アストラル公爵
「まずは娘シーラが女神の代理人様に対してひどい仕打ちをしたことを謝罪させていただきたい」
3年前のことを公爵は当時何も知らなかったらしい。女神の代理人の話し相手に選ばれたことに喜び、女神の代理人の大切さを知っていた公爵は娘がきちんと役目を果たしていると思っていた。
シーラも父親には順調に役目を果たしていると報告していた。その話を信じて城に送り出していたのだ。
アレスも当時は別の国にいたがアイシャは大切に扱われていると思って、再会できる時を楽しみにしていたものだ。
だが、実際はアイシャのことを平民として見下し、女神の代理人という立場を踏みにじっていた。
その報告を聞いた時のアレスは腹の底から怒りがこみ上げてきたことを今でも覚えている。公爵はどんな感情を持っていたのだろう。
公爵がアイシャに対して頭を下げた。それを静かに見つめるアイシャは何の感情も沸かないのか何も言わなかった。
静かな時間が過ぎていくと、公爵はゆっくりと顔を上げて口を開いた。
「公爵家は現在見てのとおりです。作物は取れなくなり、魔物が徘徊して外を出歩くこともできない状況です。土地が朽ち果てていく光景を見ていることしかできない」
最初は討伐もしていたようだが、作物が育たなければ領民も生活できなくなる。逃げ出した領民たちが住んでいた場所にはガラの悪い人間が住み着きだし、治安がどんどん悪くなっていっても、追い出す力が公爵家にはなくなっていた。とにかく悪い方向へどんどん進んでいく領地に公爵は精神的に追い込まれていき、体を壊してしまった。
まだ50代に入ったばかりのはずなのに、70代には見えるかもしれない。白髪に杖をついていることで余計に老いているように見えていた。
公爵がいなくなれば娘のシーラが書類上は引き継ぐことになるだろうが、公爵領はもとには戻らない。おそらく爵位を返納して領地は国が管理することになる。そうなれば領地は女神の祝福を受けられるだろうか。そんなことを考えてしまう。
女神の祝福をアイシャが拒絶していても3年間何も変化のない領地もあるのだ。祝福の残滓のようなものが守ってくれているのかもしれないとアレスは思っていた。その影響が公爵領にも届けば、国の管理下にして作物が取れる領地に戻せればいいのにと願ってしまう。
それよりも先に今度の感謝祭でアイシャが祝福を受け取ってくれたら、国全体が再び守られていく。
公爵はこの先のことをどう考えているのだろう。
「娘の仕出かしたことを、何も知らなかったで済まされると思っているのか」
口を開いたのはロイナーだった。明らかにイラついた口調に、これまでアイシャにしてきたことに対する怒りを抑えられないようで、口を挟むべきではないと思っていても抑えられなかったようだ。アレスも止めるつもりがなかった。
エリストン侯爵家として、アストラル公爵家に対して抗議もしていない。心の奥に怒りをため込んでいたのだろう。
隣に座るアイシャを見ると、彼女は静かな表情で公爵を見つめていた。そこに何の感情ないことがわかった。記憶がないため公爵に何を言われても気持ちが動かないのかもしれない。過去の説明を受けているという感覚がアイシャの今なのだ。
「公爵」
アレスが口を開くと場の空気が冷たくなる。アレスの声も自分が思っているよりも低かったのだ。アレスの中にも怒りはある。無意識にその感情が声に載ってしまったようだ。
一度深呼吸をしてから、アレスはもう一度口を開いた。
「このままの領地にしておくつもりか?」
作物が取れず、治安の悪い領地をこのまま放置しておくことは、領地経営を放棄していることになる。
国として手を差し伸べることは女神の怒りを買った公爵家を助けることになり、今までは放置することにしていた。自分たちでどうにかしろというのが国判断だったのだ。だが、アイシャが目を覚まし、感謝祭で祝福を受け取ってもらえるかもしれない状況になった。アイシャも今の国の状態を見たいと言ってきたので、国としても朽ち果てようとしている領地をどうするべきか動き出すべき時でもあるのだ。
公爵はゆっくりと目を閉じだ。そこには諦めと覚悟があるように思えたのはアレスの気のせいかもしれない。
「このまま領地を保つことは私ではできません。ましてや娘が引き継いだとしても余計に苦しい状況になるでしょう」
アイシャを虐げていた張本人が経営する領地を女神が祝福するはずはない。
「領地は返還したいと思っています」
「領地だけ?」
公爵の言葉に反応したのはロイナーだった。土地なしの貴族になれば済むとでも思っているのかと、言葉にはしなくても聞こえてきそうな気がした。
公爵が一瞬ためらうように視線を動かした。
「・・・爵位まで返してしまうと、娘を養っていくことが」
貴族であることをやめないことがロイナーには引っかかったようだ。
「アイシャを虐げた本人を養うために、貴族であり続けるということか?」
年上であり公爵である相手に対して、侯爵令息のロイナーは遠慮がない。これほどの怒りをアレスは知っていた。彼も同じように怒りをぶつけられたことがあったからだ。
アイシャが祝福を拒否して眠りについた後、エリストン侯爵家が全員駆け付けてきた。その時のロイナーは絶望と怒りで判断力があいまいだった。そして、アイシャが眠りについたのはアレスのせいだと思って責め立てたのだ。後になってアレスが悪いわけではなかったと理解し謝罪してきたが、彼の気持ちがわかったアレスはすべてを受け入れロイナーのしたことをなかったことにした。
「娘のシーラはずっと部屋に閉じこもっていて、外に出ることもしません。何もできない娘を平民にしてしまっても生きていくことが・・・」
「それだけのことをしたという自覚がないのか」
アレスの一言に場の空気が凍り付いた。娘のシーラがしたことではなるが、公爵にもその責任がある。娘を切り捨てることができていれば、領地はここまで壊れることはなかったように思う。
それほど娘を可愛がって大切にしているということなのかもしれないが、女神の代理人を虐げることがどういうことなのかちゃんと説明してこなかった責任があるように思う。
公爵が黙ってしまった。
娘を見捨てることができず、貴族であり続けることができないか考えているのかもしれない。
アストラル公爵がここまで甘い考えをする人物だとは思わなかった。
内心ため息をついていると、隣に座るアイシャがわずかに動いた。視線を向けるとずっと様子を見るかのように黙っていた彼女は口を開こうとしていた。
「領地や国の未来より、女神の代理人を虐げていた娘の将来を優先するのですね」
静かな声だったが、その内容は重かった。
「それは・・・代理人様には数々の無礼を娘に変わり謝罪します」
「公爵が謝ったところで、女神が許してくれると思っていますか?」
息を飲む音が部屋に響いた。国や領地のこと以外に女神まで出されては公爵に選択肢などないだろう。
アイシャは決して怒っていなかった。怒りをぶつけるわけではなく事実を並べているようで、それがなぜかアレスには悲しく思えた。
アイシャには感情がないのかと思えるほどだ。女神の意思がアイシャの中にあるのだろうが、彼女の中に彼女の意思もあるはずだ。それを表に出さないことが悲しかった。もっと感情豊かに反応しても女神の代理人として駄目だとは誰も言わない。
「アイシャ」
彼女の名を呼ぶと、アイシャは感情を表に出すことなくアレスを見た。それも数秒で、ふと口元に笑みを浮かべた。それが大丈夫だと言っているような気がした。
「アストラル公爵。あなたの正しい判断を期待しています」
それだけ言うとアイシャはそれ以上口を開かなかった。
部屋が静かになり、話はこれで終わりだと思われた。ここにいても仕方がないと判断し、引き上げようとアレスはロイナーに声を掛けようとした時、部屋の外でバタバタと音が聞こえた。
公爵に執事がこの部屋にいる。ほかに使用人がいないはずで、外から音が聞こえるということは、この屋敷にいるのは残り1人だ。
部屋の扉に視線を向けると、バタバタとした音が扉の前で止まった。
全員の視線を浴びている扉がゆっくりと開かれていく。
その先にいたのは1人の女性だった。




