第18話 「ディオンと不思議な紅茶店」
冬季休暇中、俺は王家直属の近衛騎士団の訓練に参加していた。二週間に及ぶ、寝泊まり込みの訓練。厳しかったが、嫌いではなかった。
厨房の火が使えない問題は、リネとカイルが無事に解決した。俺の方は、朝から夕刻まで動き通しだった。最初はかなり煙たがられていたが、今は、少しだけ打ち解けている。悪くない、そう感じていた最終日の前日のことだ。騎士団の騎士から、差出人の名のない手紙を受け取った。
内容は、非常に短いもので、以下の通りだ。
ディオン・リュミエール殿
城下町
十二月二十五日 正午
紅茶店「ノクターン」中庭に来られたし
白い鳩が目印
必要最低限の内容だった。封には鳥の紋章がある。汗を拭い、休憩に入る。ふと、手紙から顔を上げたその先に視線を向けると、庭に面する渡り廊下の辺りに騎士が立っていた。見慣れた騎士服? いや、違う。見慣れているのは、その動きだ。一切の無駄がなく、ぶれない歩き方。一歩踏み出した時、ジャリ……と音が出てしまった。
「……父、上?」
一瞬間があいた。そこにいたのは、父ロラン・リュミエールだった。
「久しいな……無事か」
短い挨拶、変わらない声に変わらない視線。だがわずかに、懐かしむような感じがした。短い問いに、頷くもそれで終わる。
「訓練に出ていると聞いた」
「はい」
「……油断するな」
父の言葉は厳しい。ぽつりとそれだけが落ち、ひらりと背を向けて去っていった。
◇◇◇◇◇
渡り廊下を渡った先では、扇子を口元にあてたひとりの婦人が立ち止まる。静かな所作だがそれだけで、気品が感じられる。セレノア王国王妃キャサリン・セレノア・アルヴェインだった。淡い水色のドレスが、静かに揺れていた。
「ロラン、ご子息に久しぶりに会ったのでしょう?」
短く男は答える。
「……はい。王妃殿下」
王妃は、穏やかにくすりと笑った。
「それなのに、あの一言だけ?」
「……あれで十分かと」
王妃は、少しだけ首を傾ける。
「そうかしら」
そして、やさしく続けた。
「あの子は、もう少し言葉があっても喜びますよ」
ロランは何も答えない。ただ、わずかに視線を落としただけだった。
◇◇◇◇◇
エリアスの執務室では、二人の会話が響いていた。
「訓練生の中に、少し変わった者がおりましてね」
近衛騎士団長が、肩の力を抜いたまま言う。
「騎士学院の一年生でして、最初は馴染めなかったようですが、今ではすっかり可愛がられております」
エリアスは視線を上げない。
「……名は」
「ディオン・リュミエール」
わずかに、手が止まる。
「……そうか」
団長は、かすかに笑う。
「よく似ております。誰に、とは申しませんが」
エリアスは、何も問わない。
「……あの者は、訓練を続けているのか」
「はい。寝泊まり込みで」
「……そうか、さき程妙と言ったな」
団長が目を細める。
「無駄がないのです。剣も、動きも……あの年齢で正確な 太刀筋」
エリアスは、ペンを置いた。
「……分かった。報告は以上か」
「ええ」
エリアスはそれ以上聞かなかった。団長は一礼すると、扉へ向かいかけて、ふと足を止めた。
「……ロランは、変わりませんな」
背を向けたまま、言う。エリアスは、それには答えない。
「……知っているよ」
誰もいなくなった部屋で呟いた。
◇◇◇◇◇
時刻は、正午前になっていた。手紙に記されていた通り、城下町を歩いていた。道を外れた路地の奥に、建物が見えた気がして入っていくと、蔦に覆われたレンガの建物があった。よく見ると、葉の隙間から『紅茶店 ノクターン』の文字が見える。二階の窓の蔦の絡む欄干には白い鳩が止まり、こちらを静かに見下ろしている。全く見覚えはないのに、不思議と足は止まらなかった。ただ、ここへの行き方を知っていたような
感覚だった。古い木製の扉を引くと、カランコロンとカウベルが鳴った。
「好きなとこ座りな!」
奥から元気な声が飛んできた。顔を覗かせたのは、笑顔の女性だ。しかし、店内は落ち着いていて静かだった。客の気配は全くなく、妙だ。そう思っても、不思議と警戒は湧かなかった。どこか落ち着ける席を求めて、奥へ進むとガラス越しに、緑が見えた。風はないはずなのに、揺れている。もう一つの扉に手をかけると、一瞬だけ迷う。それでも、手は止まらない。扉を開けると、そこは中庭の温室だった。
外よりもわずかに暖かく、湿った匂いが、肺に落ちる。真っ白なガゼボがポツリとあり、中央のテーブルには、ガラスのティーポット。ほんわかと湯気が、静かに立ち上っている。それなのに、何故かカップには何も注がれていない。誰かを待っているような、そんな気がした。(……俺のためか。)根拠はない。だが、そうとしか思えなかった。向かいの席に座ると、椅子がかすかにギシッと軋む。それだけが、この空間の音だった。他の客の声もなく、黙って腰掛けた。まるで、ここだけ時間が止まっているみたいに。
しばらくして、扉が開く音がした方へ振り向くと、仕立ての良い高価そうな服に身を包んだ、自分と同じ年頃の男が一人、入ってきた。
「……先客か」
穏やかな声だった。俺は軽く頭を下げる。
「構わない」
男は小さく笑った。
「では、失礼する」
彼は、向かいに座ると、ティーポットに手を伸ばす。
「いつもは、他の人が淹れるんだが」
少しだけ声を落とした。
「これは内緒だ」
湯が注がれ、茶葉がゆっくりと開いていく。
「……慣れているな」
俺は思わず口にしていた。綺麗な所作だった。
「見よう見まねだ」
男は穏やかに答え、手際よくカップを差し出してくる。
「どうぞ」
カップを受け取り、一口。コクンと飲んだ。——悪くない。男の視線が、俺の腕にある『透明な腕輪』へと止まった。
「……それ」
わずかに、声が変わったようだ。俺は自分の腕輪に視線を落とす。
「……これか」
「ああ」
男は、しばらくそれを見ていた。
「珍しいものだ」
それだけ言うと、彼は何も答えなかった。
「……それには、古い伝承がある」
エリアスの視線が、再び透明な腕輪に落ちる。
「水に属する宝石は、形を変えて残る。時に装飾として、時に別のかたちで」
胸元のポットの上から手をあてる。
男は、耳に触れた。ためらいもなく外されたのは、小さなピアスだった。普段外さないであろうそれを見せる為に外した。ピアスからキラリと光が零れる。水のように透き通り、内側がわずかに揺れている。(同じだ、俺の腕輪と)男は、わずかに手を開き、こちらに見せた。掌のうえには、光が零れる小さなピアス。その輝きは、どこか対になるものを思わせた。
「王家に連なる方、ですか?」
なぜ、男がピアスを見せたのか何となく理解した。
「還したいものがありますが……これは、王家に還したいのです」
俺は、短く言った。
「君の言うとおり、私は王家に連なる者だ」
そんな簡単に身分を教えるか? 俺は、慎重になる。
「皇太子殿下か、陛下に直接お渡ししたいのです」
男は、わずかに笑った。
「……君に、そのつてがあるのかな?」
「……今は、まだ」
「それなら、問題ない」
男は懐から、何かを取り出すと机に置いた。小さな銀色の懐中時計だ。明らかに特別な品だと理解する。蓋の表面には、紋章が刻まれている。樹木の紋章と皇太子殿下の名前。紛れもない本人のものだ。
「エリアス・セレノア・アルヴェインだ」
何事もなかったように、名乗る。
一瞬、理解が遅れたが、慌てて、立ち上がりかける。
「いい」
穏やかな声で、制された。
「そのままで」
動きを止める。男——いや、エリアス殿・下は、変わらない調子でカップを持ち上げた。
「ここでは、ただの客でいい」
湯気が、静かに揺れる。俺は、それ以上何も言えなかった。あの手紙の主が、まさか皇太子殿下だなんて。
そんなこと、普通は考えない。
だが、せっかくの機会だ。胸元からハンカチを取り出し、包んでいたそれを、静かに開いた。淡く、光を宿した宝石。
エリアス殿下の方へ差し出す。
「湖の、人魚に会いました。ですが、こちらはお返しします」
言葉にしても、現実味がない。それでも、手は迷わなかった。
エリアスは、それを見て――わずかに目を細めた。
懐かしむように、あるいは、確かめるように。
だが、次の瞬間、ゆるやかに首を振る。
「心遣い、感謝する」
声は、どこまでも穏やかだった。
「確かに王家が護るものだが」
「人魚は、誰にでも渡すわけではないよ」
断られた。
だが、不思議と拒まれた感じはしなかった。
むしろ、試されていた何かに、答えが出たような。
俺は、差し出した手をゆっくりと引いた。宝石を、再びハンカチで包む。また、胸元へ戻す。
その温もりが、わずかに強くなった気がした。
気のせいかもしれない。
だが、さっきよりも、確かに“ここにある”と感じた。
「……殿下」
カップを置いたディオンが、静かに言う。
「なぜ、今日俺を呼んだのでしょうか。俺が宝石を還したいとご存知たったのですか」
整った言葉に無駄のない声音。他人に向ける話し方だった。
「……」
エリアスは、わずかに目を伏せる。その言葉の距離を、正確に測っている。昔の君はこんな話し方は、しなかった。もっと近くて、もっと遠慮がなくて。
◇◇◇◇◇
数年前、同じ場所。
「ねえ、エリ!」
無遠慮に名前を呼んで笑っていた。
「俺はディオンだよ!」
「いつもエリは俺のこと“キミ”とか“おまえ”とかさ!」
頬を膨らませて、抗議する少年。
エリアスはその時、ただ鬱陶しいと思っていた。
「……」
◇◇◇◇◇
だが今は違う。名前を呼ばない理由がないのに、呼べない。呼んでしまえば、何かが決定的になる気がした。
「……大した用ではない」
静かに言う。
「ただ——」
少しだけ間を置く。
「様子を見たかっただけだ」
「……はい」
ディオンは、素直に受け取る。疑いも、踏み込みもない。完全に距離がある。
(違うよ、ディオン)
本当は、
「確認したかった」
あの頃のお前かどうかを。だが、それは言わない。
まだ、早いのか。エリアスは、ふと口を開きかける。
「……ディ」
呼びかけかけて、やめる。ただ静かに座っていると、
「……ひとつ、いいか」
殿下が話し始めた。
「……はい」
エリアスは、ほんの一瞬だけ迷う。
「……ディオン」
「……」
その一言で空気が、わずかに揺れる。ディオンは目を見開いた。なぜ呼んだのか、理由は分からない。
「……はい」
返事が、ほんの少しだけ柔らぐ。
(言った)
ただの名前のはずなのに、心臓がわずかに重くなる。
「……お前は」
エリアスが続けようとした、ほんの一瞬。
自然とディオンの口が開く。
「……エ——」
音がこぼれてすぐに止めた。空気が止まる。ディオンはわずかに眉を寄せる。
「……?」
自分でも分かっていないのだろう。今、何を言いかけたのか。
「……失礼しました」
「殿下」
丁寧に言い直した、完全に整った言葉。だが、その前の音を確かに聞いている。
——“エ”
呼びかけかけた、あの音。
(……やはり)
彼の記憶はない。だが完全に消えていない。
胸の奥に、違和感が残る。
何かを言いかけた。だが、ディオンはそれが何か分からない。
「……」
ほんのわずかに、手に力が入る。気づかないふりをしたまま。
「……すまない、時間だ」
静かに言った。不思議と違和感はない。まるで、最初から決まっていた区切りのように。
「……そう、ですか」
俺は短く答えた。引き止める理由はない。
それでも胸の奥に、わずかに引っかかるものが残った。
エリアスは立ち上がる。
動きに迷いはない。すでに、何かを終えた者のそれだった。
「紅茶、ありがとう」
穏やかな声。
最初と何も変わらないようで、ほんの少しだけ違っていた。何が、とは言えない。だが確かに変わっている。
「……いえ」
それだけ返す。エリアス殿下は一度だけ、こちらを見た。
言葉にはしない。確かめ終えた者の目だった。そして、背を向ける。
扉へ向かうとドアベルが、低く鳴った。カラン、
コロン、と。
その音がやけに長く残り、やがて扉が閉まった。
さっきまでの空気が、少しだけ遠い。
夢だったような感覚。
だが、違う。
カップの中の紅茶は、まだ温かかった。
そして、胸元に触れる。それはハンカチの奥。
そこにあるはずの重みが、わずかに、変わっている気がした。
「ここはね、来れる人しか来れないのさ」
店主の声が、どこからともなく響き、振り向く。笑っていたはずの姿を探す。だが、いない。いつの間にか、気配ごと消えていた。
最初から、いなかったみたいに。
静けさだけが、残る。
カップの中の紅茶は、まだ温かかった。




