第24話 「フローレンス姫と深紅の薔薇」
王都へ続く白い街道を、馬車は静かに進んでいた。
窓の外では、初夏の風が緑を揺らしている。
色濃くなり始めた木々の葉が陽光を受け、きらきらと輝いていた。
「……暖かいわね」
私が呟くと、向かいに座っていた兄さま――アウレリオ・ソラーナ・ニエベス皇太子が書類から顔を上げた。
「セレノアはもう少し涼しいと思っていたが」
「兄さまが暑がりなだけでは?」
兄さまは小さく肩を竦める。
相変わらず堅い人だ。
幼い頃から、兄さまはいつも“皇太子”だった。
今回のセレノア王国との外交目的。表向きは友好関係の確認だが、王宮中が期待しているのは、もう一つ。
セレノア王国第一王子、エリアス殿下と私フローレンス·ソラーナ·ニエベスの婚約話。
もっとも、
私は最初から恋物語になるとは思っていない。
王族とはそういうものだから。
国を背負い、笑い、必要なら手を結ぶ。
それだけ。
「……随分と警備が多いわね」
窓の外へ視線を向ける。
城門前には騎士だけでなく、騎士学院の騎士制服姿まで並んでいた。
「学生まで動員しているのか」
兄さまも僅かに視線を鋭くした。
その列の中に、一人だけ妙に静かな少年がいた。
黒髪に深い青の瞳。
周囲みたいに緊張している様子もなく、
まるで別の音を聞いているみたいな顔で、風に揺れる旗を見ていた。
「……変な子」
思わず呟く。
するとその少年が、不意にこちらを見上げた。
目が合う。静かな目だけれど、妙に印象に残った。
馬車がゆっくりと速度を落とし、やがて、城門前で静かに止まった。
重厚な門が軋む音を立てながら開かれていく。
その隙間から、初夏の風がふわりと吹き込んだ。
木々の緑と柔らかく爽やかな風、花の香りがした。
◇◇◇◇◇
翌日の晩。シャンデリアの灯りが、金の装飾を柔らかく照らしていた。
長い卓には色鮮やかな料理が並び、楽団の演奏が静かに広間を満たしている。
外交の晩餐会らしい、華やかな空気。
けれど、その奥では皆きちんと互いを観察していた。
王族、貴族、騎士、外交官。
笑顔の裏で、誰もが相手の言葉を測っている。
私はグラスを傾けながら、正面へ視線を向けた。
エリアス殿下は、噂通り綺麗な人だった。会うのは幼少の頃以来だ。
淡い銀の髪に、静かな微笑み、隙のない所作。
(……右手)
グラスへ触れる瞬間だけ、ほんの僅かに動きが鈍る。
隠しているのだろう。
(周囲は気づいていないのね)
あるいは、気づかない振りをしている。
その時だった。
少し離れた位置で控えていた黒髪の騎士生――ディオンと目が合う。
彼も、同じ場所を見ていたけれど、私は何も言わない。
ただ、静かにグラスを置き、
「エリアス殿下」
声をかけると、殿下は穏やかにこちらを見る。
「この国の葡萄酒は有名なのでしょう?ぜひおすすめを教えてくださいな」
その瞬間、広間の視線が自然とこちらへ流れた。
ほんの一瞬だけ、エリアス殿下の右手から、空気が逸れる。
殿下はそれに気づいたのか、僅かに目を細めた。
「ええ。でしたら、白葡萄を使ったものを」
「まあ、素敵。白葡萄の果汁酒、とても香りが良いと聞きました」
私は微笑む。まるで何も知らないみたいに。
けれど、彼だけは、静かにこちらを見ていた。
すると、楽団の音色が、ゆったりと広間へ流れていく。談笑していた貴族たちが少しずつ壁際へ下がり、中央の空間が空く。
舞踏の時間らしい。
私はグラスを置き、小さく息を吐いた。
すると正面から、静かな声が落ちる。
「――一曲、お願いできますか」
声がした方へ顔を上げると、
エリアス殿下が、穏やかにこちらへ手を差し出していた。銀糸のような髪が、シャンデリアの灯りを受けて淡く光っている。
(綺麗。雪みたいね)
周囲から静かに息を呑む気配がした。
私は少しだけ笑って、ゆっくりとその手を取った。
「喜んで」
音楽が変わる。
ゆっくりと、私たちは広間の中央へ出た。エリアス殿下の手は思っていたより冷たい。手袋越しでも感じるけれど動きは美しかった。
隙がなく、静かで、完璧。
まるで最初から“王子”として作られてきた人みたいに。
「お上手ですね」
「そちらこそ」
「外交用に叩き込まれましたの」
「私も似たようなものです」
小さく笑う。
けれど、その瞬間、ほんの僅かに、殿下の右手から力が抜けた。一瞬だけの出来事。多分、他の誰も気づかない。
でも私は自然に歩幅を変えた。回転を緩やかにして、殿下側へ負担が寄らないよう流れを整える。
エリアス殿下が僅かに目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「何のことかしら?」
私は何も知らない顔で微笑むと、殿下は少し黙ってから、小さく笑った。
初めて見る表情だった。
作られた微笑みではなく、本当に少しだけ肩の力が抜けたみたいな笑み。
その時、視線を感じる。
広間の端に黒髪の騎士生――ディオンが、静かにこちらを見ていた。
(不思議な子。殿下のこと、よく見ているのね)
私は、殿下にお辞儀をしてそっと手を離した。
*****
晩餐会の喧騒から少し離れた回廊は、驚くほど静かだった。
窓の外では、夜風が庭木を揺らしている。
エリアスは小さく息を吐き、壁際へ背を預けた。
「お疲れのようですね」
低い声が落ちる。
振り返ると、アウレリオ・ソラーナ・ニエベス皇太子が立っていた。
手にはグラス。
橙色の灯りが、雪国の王子らしい淡い金髪を柔らかく照らしている。
「……そちらこそ」
エリアスが返すと、アウレリオは小さく笑った。
「外交というのは、どうにも肩が凝る」
「同感です」
けれど不思議と居心地は悪くなかった。
アウレリオは窓の外へ視線を向ける。
「妹がお世話になっております」
「フローレンス姫なら、こちらの空気にも随分慣れておられるようだ」
「あれは昔から、どこへ行っても変わりません」
どこか呆れたような声だった。
だが、その奥には兄としての柔らかさが滲んでいる。
「……強い方ですね」
エリアスがそう言うと、アウレリオは少しだけ目を細めた。
「ええ。ですが、あれでもよく周囲を見ています」
その言葉に、エリアスは静かに視線を落とす。
まるで見透かされたみたいだった。夜風が吹く。
ふと、アウレリオが口を開いた。
「エリアス殿下」
「はい」
「妹は、あなたを哀れんではいませんよ」
空気が止まった気がした。
エリアスは何も言わない。ただ、静かにアウレリオは続ける。
「むしろ――安心しているのでしょう」
「安心?」
「ええ。“誤魔化すのが上手い人だ”と」
思わず、エリアスは小さく笑った。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「その方がよろしい」
アウレリオも笑う。王族同士の会話だった。
腹を探り合いながら、それでもどこか本音が混ざる。
そんな静かな夜だった。




