第20話 「夢」
ディオンは、夢を見ていた。
光、温かい匂い、ガラス越しに落ちる、白い陽射し
……温室。
花々に囲まれた白い中庭で、少年が一人、椅子に座っている。
銀色の髪に、光を透かすような淡い色。
年は、自分とそう変わらない印象だ。顔はぼやけてはっきりと見えない。しかし、妙に偉そうだ。
◇◇◇◇◇
数年前--
「遅い」
開口一番、それだった。
もう一人の少年は呆れたように息を吐く。
「勝手に来ておいて何だよ」
少年は眉を寄せる。
「口が悪いな」
「そっちが先だろ」
紅茶を置く。カップからは湯気が、静かに立ち上った。
銀髪の少年は、それをじっと見ている。
「今日は薄くないな?」
「前のは苦いって言ったじゃん」
「言った」
当然のように頷く。本当に偉そうなヤツだ。
だが、どこか憎めない。
温室の中は暖かく、外とは別世界のように静かだった。
少年が、カップへ手を伸ばす。
左手で。右手には、白い布地の手袋。
その日も外していない。
「……いつもしてるよな」
何気なく言う。
銀髪の少年の動きが、一瞬だけ止まった。
「別に」
素っ気ない返事。それ以上は言わない。男の子も深くは聞かなかった。
ただ――ずっと気になっていた。季節が変わっても、
何度会っても、少年は、右手を見せない。白い布で覆ったまま。
……
また別の日の温室、白いガゼボ、紅茶の香り。
「───、またそれか」
少年は、不機嫌そうに眉を寄せた。
「悪いか」
「別に」
言いながら、茶葉をポットへ入れ湯を注ぐ。
花が開くみたいに、ゆっくり茶葉が広がった。
静かな時間。
不意に、少年の指先が止まる。
カップが、揺れた。
「……っ」
わずかに顔をしかめた次の瞬間、右手の手袋がずれ、白い肌が見えた。
そこに刻まれていたものを見て――目を見開いた。
淡い光、紋章、まるで、光そのもののようだ。
「……おまえ」
言葉が止まり、銀髪の少年は、ゆっくり顔を上げた。
空気が変わり、今までと何かが違う。その瞳だけが、静かだった。
「見たか」
低い声だが怒ってはいない。どこか、諦めたような響きだった。
「それ、どうしたんだ?」
男の子は尋ねる。
少年は何も答えなかった。
今日は、布越しにも分かるほど、何かを庇うように押さえていた。
「痛いのか?」
男の子が尋ねると、銀髪の少年は、すぐに目を逸らす。
「……別に、お前には関係ないだろ」
冷たい言い方だった。だが、ディオンは気にしない。
「ふーん」
それだけ返して、紅茶を注ぐ。
湯気が、静かに揺れた。
……
季節は巡る。春、夏、秋、温室だけは、いつも暖かかった。だが――
銀髪の少年の様子は、少しずつ変わっていった。
顔色が悪い。時折、呼吸が浅いのか座っている時間も長くなった。
以前なら返していた皮肉も、減っている。
「……また痩せた?」
ある日、銀髪の少年は眉を寄せる。
「失礼だな」
「ちがうのか」
笑いながら返す。だが、その声は少しだけ弱かった。
カップを持つ右手が、微かに震えている。
「……っ」
わずかに顔をしかめる。
右手でカップを持ち上げかけた、その瞬間だった。
指先が、小さく震える。カップが揺れ、咄嗟に左手で支えた。
そのとき風が吹き、温室の窓が小さく鳴る。右手の手袋が、落ちた。
白い指……その手の甲に刻まれた紋章は、以前より濃くなっていた。淡い光、脈打つような紋様、
まるで、生きているみたいに。
「……っ」
もう一人の少年の表情が変わる。
銀髪の少年は、すぐに手を引こうとした。
だが、その前にもう一人の手が、触れる。あたたかい。
銀髪の少年が、目を見開いた。
「……───!だいじょうぶだ」
そこだけは、はっきり聞こえる。なのに、その後だけが霞む。
『きっと、──から』
どうしても、思い出せない。男の子は、紋章を見つめたまま言う。
不思議なくらい、迷いのない声だった。
銀髪の少年が、息を止める。
「……」
返事が、出ない。男の子はなんでもないような顔で手を握ったまま笑う。いつものように、太陽みたいに。
「だから、そんな顔すんなよ」
温室の光が、静かに二人へ落ちていた。
その瞬間だった。
紋章が、光りを放つ。脈打つように。
「――っ」
銀髪の少年の目が見開かれる。
眩い光が、溢れた。温室を埋め尽くすほどの白。
視界が、焼き切れる。
温室の中だというのに、風が揺れ、ガラスが震える。
男の子は、とっさに目を閉じた。
何が起きたのか、分からない。
ただ、あたたかかった。誰かの体温みたいに。
遠くで、声が聞こえる。
「……────!」
かすれている?泣きそうな声だった。
そして、
全て、途切れた。
……気づけば、男の子は、城下町の石畳に倒れていた。冷たい風、夕暮れの赤、行き交う人々の声。
◇◇◇◇◇
「……?」
ゆっくりと目を開ける。
頭が、重い。何か、大事な夢を見ていた気がした。
だが――思い出せない。
「……なんで、俺……」
言葉が途切れる。胸の奥だけが、妙にざわついていた。
ふと、空を見上げる。遠く。
銀色の髪、白い光、
顔だけが、どうしても思い出せなかった。
*****
ディオンが目覚める前--
病室の床には、小さな鉢が置かれていた。
王都では珍しくもない薬草だ。
それを持ち込んだのは、ロランだった。
根諧術は、媒介となる植物を必要とする。護衛騎士たちは誰も触れない。
ただ静かに、その鉢を避けて通る。ふと、水差しの水面が揺れ、波紋が広がった。
薬草鉢にいたっては、ギシ……と音を立てる。葉が震え、根が、僅かに土を押し上げていた。
ロランは静かに目を細める。
「……無意識か」
眠るディオンへ視線を落とす。
ロランは、静かに息を吐いた。昔は、よく笑う子だった。花を見れば足を止め、人を見れば声をかける。
太陽みたいな子どもだった。
あの日を境に、息子は変わってしまった。
いつものように家へ帰る。だが、その日は違った。
家の中が静かだ。
「父上! お帰りなさい!」
いつもなら、そう言って駆け寄ってくる。
今日あったことを、途切れることなく話して、笑って。
困るほど懐いてきた。どんなに剣の稽古で厳しくしても。
それなのに――
その日は、何の気配もしなかった。
違和感を覚え、リビングへ向かう。ディオンは、そこにいた。そのことにホッとしたのも束の間。
確かにいたが、ただ静かに座っている。視線だけが、ゆっくりと上がり、
「……おかえりなさい」
それだけだった。
ロランは、今でも忘れられない。息子が笑わなくなったあの瞬間を。
感情を、どこかへ置いてきたように。
「……代償、か」
還命は、等価だ。命を還すなら、何かを失う。
ロランは、それを知っている。
だからこそ――何も聞けなかった。ディオン自身が覚えていないなら、それを掘り返すことが正しいのか。
今でも、分からない。
「……お前は」
昔の面影は、まだ残っている。
「……生きていてくれれば、それでいい」
静かな声だった。
笑わなくても、思い出せなくても、昔に戻れなくても。
ただ、生きていてくれるなら、それ以上は望まない。
ロランは、ゆっくりと目を伏せた。
「……親とは、欲深いものですね」
苦く笑う。
そう言いながら、本当は、少しだけ願ってしまう。
いつかまた、
「父上!」
あの日みたいに笑ってくれたら、と。
*****
静かな部屋に、声だけが落ちた。
意識が、浮かび上がる。
最初に感じたのは――紅茶の香りだった。
柔らかく、落ち着く匂いは、どこか懐かしい。
ゆっくりと目を開けると目に写るのは、白い天井。窓から入る日差しが眩しくて、目をそらす。
静かな部屋。
ぼやける視界の中、テーブルが見えた。ガラスのティーポットだ。湯気は、まだ微かに残っている。
隣には、カップが二つ。
「……?」
掠れた声が漏れる。
誰か、来ていたのかと思いを馳せてみたが、分からない。気配は、もう残っていなかった。
ふと、窓辺へ視線を向けると、白い鳩が一羽、こちらを見ていた。目が合った瞬間、羽を揺らし飛び立つ。
羽音を残して。
白い羽が、陽の光へ溶けていく。その姿を、ディオンはただ黙って見ていた。
胸の奥だけが、妙にざわつく。
理由は、分からない。
ただ――
紅茶の香りだけが、なぜかひどく懐かしかった。




