第19話 「王家の根」
冬季休暇は、もう間もなく終わろうとしている。騎士学院は、まだ休校中で生徒もまばらだった。
人の気配が少ないからこそ分かった。訓練場から森の旧寮へ帰ろうとした時、囲まれていることに。
「さすがのお前でも、無理だろ」
背後に一人、
「見つかる前にやるぞ」
もう一人に挟まれている。
だが、問題ない。
俺は一人目に向かって踏み込むと、剣を弾く。かえす剣で、そのまま相手に打ち込んだ。男の体勢が崩れた。そのまま、剣を落とす。金属音だった。
鞘から抜かれた剣に視線を向けると、真剣だった。
「……おい」
誰かが、引く。
「そこまでやる気か」
「関係ないだろ」
低い声。
「どうせ、見つからない」
こいつら馬鹿かと本気で思う。
二人目が剣を振りかぶってきたが、動きが遅かった。
打ち込む前に、入ると俺は相手の腕を取って崩す。
三人目は、間合いが甘くて踏み込みが浅い。
相手の剣が、地に落ちる音が響き渡るだけだった。端から見れば、学生同士の稽古にしか見えなかったことだろう。
数人程度では、真剣だろうと変わらない。無駄が多くて欠伸すら出る。
「真剣は許可がいる。知らないのか」
それだけだ。
そう言い残し、俺は背を向けた。
力の差は理解したはず--この時の俺はそう思っていた。
冬季休暇は終わり、騎士学院には緊張と活気が戻っていた。早朝、学院への道を歩いていると、背後で気配が弾けた。
振り返るより先に、腕を取られる。後ろ手に縄をかけられた。
「――っ」
足を払われ、体勢が崩れる。倒れる直前、複数の中に、フードを目深にかぶった影が見えた。視界の端で、刃が光る。
「動くな」
それは、低い声。逃げる間もなく、腕を引かれると林道を歩き、湖の前に立たされた。
(……落ちる!)
そのまま――水へ放り出された。
落ちる、と理解した瞬間にはもう遅かった。
背を押された感触と同時に、視界が反転する。水面が迫り、次の瞬間、全身に衝撃が走った。
冬の冷たい水に、息が止まる。
水の中は暗く、音が遠かった。上下の感覚が曖昧になるが、すぐに立て直す。上は分かる。光のある方だ。
(はやく……立て直せ!)
体は気持ちとは裏腹にどんどん沈んでいった。
(くそっ!手が……)
縄で強く縛られているから、腕が動かない。足も同じだ。力を入れても、緩む気配はない。
息が……もちそうにない。
そう思ったが、わずかに違和感があった。水が、拒まない。肺が焼けるような苦しさが、まだ来ない。
おそらく腕輪と宝石の力だろう。
完全ではないが、時間を稼げる。それだけで十分だ。
体を捻り、視線を巡らせる。岩!あった。手首を無理やり寄せ、縁に押しつける。
一度、二度と擦っても縄は簡単には切れない。繊維がわずかに毛羽立つだけだった。それでも続ける。
時間は、もうない。視界が揺れ始め、指先の感覚が鈍くなってきた。思ったより早い。
呼吸が、限界に近かったが、それでも、手は止めない。
もう一度、岩に強く押しつけると、繊維が裂ける感触が伝わる。——いける!
次の瞬間、力が抜けた。体は沈み、意識が遠のく。
ゴボゴボ………。まずい。そう思ったところで、水が揺れた。冷たさが、変わる。
何かが、近い。だが、それを確かめる余裕はなかった。視界が暗く閉じていく端に、たゆたう長い髪が見えた気がした。
◇◇◇◇◇
騎士学院の門は再び開かれた。リネ、カイルの二人も再会は久し振りだった。
しかし、初日だというのに講義室にディオンの姿はなかった。単独行動は割りといつものことなので、それほど大したことではない。
だが、時間になっても現れないことは、今まで一度もなかった。
講義の終わりを告げる鐘の音が響いた時、教官のブリュムは顔を上げ、リネとカイルの二人を呼び止めた。
「……リネ、カイル」
短く呼ぶ。
「様子を見てこい」
それだけで、十分だった。二人は席を立つ。言葉は交わさない。ただ、足早に教室を出た。
寮、訓練場、温室、湖の周辺。至るところを探したが
――いない、どこにも。足取りは、残っていない。
「……おかしい」
リネが、低く呟く。
「この時間にいないこともそうだが……痕跡がなさすぎる」
カイルは答えず、ただ、拳を握る。
「……戻るぞ」
二人は教室に戻る。ブリュムは、すでに立ち上がっており、二人の顔を見た。
それだけで、理解した。
「……いないか」
「はい」
短い返答の後の沈黙。その重さが、異常を物語っていた。ブリュムは、ゆっくりと息を吐き告げた。
「――本部に連絡する」
その一言で空気が変わる。ただの欠席ではない“事態”になった。
その日のうちにディオンは見つかった。
国境付近の湖岸で、倒れているところを騎士によって発見されたのだ。
だが、容態は重かった。
命こそ取り留めたものの、冬の湖に落ち、発見が遅れたことで意識は戻っていない。
後日、通達が出た。
本件、落水事故によるものであり、詳細は不明。
ディオン·リュミエール、現在、療養中にて面会は謝絶。
あまりにも、簡潔だった。
「……は?」
カイルの声が、低く落ちる。紙を握る手に力が入り、皺がよっていた。
「事故?」
抑えている。だが、明らかに抑えきれていない。
「ふざけるなよ……」
「アイツがそんなミスするか?」
カイルは怒りを隠しきれず机を、一度、バン!と叩いた。叩いた手がじんと痛む。
「湖に落ちる? 一人で? ありえねぇだろ」
リネは、紙から目を離さず吐き捨てるように言った。
「外傷がある」
「……あ?」
「落水だけでは説明がつかない」
淡々とした声だが、その奥は冷えている。
「拘束の痕がある可能性が高い」
カイルが、顔を上げる。
「……誰だ」
短い一言。明らかに怒りが滲む声だった。
リネは、答えない代わりに、ゆっくりと視線を上げた。
「……事故ではない。だが、そう処理された」
「つまり――」
カイルが、続ける。
「隠してる奴がいるってことか」
否定は、なかった。
◇◇◇◇◇
石の廊下を、足音が打つ。足は止まらない。制止の声も、聞かない。
「ヴェルナー公子、お待ちください――」
衛兵の声が背にかかっても、カイルは止まらない。
「通せ」
低く、言い切るその声に、迷いはない。
やがて道が開かれた。宰相の家名。それだけで、扉は閉じられない。
扉の向こうは、静かな室内。
カイルの父――宰相が、机の前に立っていた。すでに、知っている顔だった。
「……来ると思っていた」
落ち着いた声。
カイルは、歩みを止めない。
「どういうことですか」
抑えているが、怒りを隠せていない声で問う。
「事故? 本気で言ってるんですか」
宰相は、すぐには答えない。
一呼吸置くと、落ち着きのある静かな声で話す。
「……表向きは、な」
「その通りだ」
別の声がして振り向くと、扉が開いていた。
いつの間にか、エリアスが立っている。
カイルは振り向き、すぐに睨み返す。
「じゃあ聞かせろよ」
遠慮はない。カイルの言葉が、落ちる。
一瞬、空気が止まった。
「カイル」
低い声。父の声だった。それだけで、背筋がわずかに伸びる。
「言葉を選べ」
短いが、鋭い。
「ここがどこで、誰に向かって話しているのか」
視線が、真っ直ぐに突き刺さる。カイルは、舌打ちを飲み込んだ。
「……っ」
分かっている。分かっているが――抑えきれない。
「……失礼しました」
言い直す。形だけではない。だが、完全でもない。
それでも、顔は上げたまま。
「ですが」
「聞かせてください」
今度は、言葉を選んでいる。それでも、引く気はない様子がわかる。宰相は、しばらくその顔を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……それでいい」
息子の言葉に、完全には否定せず、止めるだけでもない。
「ただし」
一言、重ねる。
「ここでは、節度を守れ」
「……はい」
さっきよりは落ち着いていた。
*****
まだ背丈も低い頃、王城の庭。
整えられた芝の上で、木剣がぶつかる音が響いていた。
「遅い」
エリアスが言う。息一つ乱さずに。
カイルは歯を食いしばる。
「うるせえ」
一歩踏み込むが、大きく振るっても弾かれる。転んだ。空を見上ながら悔しさで、拳を握る。
エリアスは、一歩も動かない。ただ、見ている。
「……立て」
手は差し出さない。カイルは、自分で立ち上がる。
「今度は勝つ」
吐き捨てるように。エリアスは、わずかに目を細めた。
「何度でも来い」
それだけ。
その言葉に、迷いはなかった。遠くから、それを見ている影が一つ。
木陰にいたのはリネだった。リネは何も言わず、ただ二人をじっと見ていた。手元の本を閉じることもなく。
「……なるほど」
その視線だけが、少しだけ鋭かった。
*****
「何が起きたのですか?」
カイルの問にエリアスは、静かに問いかけた。
「全部、か?」
問い返すその声音は、穏やかだ。それでも、カイルは一歩も引かない。
「知っていること、全てです。」
やがて、エリアスは小さく息を吐いた。
「……いいだろう」
視線が、わずかに落ちる。
「だが、その前に一つ」
真っ直ぐに、カイルを見る。
「動くな……。今は、まだ」
室内に沈黙が落ちる。カイルは、しばらく何も言わなかった。視線を落とすと、拳が震えていた。怒りを我慢するように奥歯を噛み締める。
「……分かりました」
納得ではない。理解しただけだ。
「今は、動くべきじゃないってことも」
顔を上げる。
「王家の領分だってことも」
言葉にするたび、怒りが滲む。だが、それ以上は言わない。
「……でも、納得はしてません」
視線を、エリアスへ。ただ、真っ直ぐに。
「絶対に」
それだけ残して、カイルは踵を返した。足音は強く、
扉はゆっくりとしまった。まるで重たい心のように。
少し遅れて、扉の外には壁に寄りかかる影。リネだった。最初から、すべて聞いていたリネの表情は変わらない。だが、視線だけがわずかに細い。
「……やはり、そうか」
扉を一度だけ見て――歩き出すとカイルの後を追う。
足音は、静かだ。
急がない。だが、確実に距離を詰める。
角を曲がった先に、ようやくカイルの背中を見つけた。
カイルは、歩みを止めずに歩き続けている。
肩が、わずかに上下していた。
「……カイル」
カイルは、歩く速度をわずかに落とした。
リネは、黙って隣に並ぶと、やがてカイルが吐き出すように言った。
「……ふざけてる」
「全部、分かってる顔しやがって」
拳を握る。
「動くな、って」
一歩、強く踏み出す。
「アイツが寝てる間に、また襲われたらどうすんだよ」
リネは、前を見る。
「終わらせない」
カイルが、わずかに目を動かす。
「動くなとは言われたが、何もするなとは言われていない」
カイルの足が、止まる。完全に、振り向く。
「……何考えてる」
リネは、表情を変えない。
「調べる」
「……ああ」
カイルの怒りは消えていない。だが、方向が決まった。
「やるぞ」
リネは、頷く。
それで、合意だった。
◇◇◇◇◇
白い天井、腕には点滴の管、薬品の匂い。王立病院のとある病室だ。ディオンは、目を覚まさない。呼吸はあるが、眠りではない。
「……落水による低体温と、外傷。命に別状はないが……」
声が、低く落ちる。
「しばらくは、意識は戻らないだろう」
扉の外に人の気配。
「面会は?」
「――謝絶だ」
即答。揺るがない声だった。
「例外は認めない」
静かに、断られる。中には、誰も入れない。守るために。あるいは、隠すために。
部屋の中は、静かだった。
ただ一人、ディオンの胸元で――わずかに、光が揺れている。夜は、静かだった。
規則正しい呼吸だけが、部屋に満ちている。ディオンの意識は戻らないまま、彼は、ただそこに“在る”だけだった。
扉が音もなく開き、足音はない。だが、確かに“何か”が入ってきた。フードを深く被った影が一つ。
迷いはない。まっすぐに、ベッドへ向かう。
手には、短い刃。
月明かりを受けて、鈍く光る。
「……静かだな。見張りもいない。都合がいい。手間をかけた。あれだけ囲んで、真剣まで使って……それでも仕留めきれないとはな……だが、もう終わりだ」
「ここで刺せば、少し面倒になる。学院は当然騒ぐだろう。貴族どもも口を出す」
「だから――落とした」
「湖なら、話は簡単だ。足を滑らせ、転落した。……それで終わる」
「事故だ。誰も疑わないはずだった。お前は“特別”だからな。余計な目も多い」
「……気づいていないのか?」
「紋章を持たず、あの適性。剣も、魔術も、異質ときた。上は、それを嫌う……。理解できないものは、排除する」
「……ククク。王家からも、学院からも見放されるとは」
「哀れだな。守る者がいないというのは」
「……だが、安心しろ」
「ここで終わるなら、まだましだろう」
「余計なことをする前に、消えるだけ」
「恨むなら、その力を恨め」
「……全ては、あの方のためだ」
低く、熱に浮かされた声。
「余計な芽は摘む。あの方の研究のために」
「邪魔になるものは、ここで消す」
「眠ったまま、沈むがいい!」
男に躊躇はなかった。
刃を振り上げた――その瞬間。
「大地を巡る、王の根よ。
命は環り、根は還る。
あるべき土を違えるな。
その理に従い、今ここに縛れ」
低く、揺るがない声。
その響きに応じるように、枝が一斉に動くと床の植木が軋んだ。わずかに、枝が伸びる。
一瞬で影の腕に絡みつき、男の喉元へと巻きついた。
完全に、動きを封じる。
「――っ」
初めて、敵の気配が揺れた。
葉の表面に一瞬だけ形を成した。『見覚えのある紋様』
王家の紋章に似た“樹”を思わせる“葉”の意匠。
瞬きほどの間。
次の瞬間には、もう消えている。まるで、見間違いだったかのように。
「--それ以上、息子に触れるな」
背後から、声がした。
低く、静かに。いつの間にか、そこに立っていたのは、ロラン·リュミエール。ディオンの父だった。
影は、目を見開く。
拘束を解こうと、力を込めた。だが――動かない。
病室の床には、小さな薬草鉢が置かれていた。
本来、鉢植えは見舞いには向かないとされている。
“根付く”――すなわち、“寝付く”。
病が長引く縁起として、忌避されるからだ。
だが――。
ロランは、それをあえて置いていた。
根諧術は、植物を媒介とする。
それは、護りそのものだった。
ロランは、わずかに拳を握る。
それだけで、枝が、応じた。
一瞬遅れて、さらに締まる。ギシギシと音を立てながら、もはや男に逃げ場は、ない。
「……貴様」
絞り出すような声。
「普通、病室に鉢は置かないだろ」
ロランは、表情を変えない。
ただ一歩、近づく。
「根は、もう届いている」
静かに、告げたその一言で、完全に終わった。
影は動きを止め、がくんと力が抜ける。捕らえられたまま、沈黙した。
……
部屋に、再び静寂が戻る。
ロランは、ディオンへと視線を落とした。
変わらない呼吸。
かすかに、安堵が混じる。
だがその目は、冷えたままだった。
「……来たか」
誰に向けたわけでもなく、呟く。枝は、ゆっくりと元の形へ戻っていく。まるで、何もなかったかのように。
気配が、もう一つ増えた。いつからいたのか、分からない。黒を基調とした装いの男が二人。影のように、音もなく立っている。
その一言に、二人は同時に動いた。右手を胸に当て
深くはないが崩れない一礼。
王妃付きの騎士だけが取る所作だ。
そして――ロランへ、わずかに頭を垂れた。
だが、その沈黙がすべてを物語っている。ロランは振り向かず、ただ短く告げる。
「……頼む」
それだけで、十分だった。騎士たちは一礼する。
言葉はなかったが、手際よく拘束を重ねる。
もう、抵抗はない。そのまま男を肩に持ち上げる。
床に影が滑り、扉が開く音は不思議としない。
次の瞬間には、もういなかった。
気配ごと、消えている。
ロランは、ディオンの額に触れる。
熱はない。息も、安定していた。それを確かめると、静かに立ち上がった。
扉の前で、足を止める。振り返りはしない。
「……母さんが心配してるぞ」
低く、それだけ残して出ていった。
「植物の魔術――いや、正確には“根諧の樹術”」
この国において極めて特別なものとされている。
古くは、王がまだ王である前のこと。
この地に最初に根を下ろした力だと伝えられている。
大地に触れ、巡り、命を繋ぐもの。
水や火のように目に見えて扱えるものではない。
ゆえに、扱える者もまた、ほとんど存在しない。
それは“術”というより、理そのものに近い。
王家の紋章に、樹が刻まれているのも、
その名残だとされている。
◇◇◇◇◇
石の匂いが濃い、湿った空気が充満する地下牢は、静まり返っていた。
拘束されたまま、男は壁にもたれかかっている。
縄も、枷も、外れてはいない。
逃げ場はない。それでも男は笑っていた。
「……随分と、丁重な扱いだな」
声は掠れている。だが、余裕は消えていない。
ロランは、何も答えない。
ただ、見ている。沈黙が続くとやがて男が低く笑った。
「クク……」
男は顔を上げる。
その奥に、狂気が滲む。
「甘いな」
視線が、まっすぐロランを射抜く。
「これで終わると、思うなよ」
静寂が落ちる。
「……これで終わらない」
言い切った。
次の瞬間、口の中で、何かを砕く音がした。わずかな違和感に、ロランの目がわずかに細まる。
もう遅い。
血が溢れ、喉を焼くような赤。男の体が、揺れる。
それでも――笑っていた。
「……っ」
声にならない息。やがて、崩れた。
完全に、動かなくなる。
……
ロランは、しばらくそのまま立っていた。
やがて、静かに口を開く。
「……来たか」
誰に向けた言葉でもない。背後の気配が、わずかに動く。だが、振り返らない。
「遺体は回収しろ」
それだけ告げた。感情は、見せない。
ただ――
事態の深さだけが、そこにあった。




