもしない。ちゃんと、その人自身を見る。
だからフローレンス姫も、多分居心地が良かったんだと思う。“姫”じゃなく、“フローレンス”として接してもらえることが。
それって案外、珍しいんじゃないだろうか。
窓の外では、雪景色がゆっくり遠ざかっていく。カイルはまだ少し気まずそうに視線を逸らしていた。
……まあ、あの姫なら、忘れないだろう。
カイルは額を押さえた。リネが静かに本を閉じる。
「まあ、気付いていただろうな」
「だよな……」
「……まあ、良かったんじゃないか」
カイルが眉を寄せる。
「何が」
「気に入られているなら」
「お前な……」
呆れた声だけれど、リネは気にした様子もない。
「本来、フローレンス姫はエリアス殿下の婚約候補だ」
馬車の空気が少しだけ変わる。リネは淡々と続けた。
「けど、少なくとも姫本人は、お前といる時の方が自然だったよ」
カイルが言葉に詰まる。
「……見てたのかよ」
「まあな」
窓の外では、夕暮れがゆっくり夜へ変わり始めていた。任務は無事終わった。
だが--
多分、何かはまだ終わっていない。
◇◇◇◇◇
あれから、季節は巡り騎士学院での自分の立場も変わった。
俺達は揃って上位階級へ昇格し、任務や実地訓練で王宮へ呼ばれることも増えた。その度に、七不思議とも深く関わっていった。
時計塔、深紅の薔薇、嗤う本。思い返せば、どれも妙な事件ばかりだった。
(星降りの祭典の夜、空を流れていった光だけは、今でも時々思い出す)
二年生の夏、騎士学院では、秋になれば次の学年へ進む。任務も実地訓練も、少しずつ重くなっていき、進む道を考え始める者もいた。
騎士団へ進むのか、王宮付きになるのか、あるいは、別の役目を選ぶのか。夏が終われば、また色々なものが変わっていく。それが少し寂しくもある。
*****
「ディオン」
書庫で資料を開いていると、リネが顔を上げた。
「休暇中くらい、本を閉じろ」
「調べたいことがあるだけだ」
「お前はいつもそう言う」
その横で、カイルが椅子へだらしなく座っていた。
「夏休みだぞ。少し休めよ、ディオン」
「カイルは、休みすぎだ」
カイルが即座に返す。
「平均だ」
「どこの平均だ」
いつものやり取りに少しホッとする。変わったことは沢山あるけれど、こういう時間は、不思議と変わらなかった。
夏休みに入った頃、俺は再び、あの紅茶店を訪れていた。手には金色の封蝋に白い鳥の紋章、質の良い手紙。
(殿下とこうして会うのは久しぶりだ……)
外の二階の欄干にはいつかの白い鳩。静かな店内にはいると、紅茶の香りがした。俺は以前と同じ席に向かう。
中庭の温室。白いガゼボには、すでにエリアス殿下が座していた。
(殿下を待たせてしまったか……)
顔に出ていたのか、殿下は何でもない顔で俺に声を掛ける。
「久しぶりだな」
穏やかな声。殿下が、小さく笑った。
「……殿下」
「今日は休暇中だ。名前でいい」
そう言われても困る。結局、曖昧に頷きながら席へ座った。店主が静かに紅茶を置いて立ち去った。
夏の果実茶らしい。淡い琥珀色の液面へ、光が揺れる。
殿下は、以前より少し痩せた気がしたが、顔色は悪くない……。むしろ綺麗なくらいだ。
けれど、殿下は夏だというのに長袖で、襟は喉元まできっちり閉じていた。
「……暑くないんですか」
何気なく聞くと、エリアスは少しだけ目を瞬かせた。それから小さく笑う。
「今年はそこまででもない」
(嘘だ……。外では立っているだけで汗ばむ)
俺は黙ったまま、紅茶へ口をつけた。殿下がカップを持ち上げた時、袖がほんの僅かにずれた。
手首には黒い痕が見えた。恐らく右手から、上腕へかけてだろう。
以前より、殿下の右手には違和感があった。蔦のような痣。明らかに蝕んでいる……。心臓が、嫌な音を立てる。
殿下は気付いていないみたいに、静かに紅茶を飲んでいた。
「……ディオン?」
視線に気づいたのか、殿下が小さく首を傾げる。
俺は慌てて目を逸らした。
「いえ」
けれど、薬草学を学んできた感覚が告げている。あれは、良くない。(進行している……?)
静かな沈黙が落ちた。答えてくれるか分からなかったが、殿下きら聞きたいと思った。
「殿下、何の病気なんですか」
温室へ沈黙が落ちた。長い長い時間に感じる。遠くで、蝉の声だけが聞こえている。殿下はすぐには答えなかった。ただ静かにコトリ……。紅茶を置き、小さく目を伏せた。
「病気、か」
掠れた声だった。
「違うんですか」
殿下は苦笑する。
「……似たようなものだ」
夏の風が、白いカーテンを揺らした。その横顔は穏やかだった。穏やかすぎて逆に、胸がざわつく。
自分から聞いたのに、聞きたくない。殿下は静かに窓の外を見る。
「昔から、長くは生きられないと言われている」
その言葉に、呼吸が止まった。
「大丈夫だ。今すぐどうにかなるわけじゃない。治療も受けている」
どうにか一言返事をするのがやっとだった。
「……はい」
殿下は、空気を変えるように、切り出す。
「最初に会った時、雨が降っていた」
(最初……?)
殿下は穏やかに笑ったのに、その笑顔が何故か少しだけ、寂しそうに見えた。
帰り際、殿下はふと立ち止まる。
「時間があるなら、少し寄っていかないか」
「……どこへ?」
エリアスは、店の奥のカウンターのさらに奥に視線を向けた。普段は閉じられている、小さな硝子扉。
「こっちだ」
俺は小さく眉を寄せながら、その後を追う。硝子扉が開き、カラン……と小さな鈴音が鳴る。
その瞬間、空気が変わった。
「――え」
俺は思わず足を止める。目の前に広がっていたのは、王宮の旧庭園だった。白い石畳に硝子天井、咲き乱れる白薔薇、蔦の絡まる回廊。王宮でしか見ることのない紋章柱。紛れもなく王宮だった。
「ここ……」
言葉を失う。
エリアスは小さく笑った。
「驚いたか」
「……王宮、ですよね」
「ああ」
「正確には、旧庭園の温室だ」
白薔薇の香りが、静かに漂う。
「この店と温室は繋がっている。王宮側から使う者は少ないがな」
辺りを見回すと、確かに店の中庭と空気が似ていた。
けれど、広さも、静けさも、まるで違う。紅茶店の奥に、そのまま王宮が隠されていたみたいだった。
「……前からあったんですか」
「昔からな」
殿下は、慣れた様子で温室の奥へ歩いていく。
「元々は王家の避難路だったらしい。温室側から出れば王宮へ、店側から出れば街へ繋がる」
歩く度、硝子越しの陽光が床へ淡く落ちる。けれど、
どこか妙だった。景色が、時々揺らぎ白薔薇の色が、一瞬だけ薄れる。硝子の向こうの空も、僅かに滲んで見えた。
俺が立ち止まると、殿下が振り返る。
「どうした」
「……いえ」
言葉を探す。
「少し、景色が揺れたような」
殿下の視線が、ほんの僅かに逸れた。けれど次には、いつもの笑みへ戻る。
「古い温室だからな」
「魔力循環が不安定になることがある」
さらりとした説明。
(殿下は平気で嘘をつく……。俺に心配されたくないよな)
ただ、何かを隠した時の空気だと、何となくは分かった。水路へ落ちた光が、細く揺れる。その向こうで、硝子越しの景色が一瞬だけ灰色へ滲んだ。
雨の日みたいだった。
けれど次の瞬間には、また夏空へ戻っている。エリアスは気付かないふりをするみたいに歩き続けた。
「昔」
ぽつりと呟く。
「ここで、小さな子どもと会ったことがある」
俺は黙って耳を傾けた。
「酷い雨の日だった。俺もまだ子どもだった」
「その日は、少し気分が悪くてな」
そこで一度、言葉が止まる。エリアスは白薔薇へ視線を落とした。
*****
夕暮れの王宮。窓の外では、雨が降っていた。
「また医師が来ていたらしいな」
回廊を二人の騎士が歩きながら、やって来る。一人の騎士が小さく声を落とすと、隣の騎士が小さく息を吐く。
「……長くはない、か」
靴音だけが静かに響く。やがて、もう一人が苦く笑った。
「最近、随分荒れてるらしいな」
「ああ。教師にも噛みついたとか」
「教師の制止振り切ってへ中庭に行ったとも聞いた」
呆れ半分の声。
「無理もないだろ」
「子どもが、自分は長く生きられないなんて聞かされて」
雨音が静かに響く。その言葉は、少し離れた回廊にも届いていた。白いシャツ姿の少年が、足を止める。
エリアスだった。騎士達は気付かないまま回廊の奥へ歩いて行く。エリアスはしばらく黙ったまま、降り続く雨を見た。
「……別に」
掠れた声だった。
「長生きしたいなんて、思ってない」
誰に向けたわけでもない呟きは、雨音へ静かに溶けていった。
*****
「かなり、むしゃくしゃしていた。だから、その頃の俺は随分愛想が悪かったと思う」
白い花弁が、水面へ落ちる。
「そんな時に、子どもが一人ここへ来た」
「ずぶ濡れだった」
少しだけ笑う。
「なのに妙に人懐っこくてな。初対面の相手にも普通に話しかける。随分眩しかった」
思わず目を瞬く。エリアスは気付かないふりをして続けた。
「でも、その日は余裕が無かった。年下の相手をする気分でもなかったしな」
「だから適当に紅茶を渡した」
『おいしい!』
幼い声が、聞こえた気がした。
エリアスは細く目を細める。
「……あの時、初めてだった」
「紅茶を飲んで、あんな顔をする人間を見たのは」
温室の奥で、水音が静かに響く。
「それで終わると思っていた」
エリアスは小さく笑う。
「もう二度と来ないだろうと」
「……来たんですか」
「ああ」
即答だった。
「次の日も、その次の日も」
どこか呆れたみたいに目を細める。
「毎日ここへ来た」
思わず吹き出しそうになる。何となく、想像できた。
「雨が止んでも来て、晴れていても来た」
「話しかけてきて、勝手に紅茶を飲んで、勝手に笑っていた」
「随分自由な子だった」
その表情は、どこか懐かしそうだった。
「でも、不思議だったよ」
「気付けば、ここで会うのが当たり前になっていた」
「むしゃくしゃしていた日も、嫌なことがあった日も。その子が来ると、少しだけ忘れられた」
殿下の白い手袋越しの指先は白薔薇へ触れようとして止まる。
「でも」
「ある日を境に、ぱたりと来なくなった」
温室には、水音だけが残った。
「最初は、雨だからかと思った。次は、体調でも崩したのかと。でも、一週間経っても来なかった」
思わず口を開く。
「……探したんですか」
殿下は少しだけ笑う。
「探せる立場でもなかった。名前だけは、最初に聞かされたんだ」
どこか懐かしそうに目を細める。
「随分誇らしそうに名乗っていた」
何となく、想像できた。
「今思えば」
硝子越しの夏空を見上げる。
「言いたいことが、たくさんあったんだろうな」
「……言いたいこと?」
「ああ」
「もっと話せばよかったとか、もう少し優しくすればよかったとか」
「次は、違う紅茶を淹れてやればよかったとか」
白薔薇へ落ちた光が、静かに揺れる。
「子どもだったからな、別れというものを、あまり分かっていなかった」
その瞬間硝子の向こうが、一瞬だけ雨空へ滲む。
けれどエリアスは、それを見ないふりをするみたいに小さく笑った。
「だから、突然いなくなるとは思っていなかったんだ」
俺はしばらく黙ったまま、水路へ揺れる光を見る。それから、小さく息を吐いた。
「……子どもなんて、そんなものでしょう」
殿下が目を瞬かせる。
「急にどこか行ったり、急に戻ってきたりする」
肩を竦める。
「俺も、多分その頃はかなり気分で動いてたと思います」
「否定はしない」
「ひどいな」
思わず笑う。殿下も、つられるみたいに少し笑った。それから、ふと、どこか懐かしそうに目を細める。
「そういえば、俺のことを“エリ”と呼んでいた」
思わず吹き出しかけた。
「……随分勝手ですね」
「ああ」
エリアスは苦笑する。
「後にも先にも、そんな呼び方をした人間はいなかった」
白薔薇が、静かに揺れる。
「最初は訂正したんだ。でも、全く直らなかった」
「だから途中で諦めたよ」
その響きが、妙に優しくて、胸の奥がまた少しだけ痛んだ。知らない話のはずなのに……その呼び方だけが、ひどく懐かしい気がした。
温室を出た後、俺は先に紅茶店へ戻ることにした。
「送ろうか」
殿下はそう言ったが、丁重に断る。
「ふつう、俺が貴方を送るほうです」
「そうか」
殿下は無理に引き止めなかった。ただ、小さく目を細める。
「……夏も、もう終わるな」
夏空に、蝉の声と殿下の声が溶けて言った。
◇◇◇◇◇
騎士学院は、秋始まり。三年生に進級する秋になれば進路や配属の話が本格的に始まる。騎士団へ進む者、王宮付きになる者、領地へ戻る者。今後が、少しずつ決まっていく。
殿下は白薔薇へ視線を向けたまま、小さく笑った。
「お前達も忙しくなる」
その言葉に、何故か胸の奥が少し重くなる。俺は曖昧に頷き、温室を後にした。
硝子扉を抜け、カラン……と小さな鈴音が鳴れば、途端に紅茶店の空気へ戻った。
穏やかな紅茶の香りと店内のざわめき、窓辺へ差し込む夏の陽光。ほんの数歩前まで王宮の温室にいたはずなのに、不思議と現実感が薄い。
俺は静かに息を吐き、そのまま店を出た。城下町は、夏の熱気に満ち、石畳へ陽射しが照り返す。
いつも通りの平和な城下町。けれど、頭から離れない。袖の奥に隠れていた絡まる蔦のような黒い痕。一瞬だけ雨空へ滲んだ温室の景色を思いだし、俺は無意識に、右手へ力が入る。
真夏の陽射しは眩しいほど強いのに、胸の奥だけが妙に冷えていた。




