第27話 「時を喰う影」
挿し絵の花時計は、おそらく時計塔の時計だろう。
学院中央にある、あの古い塔。
笑う本はまだケラケラ笑っている。
「キキキキキッ! 喰われるぞ、喰われるぞ!」
うるさい。
カイルが露骨に顔をしかめた。
「だから何なんだよ、そのネズミは」
「歪みを喰う!」
本が楽しそうにページを叩く。
「余った時間! 止まった時間! 巡れなくなった時間!」
リネは静かに目を細めた。
「……待て」
低い声だった。
「これは学院だけの問題じゃない」
空気が少し変わる。
リネは挿し絵の花時計を見たまま続けた。
「誰かに報告すべきだ」
その言葉に、俺は小さく視線を落とした。
脳裏をよぎったのは父の言葉。
――還命は、理に触れる魔術だ。
――本来、人が軽々しく扱っていい力じゃない。
夕方の回廊、静かな声。
“覚悟を決めた者だけだ”
胸の奥が、妙にざわついた。この歪みは危険だ。
放置していいものじゃない。
けれど同時に、簡単に広げるべきでもない気がした。
俺は静かに口を開く。
「……ああ」
カイルとリネが同時にこちらを見る。
俺がすぐ同意したのが意外だったらしい。
カイルが瞬きをした。
「お前が?」
「珍しいな」
リネまで言う。
俺は少し考えてから、小さく息を吐いた。
「これは、多分……普通じゃない」
ブリュム教官の部屋へ着いた頃には、学院の空気もどこか張り詰め始めていた。
時計塔の異常。
食堂で起きた歪み。
そして、“時を喰うネズミ”。
ブリュムは話を聞き終えると、すぐに表情を変えた。
「……リネ、時計塔周辺へ生徒を近づけるな」
「はい」
「カイル、お前は巡回中の騎士生へ伝達」
「了解」
短く指示を飛ばしながら、ブリュムは机上の通信魔具へ手を伸ばす。
「本部へ連絡する。これは学院内だけで処理する案件じゃない」
低い声だった。
部屋の空気が静かに重くなる。
俺は黙ったまま、窓の外を見た。
夕方の光が、時計塔を赤く染めている。
――還命は、理に触れる魔術だ。父の声が、まだ耳に残っていた。何を還し、誰がその理を引き受けるか。
胸の奥がざわつき、嫌な感じだった。
その時だった。
「……ディオン」
ブリュムの声に、顔を上げる。
教官は通信魔具から手を離し、真っ直ぐこちらを見ていた。
静かな目だった。
「お前、何か分かっているな」
カイルとリネが同時にこちらを見る。
俺は少し黙る。説明できる訳じゃない。ただ、嫌な感覚かわあるだけだ。
ブリュムは小さく目を細めた。
「いつもと違う顔をしている」
低い声。
逃がさないみたいな視線だった。
「……できるのか?」
ブリュムの静かな問いが落ち、部屋が静まる。俺はゆっくり時計塔を見る。
夕陽の中、塔の時計だけが、微かにずれて見えた。
「……わかりません」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「父から聞きました。簡単に使って良いものではないと」
ブリュムは黙って聞いている。
俺はゆっくり時計塔へ視線を向けた。
夕陽の中、針だけが、微かに歪んで見える。
「でも」
小さく息を吐く。
「もし、できるなら」
胸の奥で、あの言葉が静かに響く。
――光は巡り、命は還る。
「……止まっているものを、巡らせたい」
部屋が静まる。
カイルが何か言いかけて、止まった。
リネも黙っている。
ブリュムだけが、静かにこちらを見ていた。
まるで。
今、初めて“ディオン・リュミエール”という存在の一端を見たみたいに。
ブリュムはしばらく黙っていた。
窓の外では、夕陽が時計塔を赤く染めている。やがてブリュムは、小さく息を吐いた。
「……ならば、行け」
低く、はっきりした声にカイルが顔を上げる。ディオンの言葉を聞いたあと、静かに考え込んだ。
「……変更だ」
カイルが振り返る。
ブリュムは腕を組み、低く言った。
「封鎖は上級生へ引き継がせる」
空気が少し変わる。
「お前達三人は、ディオンと共に動け」
リネも僅かに目を細める。
ブリュムは真っ直ぐ俺を見る。
「ただし」
空気が静まった。
「危険だと判断したら止まれ」
静かな声音だが、それは命令だった。
「お前一人で抱え込むな。還せなくなるぞ」
胸の奥が僅かに揺れる。
俺は少し黙ってから、小さく頷いた。
「……はい」
するとブリュムは机へ寄りかかり、腕を組む。
「カイル、リネ」
「はい」
「お前達も行け。絶対に一人にするな」
カイルが小さく笑った。
「言われなくても」
リネも静かに頷く。
「承知しました」
その瞬間だった。
キキキキキッ。
どこか遠くで、あの鳴き声が響いた気がした。
時計塔の螺旋階段を、三人で上がっていく。
古い石段は薄暗く、足音だけが静かに響いていた。
上へ行くほど、空気が妙に重い。それは、まるで時間そのものが淀んでいるみたいだった。
その時、カチ、カチ、カチ、カチ……。
時計の針が刻む音。
その中へ、不意に別の音が混ざる。
――キキキキッ。
空気を引っ掻くような、甲高い鳴き声だった。
カイルが即座に顔をしかめる。
「……まただ」
リネも静かに辺りを見回す。
俺は足を止めた。
階段の隙間の暗闇の奥で、一瞬だけ何かが動く。
透明な歪み。
その中心で、赤い目だけがこちらを見ていた。
時計塔の螺旋階段を上がるたび、空気の歪みが濃くなっていく。
カチ、カチ、カチ……時計の音。
その奥で、キキキキキッとあの鳴き声が響いた。
カイルが顔をしかめる。
「……何なんだよ、あれ」
暗闇の隙間を、透明な何かが走る。
俺は小さく息を吐いた。
「あれは……掃除屋だ」
二人がこちらを見る。
「敵、じゃない」
「は?」
カイルが眉を寄せる。
その横で、リネは静かに考え込んでいた。
やがて、小さく口を開く。
「世界が壊れないように、“余った時間”を処理しているのか」
静かな声だった。
俺は頷く。
「……多分」
胸の奥がざわつく。
時計塔全体が、どこか軋んでいるみたいだった。
「でも」
俺は暗闇へ視線を向けた。
「歪みが大きすぎて、喰いきれなくなった」
キキキキキッ。
鳴き声が重なる。
「喰えなかった時間が、溢れ出した」
カイルが嫌そうに顔をしかめた。
「……つまり?」
短い沈黙。
俺は時計塔の奥を見る。
歪んだ針、狂った音、止まりかけた巡り。
「ネズミと時計を還す」
小さく呟く。
その瞬間、時計の音が僅かに揺れた気がした。
リネが静かに周囲を見回す。
「厄介なのは、姿が見えないことだな」
「……なんとなく」
自分でも曖昧だと思うけれど、歪んだ場所だけ、空気が違う。巡れなくなった時間が、そこへ淀んでいる。
「流れで分かる」
リネは少し考え込んでから、静かに口を開いた。
「なら、追い込む」
「どうやって?」
カイルが聞く。
リネは短く答えた。
「ああいう類は、暗く淀んだ場所を好む」
蔓が絡まる時計塔の古びた壁へ視線を向ける。
「逆に、明るい場所や、浄化された空間は苦手なはずだ」
カイルが小さく笑った。
「なるほど。掃除屋なのに綺麗な場所嫌いなのか」
「“余り物”がないからな」
リネは淡々と返す。
「ディオン、お前が歪みを探せ」
静かな目が向けられる。
「俺とカイルで、流れを作る」
その言葉に、俺は少しだけ目を瞬いた。
昔の俺なら、多分一人で行こうとしていた。
「……分かった」
今は、二人がいる。
キキキキキッ。鳴き声が、時計塔の奥で重なる。
これは、一匹じゃない。気配が増えている。
俺は静かに目を細めた。
空気の流れが、おかしい。
歪みが、幾つも絡まっている。
「……思ったより数が多い」
カイルが顔をしかめる。
「冗談だろ」
暗闇の隙間で、透明な歪みが蠢いていた。
見えない。だが、時間の流れだけが、そこだけ濁っている。
不意に、壁際の空気が揺れ、俺は即座に顔を上げる。
「あそこだ!」
リネがすぐ反応する。
「カイル! 水だ!」
「了解!」
次の瞬間、カイルの水魔術が空中へ広がった。
薄い水膜が時計塔の空間を走る。
すると。
キキキキキッ!?
水面が、不自然に歪み、透明だった輪郭が、僅かに浮かび上がる。細い身体、長い尻尾、赤い目。
「見えた」
リネが静かに手を上げた。
「――照らせ、白炎」
白に近い炎が、床を滑るように広がる。
熱というより、光だった。
炎は歪みだけを炙り出すように、時計塔の暗闇を走っていく。
キキキキキッ!?
透明なネズミ達が一斉に悲鳴を上げた。
空気が揺らぎ、歪んだ時間の流れが、炎に照らされ浮かび上がっていく。
「やはりか」
リネが静かに目を細める。
「綺麗な流れを嫌っている」
ネズミ達は炎を避けるように、時計塔の奥へ逃げていくけれど、その先の時計塔の最上部から、ひどく嫌な気配が流れていた。
ネズミ達は、白い炎を避けるように時計塔の上へ逃げていく。
キキキキキッ キキキキキキッ。
複数の鳴き声が重なる。
螺旋階段を駆け上がるたび、空気の歪みが濃くなっていった。
どうも時計の音が、おかしい。
カチ、カチ、カチ……進んでいるのに、どこか噛み合っていない。
時間そのものが軋んでいるみたいだった。
やがて、最後の階段を上り切った、時計塔最上部。
重たい扉の向こうには、巨大な時計機構が広がっていた。
無数の歯車、絡み合う振り子、古びた針。
その全てが、狂ったように動いている。
いや、“動き続けてしまっている”。
止まれないみたいに。
そして、時計塔中央。
歪んだ時計草の蔓が、巨大な歯車へ絡みついていた。
細長い蔓は秒針みたいにしなやかで、歯車の隙間を這うように伸びている。
深い紫色の花。
幾重にも重なる花弁は時計盤みたいな円を描き、その中心から放射状に細い糸のような花糸が広がっていた。
カチ、カチ。
花弁そのものが、脈打つみたいに揺れる。
まるで花が時を刻んでいるみたいだった。
紫の花は、歯車へ絡みつくたび微かに開閉を繰り返す。
その度に、空気が歪む。
まるで時計そのものを侵食しているみたいだった。
巨大な歯車の隙間に、“それ”はいた。
透明なネズミ達が、群れになって集まっている。
まるで何かを喰らうようだ。
空気が歪み、時計の針が、一瞬だけ逆へ動いたその瞬間、俺は息を止めた。歯車の中心だけ、時間の流れが淀んでいる。
黒く、濁った水みたいに、巡れなくなった時間が溜まり続けていた。
「……なんだ、あれ」
カイルが低く呟く。
リネも険しい顔をしている。
俺は静かに目を細めた。
分かる……あれが、歪みの核……。
ネズミ達は、あれを喰っている。
だが、全て喰い切れずに溢れている。
キキキキキッ!! 不意に、ネズミ達がこちらを見た。
赤い目が、一斉に光る。
その瞬間、時計塔全体が、大きく軋んだのだった。




