第28話 「還る秒針」
時計塔が、低く唸る。
ギギギギ……。巨大な歯車が、不自然な音を立てて軋んだ。
赤い目が、一斉にこちらを向いているが、敵意ではない。
どちらかと言えば、焦っているように見えた。
「……おい」
カイルが剣へ手を掛ける。
「来るぞ」
透明なネズミ達は、一斉に駆けたが、向かってきた訳じゃない。
歪み時計草の中心へ飛び込むと、紫の花弁が不気味に脈打った。
キキキキキッ!! 必死に喰っている。
花の奥で渦巻く、“何か”を。
時計草の中心。
そこだけ、黒く濁っていた。止まり切れなかった時間が、泥みたいに淀んでいる。
透明なネズミ達は、それを削るように喰らっていた。
喰っても喰っても追いつかない。
黒い歪みが、時計塔の床へじわりと広がっていったその瞬間、俺の足元で、時間が歪んだ。
石床へ落ちた水滴が、浮き上がる。
戻っては、落ち、戻っては、落ちる。
巡れていない。
「……まずいな」
リネが低く呟く。
白い炎が揺れる。
「歪みそのものが、時間を閉じ込め始めている」
カイルが顔をしかめた。
「閉じ込めるって――」
その時だった。
カチ……時計の針が止まると、世界が、静まった。
風も、音も、炎さえ止まる。
動いているのは、俺だけだった。
息が止まりそうになる。
視界の端で、透明なネズミ達が苦しそうに鳴いていた。
キキ……キ……喰えない。
処理しきれないほどに歪みが、大きすぎた。
胸の奥で、父の声が響いた。
――還命は、巡りを還す魔術だ。
俺はゆっくり歪みへ手を伸ばす。
冷たい。
触れた瞬間、無数の“止まった時間”が流れ込んできた。
食堂、戻るパン、止まった秒針、遅れた音。
巡れず、余った時間達。
苦しい……溢れそうになる。
「……大丈夫だ」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
ネズミ達が、一斉にこちらを見る。
赤い目が揺れる。
俺は小さく息を吸った。
止まっていた時間、還れなくなった流れ、歪みの中で、苦しそうに鳴くネズミ達。
全部が、ひどく冷たい。
「――光は巡り、命は還る」
声が、時計塔へ響く。
止まっていた歯車が、微かに震えた。
「あるべき場所を違えるな」
黒い歪みが揺らぎ、透明なネズミ達が、一斉に顔を上げた。
「その理に従い――」
胸の奥が熱い。
巡れなかった時間が、指先へ絡みついてくる。
けれど……拒まない。
「今ここに、正す!」
詠唱を唱え終えた途端、白い光が、時計塔を駆け抜けた。
ギギギギギッ――!! 巨大な歯車が震え、止まっていた時計の針が、大きく跳ねた。
カチ、カチ、カチ、カチ……時間が、動き出す。
黒い歪みが、光へ溶けていく。
溢れていた“余った時間”は、ゆっくり元の流れへ還っていった。
透明なネズミ達が、一斉に鳴く。
キキキキキッ!
それはもう、苦しそうな音ではない、どこか安堵したみたいな声だった。
やがて、ネズミ達の輪郭が、少しずつ光へ溶けていく。
まるで役目を終えたみたいに。
最後に、一匹だけ、赤い目のネズミがこちらを見た。
小さく頭を下げるみたいに鳴いて――消えた。
時計塔へ、静寂が落ちる。
遅れて。
ゴォン……
時計塔の鐘が、王都へ響き渡った。
時計塔を出た瞬間、急激な眠気が押し寄せ、足元が少し揺れる。
立っているのが、妙に辛い。
「……ディオン?」
カイルの声が遠い……俺は小さく息を吐いた。
「教官には、報告しておいて欲しい」
リネが僅かに眉を寄せる。
「お前は?」
「少し疲れた」
それだけ言う。
実際、その程度だと思っていたし、還命を使った後は、多少消耗する。
今回も同じだと。
だから、まさか翌朝まで引きずるとは思わなかった。
◇◇◇◇◇
その夜、異様に眠かった。
目を閉じた瞬間、意識が落ちる。
何時間寝ても足りない、深く沈むみたいな眠気だった。
そして翌朝、窓から差し込む光で、ゆっくり目を開けると入ってきたのは、橙色の光、静かな空気。
胸の奥で、不思議と確信した。
――夕方だ。
今日は随分眠ったらしい。
そう思って、再び目を閉じる。
遠くで鐘の音がした気がしたけれど、それも夕鐘だと思いそのまま、また眠りへ落ちる。
どれくらい経っただろう。
不意に、扉を叩く音が響いた。
「ディオン!」
聞き慣れた声? カイルだった。
「おい、いるんだろ!」
返事をしようとして、出来ない。
身体が重いし、眠気が深すぎる。
今度は、扉の向こうでリネの声がした。
「模擬訓練の時間を過ぎている」
静かな声。
けれど少し硬い。
返事がないことを不審に思ったのだろう。
やがて扉が開く音と足音が近づいた。
「……寝てるのか?」
カイルの声。
俺は薄く目を開け、窓の外を見る。明るいはずなのに
頭のどこかでは、まだ夕方だと思っていた。
「ディオン」
リネの声が近く、肩へ触れられたけれど、その温度さえ遠い。
「おい、ディオン!起きろ」
カイルが揺する。
それでも、意識が沈む。
まるで時間そのものへ引き込まれていくみたいに。
「おい、起きろ」
カイルが肩を揺する。
けれど、反応が鈍い。
薄く目を開けても、すぐまた閉じてしまう。
*****
◇
「……ディオン」
リネが静かに名を呼ぶが、ディオンは目を覚まさない。
いつもの眠そうな顔とは違い、呼吸は浅くないし、熱もないのに。
妙に深いことが、気がかりだ。
カイルが眉を寄せる。
「昨日、あんな無茶したからか?」
「……違う気がする」
リネは窓の外を見る。
朝日。
訓練場からは、既に木剣の音が響いている。
完全に朝だった。
ディオンは薄く目を開けたまま、小さく呟く。
「……もう夕方か」
空気が止まる。
カイルが目を瞬いた。
「は?」
リネの視線が、静かに細くなる。
ディオンは眠そうに目を閉じた。
「今日は……よく眠った」
掠れた声。
完全に、時間感覚がずれている。
カイルがゆっくりディオンを見ると、その表情から、軽口が消えていた。
「……おい」
リネは小さく息を吐く。
昨日の時計塔、歪んだ時間、 還命。
脳裏で全部が繋がる。
「……代償か」
小さな呟きだった。
カイルが顔をしかめる。
「そんなもん、聞いてねぇぞ」
「本人も分かっていないんだろ」
ベッドの上で、ディオンはまた眠りへ落ちていく。
その顔は穏やかだった。
だから余計に、不安になる。
どこか別の時間へ引き込まれているみたいで。
「カイル」
リネが静かに振り返る。
「棚の青い瓶を取れ」
「は?」
「魔法薬だ。眠気と感覚阻害を抑える」
カイルが慌てて棚を漁る。
「なんでお前そんな詳しいんだよ」
「騎士生は基礎で習う」
「お前が寝ていただけだ」
「うるせぇ」
ディオンは薄く目を開けたが、焦点が合わないようだ。
薬を飲んでも、眠気が消えない、リネが静かに眉を寄せた。
「……効きが悪い」
カイルの顔から完全に余裕が消える。
「おい、大丈夫なんだろうな」
リネは少し黙る。
窓の外では、朝日が強く差し込んでいるはずなのに、ディオンだけは、小さく呟く。
「……夕焼けだ」
「カイル、教官だ」
リネが低く言ったその時、廊下から、足音が近づいてくる。規則正しい、迷いのない足音。
カイルが振り返る。
「ブリュム教官か?」
だが、扉が開いた瞬間、部屋の空気が変わった。
静かな圧、冷たい視線。
入ってきた人物を見て、リネが僅かに目を見開く。
「……父上」
銀縁の眼鏡を押し上げながら、フェルマは静かに部屋を見渡した。
その視線が、ベッドの上のディオンで止まる。
「報告を受けた」
低い声だった。
リネが一歩前へ出る。
「時計塔の件のあとから、異常な眠気と時間感覚のズレが」
「朝を夕方だと思っています」
カイルが不機嫌そうに付け足す。
フェルマは黙ったままディオンを見る。
その目だけが、僅かに細められた。
“理解している”眼差しだ。
「……還命か」
小さな呟きに、カイルが眉を寄せる。
「知っているんですか?」
フェルマは答えない代わりにベッドへ近づくと、ディオンの額へ、静かに指先を触れさせた。
その瞬間、ディオンの呼吸が僅かに乱れる。
キキキキキッ。どこか遠くで、あの鳴き声が聞こえた気がした。
フェルマの目が、ほんの僅かに揺れる。
「……この子は、時間へ触れすぎたようだ」
静かな声。
その声音に、リネが目を細めた。
「治せるんですか」
フェルマはゆっくり指を離す。
「すぐには無理だ」
低い声だった。
「これは傷ではない。理の反動だ」
部屋が静まる。
カイルが舌打ちした。
「つまり放っとけってことですか!」
「違う」
フェルマは静かにディオンを見る。
「しばらく眠らせなさい。時が経てば自然に目を覚ます」
その言葉だけが、妙に重く響いた。
*****
◇
結局、目を覚ましたのは歪んだ時計を解決した、2日後の昼近くだった。
ようやく目覚めた俺は、窓から差し込む陽光を見た。今度はちゃんと朝と昼の違いが分かる。
「……起きたか」
ベッド脇の椅子へ座っていたカイルが、じろりと睨んでくる。
その隣では、リネが本を閉じたところだった。
「おはよう」
なぜ二人がいるのか気になったが、静かに挨拶をした。
「全然おはようじゃねぇ」
即答だった。
カイルの声が少し掠れている。
どうやら、かなり長時間ここにいたらしい。
俺はゆっくり身体を起こした。
昨日まであった重たい眠気は、かなり薄れている。
時間感覚も戻り、窓の外を見ると、昼だとちゃんと分かる。
リネが静かに息を吐いた。
「……顔色は戻ったな」
「そんなに悪かったのか?」
カイルが机を叩く。
「お前、自分がどんな状態だったか分かってんのか!?」
珍しく本気で怒っていた。
俺は少し黙る。
確かに、昨日の記憶が曖昧だ。
夕方だと思って眠ったこと、二人の声が遠かったこと、時間の感覚が、ぐちゃぐちゃだった。
「……悪い」
小さく言うと、カイルは更に顔をしかめた。
「そういう問題じゃねぇ!」
「お前、危ないなら止まれって言われてただろ」
リネも静かな声で続ける。
「一人で還そうとしたな」
「……それは違う」
俺は小さく首を振った。
「三人で還した」
部屋が静まり、カイルが一瞬だけ目を瞬かせた。
リネも僅かに目を細める。
俺はゆっくり窓の外を見ながら、少し見えた時計棟を眺める。
時計塔は、いつも通り静かだった。
「俺だけじゃ、多分無理だった」
水で輪郭を暴いたカイル、歪みを照らしたリネ。
あの二人がいたから、流れを掴めた。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて。
「……そうかよ」
カイルが少しだけ視線を逸らした。
照れ隠しみたいに頭を掻く。
リネは静かに息を吐いた。
「なら次からもそうしろ」
短い言葉だった。
けれど、その声音は少しだけ柔らかかった。




