第22話 「春を待つ白」
石畳を踏む音だけが、静かな墓地に響いていた。
朝靄はまだ薄く残り、白い墓標の輪郭をぼやけさせている。
風が吹くたび、木々がかすかに揺れた。頬に触れる風は、冬の冷たさをわずかに残しながらも、どこか柔らかい。
俺は墓前へ鈴蘭の花束を置き、小さく息を吐く。
石碑には『オリヴィア·リュミエール』と刻まれている。
白い花は俯くように咲いていた。
まるで、音を隠しているみたいだと思う。
鈴の形をしているのに、鳴らない花。
それでも風に揺れるたび、どこか遠くで小さな音がした気がした。
(母さん……騎士学院に入った。友人もできたよ……。)
「……鈴蘭か」
ふと、背後から声が落ちる。
振り返ると、スノードロップの花束を抱えたリネが立っていた。
スノードロップが朝の光を受け、淡く揺れている。
「リネ」
「……ディオンか」
リネは俺の持つ鈴蘭へ視線を落としたあと、墓標へ目を向ける。
「誰のだ?」
「母親」
短く答えると、リネはそれ以上聞かなかった。
代わりに、自分の抱えたスノードロップの花束を少し持ち直す。
「リネも……か」
「妹と似てる花なんだ」
「……妹?」
「ああ。リリィ」
初めて聞く名前だった。
だが、不思議と妙に納得する。真っ白なスノードロップを抱える姿が、どこかその名に似合っていた。
リネはスノードロップに視線を落とし、静かに話す。
「双子の妹だよ。病で亡くなった」
静かな声だった。
双子と聞き、自然とリネとよく似た姿を想像する。
理知的で、隙のない――そんな印象しか浮かばない。
顔に出ていたのだろうか、リネは小さく息を吐いた。
「俺とは似てないよ。のんびりした子だ」
その言い方が、少しだけ優しかった。
しばらくスノードロップを見つめていたリネが、小さく息を吐く。
「……実感、沸かなかったんだ」
ぽつりと落ちた声は、いつもより低い。
「俺より、父の方がひどい状態だった」
風が吹く。
雪のようなスノードロップが揺れ、リネは目を伏せた。
「父は、ずっと妹の傍から離れなかった」
その名を聞いた瞬間、脳裏に浮かぶ。
今よりずっと若い、フェルマの姿が。
◇◇◇◇◇
数年前……
白いカーテンが、春の風にわずかに揺れていた。
窓辺に置かれた花瓶には、小さなスノードロップが数本。
その向こうで、リリィがベッドの上から不満そうに頬を膨らませる。
「お父さま、また薬増やしたでしょう」
「減らしたら怒るくせに」
「だって苦いもの」
フェルマは呆れたように息を吐きながら、小瓶を机へ置いた。今よりずっと若い。
けれど目元には、既に深い疲労が滲んでいる。
「苦くても飲みなさい。お前はすぐ誤魔化そうとする」
「お兄さまは、飲まなくても平気なのに」
「リネは健康だからな」
「ずるい」
拗ねた声に、フェルマは小さく笑った。
その笑みは、今の彼よりずっと柔らかい。
リリィは少しだけ身体を起こし、窓の外へ目を向ける。
「……春ですね」
「ああ」
「外、行きたいなぁ」
その言葉に、フェルマの手が止まる。
ほんの一瞬だった。
けれど、確かに、リリィはそれに気づいていたのか、小さく笑う。
「そんな顔しないでください」
「していない」
「してます。お父さま、すぐ分かりやすい顔するから」
「……誰に似たんだか」
「お父さまですよ」
くすくすと笑う声が、静かな部屋へ落ちる。
窓の外では、風に揺れた木々が、柔らかな音を立てていた。
*****
刻一刻と時は過ぎていく。翌年の春……。
薄い陽が差し込む病室で、リリィはいつものように笑っていた。
「お父さま、そんな顔してると患者に嫌われますよ」
「誰のせいだと思ってる」
「私ですねぇ」
くすくすと笑いながら、リリィは薬を受け取る。
細い指先だった。
少し前より、明らかに痩せている。
それでもフェルマの前では、なるべく明るく振る舞っていた。
「今日はちゃんと飲みます」
「……本当か?」
「本当です。だからそんな怖い顔しないでください」
薄い陽が差し込む病室で、リリィはいつものように笑っていた。
そこへ、静かに扉が開く。
「まあ。またリリィに負けているの?」
柔らかな声と共に入ってきたのは、淡い色のショールを羽織った女性だった。
リリィの母だ。
手には、小さな花束を抱えている。
「母さま」
「今日は鈴蘭を見つけたの。お部屋に飾りましょうね」
白い小花が、陽を受けて揺れる。
リリィは嬉しそうに目を細めた。
「かわいい……」
「でしょう?」
母親は花瓶へ鈴蘭を挿しながら、何気ない調子で言う。
「でも毒があるから、口には入れちゃ駄目よ」
「分かってます」
「お前は分かっていて妙なことをするからな」
フェルマが低く返すと、リリィは不満そうに頬を膨らませた。
「ひどいです」
「事実だ」
そのやり取りを見て、母親は小さく笑う。
病室には、一瞬だけ穏やかな空気が流れた。
まるで、本当に春が来たみたいに。
けれどフェルマだけは、鈴蘭へ向けた視線をすぐ逸らした。
その横顔を見て、リリィはほんの少しだけ笑みを弱める。フェルマは答えない。
代わりに、乱れた毛布を静かに直す。その手つきは丁寧だった。
まるで、少し力を入れるだけで壊れてしまうものに触れるみたいに。リリィはその横顔を見上げ、ふっと目を細める。
「お父さま」
「なんだ」
「春になったら、お庭に出たいです」
返事はすぐには返ってこなかった。
フェルマはただ、薬瓶を握る指先に僅かに力を込める。
「……ああ」
やがて落ちた声は、掠れていた。
リリィは、それ以上何も言わずに笑った。
父の前では、笑っていたかった。
けれど、
部屋を出るフェルマと入れ替わるように、リネが入ってくると、その笑顔が少しだけ崩れる。
「……また無理してる」
「してないよ」
「してる」
リネは眉を寄せたまま、ベッド脇へ腰掛ける。
リリィは少し困ったように笑ってから、ぽつりと呟いた。
「ねぇ、リネ」
「なんだ」
「私、来年の春までいけるかな」
その声は小さい。
フェルマの前では決して零さない、弱い声だった。
*****
薄い呼吸音だけが、静かな病室に残っていた。
窓の外では、雪混じりだった景色が少しずつ色を失い始めている。
春は、もう近かった。
ベッド脇に座るフェルマは、ずっとリリィの手を握っていた。
細い。
あまりにも、軽い。
その隣では、母親が震える指先を必死に組み合わせている。泣き声を堪えるみたいに、何度も唇を噛んでいた。
「……お父さま」
掠れた声が落ち、フェルマはすぐに顔を上げた。
「ここにいる」
「知ってます」
リリィは小さく笑う。
昔みたいに、柔らかく。
けれどその笑顔は、息をするだけでも崩れてしまいそうだった。
「お庭、行けませんでしたね」
「行ける」
フェルマは即座に返す。
「春になれば、お前は――」
言葉が止まった。
薬草も、術式も、祈りも、試せるものは全て試した。
それでも、命は少しずつ零れ落ちていく。
止められない。
リリィはそんな父を見つめ、そっと目を細めた。
「お父さま」
「……喋るな」
「最後くらい、言わせてください」
フェルマの指先が震える。だが、決して離さない。
離せなかった。
リリィは小さく息を吸った。
「私、お父さまの子で、幸せでした」
その瞬間、フェルマの呼吸が止まる。
「だから、そんな顔しないで」
弱い声だった。
けれど、精一杯笑っていた。いつものように、
父を安心させるために。
それから、ゆっくり視線を隣へ向ける。
「……母さま」
名前を呼ばれた途端、母親の肩が震えた。
「っ、なあに……?」
声が、もう泣いている。
リリィは少し困ったみたいに笑った。
「泣かないでください」
「無理よ……そんなの……」
堪えきれず零れた涙が、リリィの手へ落ちる。
リリィは弱々しく指を動かし、母親の手にそっと触れた。
「鈴蘭、綺麗でした」
春になったら、お庭に出たい。
そう言っていた日のことを思い出しているのだろう。
「また、一緒に見たかったなぁ」
母親は何も言えなかった。
ただ、何度も頷く。
その姿を見て、リリィは安心したように目を細めた。
それから、ゆっくりとリネを見る。
「リネ」
「……なんだ」
「ちゃんと食べてね」
「お兄さまのオムライス、美味しいよ」
小さく笑う。
掠れた声なのに、不思議といつもの調子だった。
リネは俯いたまま、何も答えない。
「……ああ」
窓辺のスノードロップが、風に揺れる。
白い、小さな花。
春を待つ花。
リリィの指先が、僅かにフェルマの手を握り返した。
「お父さま」
呼ばれる。
幼い頃から、何度も呼ばれた声だった。
「――だいすきです」
小さく。
本当に小さく。
それきり、呼吸音が途切れた。
室内に静寂が落ちる。
フェルマは動かなかった。
握った手を離さないまま、ただそこにいる。
理解を拒むみたいに。
春の風が、窓を揺らした。
スノードロップが、静かに咲いていた。
それでも。
もう、届かなかった。
◇◇◇◇◇
「スノードロップは、希望の花らしい」
「……希望、か」
俺はその言葉を、心の中で反芻する。還ることと、再び芽吹くことは似ている。
根は土へ還り、季節が環れば、また芽吹く。
リネが鈴蘭へ視線を落とす。
「鈴蘭は、“再び幸せが訪れる”だったな」
「詳しいんだな」
「薬学で少し、な」
実際は、それだけじゃない。鈴蘭には毒がある。
可憐な花ほど、気をつけなければならない。
父のフェルマなら、きっとそう言う。
春風が吹くと鈴蘭が揺れ、スノードロップが揺れ、木々が揺れた。
音はしない。
「……誰かが笑った気がした」
ぽつりと零した言葉に、リネがわずかに目を細める。
いつもより少しだけ柔らかな気がする。
◇◇◇◇◇
還したくない。まだ、やれる。繋ぎ止めたい。
その執着だけが、今も胸の奥に残り続けている。
フェルマは静かに窓辺へ歩み寄った。
王宮の高い窓から見える空は、どこまでも青い。
春が近い。
風に揺れる庭木の枝先には、小さな芽が覗いていた。
季節は環る。
命は還る。
そんな理など、嫌というほど知っている。
知っていて――なお。フェルマは目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、白い病室と掠れた声。
『お父さま』
最後まで笑っていた、小さな娘。
窓辺に咲くスノードロップ。
握ったまま冷えていった、細い手。
「……私は」
掠れた声が零れた。王宮の静寂へ、溶けるように。
「私は、まだお前を還せない」




