第30話 「妖精達の夜想曲-調律」
雪解けを迎えたとはいえ、ソラーナの夜は冷える。
白い吐息が、夜風へ溶けていった。
氷色のフクシア達が、静かに揺れる。
リン……。
ティン……。
鈴みたいな音の中に、時折低く濁った音が混ざった。
……ドォン。
「姫様、夜庭は冷えます!」
「どうかお戻りくださいませ!」
侍女達の慌てた声が響く。
その中心で、フローレンス姫は、白い外套を抱えながら困ったみたいに笑っていた。
「でも、気になるわ」
「気になるで来る場所じゃねぇだろ」
カイルの呆れた声が続き、姫はぱち、と目を瞬かせる。
「……来ては駄目?」
「いや、駄目とは言ってねぇけど」
その横を、ディオンは静かに通り過ぎた。
庭園中央の白い石卓。
そこへ並ぶ、小さな輪菓子達。
星型、花型、半月型、それぞれ違う形をしている。
しかし、真ん中に置かれた“ド”の輪だけは、綺麗な円だった。
――本来なら。
今は、その一部が欠けている。
「……あ」
小さな声に視線を落とすと、石卓の陰で何かが動いた。
透き通る羽、雪みたいな銀髪の小指ほどの妖精だったが、妖精はこちらと目が合った瞬間、小さく身を竦める。
「おい」
カイルが目を丸くした。
「今、喋ったか?」
フローレンス姫も息を呑む。
「……そんな」
かすかな驚き。
「妖精は、人と滅多に言葉を交わさないのに」
妖精は怯えるみたいに花弁の陰へ隠れかける。
けれど、ディオンを見上げたまま、小さく震えていた。
「……おこらないの?」
けれど、その表情はどこか怯えている。
俺は首を横へ振る。
「違う」
妖精は、少しだけ目を丸くした。
「お前は、どうしたい」
氷色のフクシアが、寂しそうに揺れる。
……ドォン。
濁った音に、妖精は欠けた輪を抱き締めた。
「……歌いたい」
小さな声。
「みんなと、ちゃんと歌いたい」
その時だった。
リネが、石卓の下へ視線を落とす。
「……ディオン」
リネが雪を払ったその下には、白い石畳へ絡みつくように、紫色の蔓が広がっていた。
歪んだ時計草。
放射状に開く花糸が、脈打つみたいに揺れている。
カチ……カチ。
花弁が開くたび、フクシアの鈴音が、微かに濁った。
フローレンス姫が、小さく息を呑む。
「……やっぱり」
そして、欠けた“ド”の輪へ視線を向けた。
「なら、作り直しましょう」
カイルが顔を上げる。
「は?」
「“ド”の輪を」
姫は、どこか真剣な目をしていた。
「始まりの輪なのでしょう?」
夜風が吹き、妖精の氷色の髪が揺れる。
「だったら、もう一度作ればいいわ」
リネが、小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
白炎が、静かに灯る。
「火は使える」
「水ならその辺にいくらでもあるぞ」
カイルが雪解け水を指差した。
「力仕事もやってやる」
「雑にするなよ」
「しねぇよ!」
フローレンス姫が、欠けた輪へそっと触れる。
「妖精の輪菓子は、ソラーナで春を迎える時に必ず作るものなのです」
姫は、銀色に淡く光る粉蜜をスプーンですくった。
「これは、“鈴粉蜜”」
「夜鈴蝶という蝶が、月夜の花から集める蜜ですわ」
月明かりを受け、蜜粉がきらきらと輝く。
「妖精達は、自分の音を宿した輪しか食べられないのです」
「“レ”の子には“レ”の輪」
「“ミ”の子には“ミ”の輪」
姫は、欠けた“ド”の輪へ視線を落とした。
「そして、“ド”の子には“ド”の輪だけ」
妖精達は小さく呟く。
「だから、誰も代わってあげられないの」
「“ド”の輪は、“ド”の子しか食べられないから」
「……なら、作るしかねぇな」
カイルが袖を捲る。
その横で、侍女達が少し離れた場所から息を呑んでいた。
「ひ、姫様が……」
「ご自身で生地を……!」
「しかも、殿方と一緒に……!」
フローレンス姫は気にした様子もなく、生地へ雪解け水を注ぐ。
「カイル、それでは少し強すぎます」
「え?」
「生地が怒ってしまいますわ」
「生地って怒るのか?」
「怒ります」
真顔だった。
カイルが困惑した顔で生地を見る、その様子が少し可笑しくて、フローレンス姫は小さく笑った。
リネが火加減を調整する。
白炎が、静かに生地を温めていった。
鈴粉蜜、雪解け水、春待ち花の花弁。
俺は、生地を整えながら小さく目を細める。
薬草学の調合と似ている。
やがて、小さな円形の生地が焼き上がった。
けれど、完全な輪にはしなかった。
ディオンは静かにナイフを取り、“ド”の輪と同じ欠け方になるよう切り取る。
欠けた輪、そして、新しく作った欠片。
まるで、失われた音を埋めるみたいだった。
「……ぴったり」
フローレンス姫が、小さく息を呑む。
俺は何も言わず、欠けた部分へ静かに嵌め込んだ。
その瞬間、カチ、石卓の下の歪んだ時計草が、小さく脈打つ。
花弁の陰から、“ド”の妖精が恐る恐る顔を覗かせた。
「……たべても、いいの」
ディオンは静かに頷く。
「お前の輪だ」
小さな妖精は、震える手で輪を抱える。
それから、ドの妖精はそっと、一口齧った。
風が吹く。
……ド。
小さな音。
けれど今度は濁らなかった。
氷色のフクシア達が、一斉に鈴を鳴らす。
リン……。
ティン……。
リン……。
重なった音は、夜空へ還っていくように溶けていく。
“ド”の妖精は、目を丸くすると、泣きそうに笑った。
「……うたえた!」
その瞬間、白い石卓の下で脈打っていた時計草が、ゆっくり萎れていく。
紫色の花弁が閉じ、絡みついていた蔓も、静かに色を失っていった。
カチ……。
やがて、秒針が止まると、透明なネズミ達も小さく鳴きながら雪みたいな光へ変わっていく。
キィ……。
どこか安心したみたいな声。
時喰いのネズミは、夜風へ溶けるように消えていった。
しかし、時計草だけは、完全には消えなかった。
石畳の隙には、萎れた紫の花が、ひっそり残っている。
ディオンは静かにしゃがみ込む。
そっと指先で、その花弁へ触れた。
冷たい、けれどもう、あの嫌な脈動は感じない。
春に向かう風が吹くと、氷色のフクシア達が、鈴みたいに揺れた。
ディオンが、フクシアの音を聞きながら、静かに口を開いた。
「――あるべき音へ」
萎れた時計草が、淡く光を帯び、紫色の花弁が、きらきらと雪みたいな粒へ変わっていく。
さら……さら……。夜風へ舞い上がった光は、そのまま静かに消えていった。
あとには、白い石畳と、雪解け水だけが残る。
そして、今度の“ド”は、ちゃんと、皆と重なっていた。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド
氷色のフクシア達は、夜風へ優しく揺れている。
その音は、まるで雪解けを祝う小さな夜想曲だった。
始まりであり、終わりを還す音。
巡りの最初の一音。
雪庭で響く鈴音へ、三人とフローレンス姫は静かに耳を傾ける。
やがて夜風が吹き抜けると、フクシア達は、どこか嬉しそうに揺れていた。




