#15 薫
また次の週の土曜日。
昼頃、薫は、いつも通りに受付を通って瞬のいる階に向かおうとした――が、廊下を通り過ぎたとき、後ろから呼びとめられた。
「蓮灘さん!」
誰かと思って振り返ると、そこには看護師がいた。おそらく受付で薫が名簿に名前を書くのを目撃し、名前を覚えてくれたのだろう?
「なんですか?」
「瞬くんなんだけど、昨日から、病室を移ったから、前の病室にはいないんです」
どういうことだ? 薫は訝しむ。
「昨日の夜に、容態が悪化して……病室を移ったんです。ついて来て」
ぞ、と背筋を伝わる冷たい感覚。何かが、瞬のすぐ傍まで近づいていることに、薫はやっと気付いた。
看護師が、スリッパの音を鳴らして廊下を歩く。その歩幅は広く、速い。まるで死期が刻一刻と迫っているとでも言うようだった。
「一度、心臓が止まったんです。今は大丈夫だけど、時間の問題だと。だから……」
なんの病気かを知ってもどうにもならない――薫は、とにかく現状を確認したかった。
「時間の問題って、いつまで?」
「本当に、分からないの」
看護師は、かぶりを振った。
場所さえ知っていれば、跳ぶようにして駆けていけるのに――薫は、もどかしさを抱えたまま、看護師の後をついていった。
瞬の新しい病室と思しき扉の前で立ち止まると、看護師は引き戸を開けた。病室の扉が開く――個室だった。広い部屋。奥の方にベッドがある――。
その、白いベッドの上に、薫は横たわる矮躯を認めた。
「瞬!」
叫ぶようにして名を呼んだ。
少しだけ、少年の首が動いた。だが、身体は起きない。
「あ……薫さん……」
力ない声が掠れて聞こえ、力の無い目が虚空を彷徨い、そっと――届かない指先のように、薫に伸ばされる。
「大丈夫なの?」
ベッドの横には点滴台。それはチューブを伝って瞬の細腕の肘の所に繋がっている。それがなんなのかは、薫には全く見当がつかなかった。
「大丈夫……今は、だけど」
瞬が、蒼白の顔に笑みを浮かべた。今まで見てきた、どの笑顔よりも、痛々しかった。
見ていられなかった――瞬が、何かの病気であることは、承知していた。けれど、まさかこんなに早く、この日が来る事になるなんて……。
「自分の病気なのに、自分でも、よく分かんないや」
瞬は、自虐的に笑った。それを見て薫は、唇を、きゅっと結んだ。
「自分の事がちゃんと分かってる人なんて、そんなにいないよ」
「薫さんも?」
「そうだよ……私も、ぜんぜん分からない」
「そっか……ちょっとだけ安心した」
「なんで、そこで安心するのよ」
「だって……僕だけじゃないって思うとさ、どうにかなりそうな気がして」
「そっ……か……」
どうにかなるのか? 残酷な問いが脳内で再生される。それに返答が連なった。NOだと。絶対にNOだと。冷酷な回答は補足する。分かっていても、分かっていなくても、――彼は、追い縋る呪縛からは、逃れられないと。
それでも薫は、自分を保った。そんなものは些事だった。なぜなら、今こうして、瞬と話せているのだから。
「ごめん。……気の利いたコト言えない」
「大丈夫。……期待して無いから」
茶化すように、瞬は精一杯笑って見せた。つられて、薫も笑った。
「生意気な小僧め」
「ひどいなぁ」
ひとしきり笑うと、瞬は視線を天井に戻した。ふ、と重みがあった。それが何の重圧なのかが分かった。虚空を見つめる瞬は、ずっとベッドに沈んでいる様をイメージさせて――清純に白いベッドを、敷き詰められた花と……無骨なベッドを、頼りない棺と錯視した。
薫は、抗うように、サイドテーブルに置かれた紙袋から、一枚の折り紙を取り出した。――そして、ふと気付いた。サイドテーブルの上に、一羽だけ、折り鶴が置かれている事に。色は茶色だった。
薫は、取り出すと、もう一度紙袋を漁って、ペンケースからサインペンを取り出した。裏の白地の面に、薫の願いを記す。
「なんで銀色なの? なんか、趣味悪くない?」
折り鶴に何かを書くことではなく、なぜ銀色を選んだのか、瞬は問うた。
「雷の色だから」
「雷?」
「そう。雷。あと、花火とか――そういう、そのままの光の色だから」
指先に集中しながらも、薫は瞬に向けて説いた。
薫は、丁寧に折り進めた。銀色の折り紙の表面は、少しだけ、ひんやりとしていた。鏡面は蛍光灯の光を反射する。歪に自分の顔が映った。ひどい顔をしていた。
薫は、今までやってきたように、けれど今までで一番丁寧にそれを折った。叶うように、願いを込めて。
少しして、銀色の鶴は出来上がった。折り鶴の尾は、指で押すと、痛いくらいに鋭い。まるで稲光のようだ。
「綺麗に出来たね」
少年が、掠れた声で言った。
「ああ……一番の出来かも」
言って、サイドテーブルの上に置く……茶色の折り鶴の隣に、向かい合うように。その時、薫は茶色の折り鶴に、見覚えが有る事に気付いた。
「これ、あの時のか……」
開きたい衝動に駆られたが、薫は、それはしなかった。
「でも、なんで茶色?」
「木の色だから」
「キ?」
一文字だと、それが何を指し示しているのが分からず、薫は反復して続きを要求した。
「そう。樹木の木。落ち着いてるのに、力強そうだから」
瞬は天井を見たままだった。だが声は、薫に向けられていた。
薫は笑った。どうやら先手を打たれていたらしい。つまり、瞬があの時から、これまでに抱いたものを薫が知るのは、これからということだ。
「明日も……来てくれない? 日曜日だけどさ」
瞬が言った。それは瞬からの願い事だった。――今までの続きであり、そして……。
「ああ。分かった」
薫は頷いた。それはこれまでの続きだけれど、これからの続きの欠片にしたいという思いを込めて。
「こんな事になるなら……毎週、日曜もずっと来れば良かったね」
そうだね。そういう同意が返ってくると思っていた。けれど、少年のそれは違った。
「楽しみって、多ければ良いっていうもんじゃないと思う」
少しだけ、むっとしたように瞬は言った。
「そうだね――そうかもね」
でも正直、薫は否定したかった。それでも私は――永く、お前と居たかった、と。
長い時間、薫は瞬の隣にいた。瞬の母親もいたが、出て行けとは言わなかった。いくらでも居て、と言ってくれた。善意と懇願の言葉は、薫の胸に響いた。
けれど面会時間が終わり、薫は病室を出た。階段を下りて、受付を通り過ぎ、外に出る。外は、真っ暗になっていた。
少年を背負わず坂を下りていると、落ち着かなかった。もう、戻れないのだと思ってしまって。落ち着かなかった。脳内で、ずっと考えが巡った。
私には、何も出来なかった。
『蓮灘の記録』の力では、自分を強く出来るけれど、他人を強くする事は出来ない。
なんて無力なんだ――解創とは、他人のために使うものではなく、自分のために使うもの。それはよく知っているはずなのに、その理屈すら、今では否定したい。
野崎洋子の一件で理解したつもりだった――けれど、実感を伴っては、いなかった。この強大な力を――持て余した力を、他人のために使えない――野崎洋子の気持ちが、今なら分かる気がする。
「なんで、アイツじゃなくて、私だったんだ」
記録を、受け継いだのは。
どうかは分からない。けれど、彼が『蓮灘の記録』を受け継げば、少しは良くなったんじゃないか――そう、考えてみる。
自分の願いは、人のためには、使えない。
願いとは、そういうものだ。人に向けた思いの願いを、必ず相手が受け取ってくれるとは限らないのだから。
それでも都合よく、流れ星が流れないものかと、薫は夜空を仰いでみた。
空に浮かぶのは、静止して煌めく星ばかりだった。




