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ハニーポット  作者: 指猿キササゲ
$2$ 気高き一人
36/113

#16 薫

 飛び出した薫は、木から飛び降りる豹のように、急速に、かつ獰猛に、獲物である桐高へと肉薄する。

 薫は着地すると、左脚を軸に見立て、前進の勢いを回転する力に変換して放つ――それは右脚による後ろ回し蹴り。伸ばされた腕の遠心力も加われば、速度と威力に拍車が掛かる。

 踏み込み――軸となる左脚の位置は、通常の回し蹴りよりも、なお深い。拳による打撃でも十分に届く距離。だがこの位置ならば、後ろに回転する右脚の脹脛(ふくらはぎ)が相手の頭の側部にヒットするより前に、勢い良く膝を曲げることで、相手の後頭部を(かかと)で穿つ事が出来る。脚力の勢い、全身を活かした遠心力、そして膝の力まで使ったそれが、薫が初手で望んだ変則の蹴り。たとえ屈んで回避されても、縮まった膝は、伸ばす力で第二撃を放つことが出来る。次手まで考えた最善手――の筈だった。 

 その瞬間、桐高の前に黒が現れた。暗幕のように遮る黒が、無警告に空間を絶つ。

 ――ッ!

 何を予期したのかは分からない。ただ、穿たれた穴のようなそれに、内臓から吸い込まれていく感覚があった。

 薫は思考する。――あれに接触したら、何が起こる?

 獣を上回る薫の第六感が、接近を中止させる。

 だが遅い。靴底は……すでに彼女の足は、彼の黒に触れていた。

 淵に落ちれば、桐高が人に対して抱くのと印象と、同一の事象が具現化する。薫は見た――黒に触れた自分の靴が、ぞりぞりと抉り取られていく瞬間を。

 ――ッ!

 脳内で警鐘の大合唱。衝撃的な映像に、薫の意識が白く灼ける。

 薫は全身に急激な逆回転を掛ける。急制動と無理な捻りに脇腹の筋肉が悲鳴を上げる中、膝を曲げて右脚を逃がしながら、苦し紛れに左腕で裏拳を放つ。

 桐高の側頭部に、馬の蹄のように硬い手の甲が叩き込まれる。

 祈祷(解創)は間に合わない。桐高が腕を使って打撃を防ぐ。薫は素早く腕を錐揉みに半転させると、手の平で桐高の腕を押す。

 まるで、暴れ牛にぶつかったかのように、桐高の腕が後ろに弾かれて体勢が崩れる。その隙に、薫は地を蹴って安全圏へと退避する。

 時間にして、五秒に満たない一連の攻防。それだけで、薫は彼の解創の認識を改めた。彼の独りへの執着の薄さから、その解創も比例するかと予想していたが……どうやら、そういうわけでもないようだ。

 彼の断絶は、槍でも剣でも盾でもない。それは火炎に近いモノ。ただ、輝きは無く、無機も有機も分別なく、灰も残さず消し尽くすから、もっと性質が悪い。

 唯一の救いといえば、炎と違い『燃え移る』という事が無い点だ。現に、靴底が消失した右脚の運動靴は、足の裏を露わにしていたが、熱も帯びていなければ、崩壊が進んでいるわけでもない。ただ破れて不良品に成り下がっただけで済んでいる。

 桐高は口先では、独りへの執着は無いように言っていたが、これほどの解創が為せるのならば、やはり願いは深いはずだ。虚言だったのか――それとも、この男の願いの深さ……執着は、半ば諦めていても、なお常人の一心な願いと同等以上なのか。

 どちらにせよ――薫の中で、桐高への執着が再燃するには十分すぎる。解創の力は、願いの力に他ならない。これだけの力を見せ付けられて、誰が正気を保っていられようか?

 薫は警戒から桐高を注視し続ける。桐高は、従えるように黒を引き連れて、ゆっくりと薫に近づいてくる。一見、無防備に見えるが、彼の周囲に滞留する黒が、何物よりも強固な防御である。そこに隙は無い。

「おい、いくらお前とツルみたいとは言っても、お前のほうから敵対されちゃ、俺もお前に手を出さなきゃいけなくなるんだが、いいのか?」

 本気で掛かってくるなら上等――薫の望むところだが、しかし先ほどのことを鑑みると、直線に攻めても効果が薄い。

 となると、彼の視界の外からでないと、有効な打撃は放てない。彼の目に映ってしまえば、断絶の対象となるのだから。

 ――となると、上か。

 周囲を観察する。タイルの路面、閉店中の店が、壁のように左右に並んでいる。店と店の間には、仕切りのように柱がある。左右に整列して屹立するそれは、林道に並ぶ巨木のように見えた。

 問題は――現在、桐高の視界にいる状況で、どうやって相手の死角に入るかという点だ。

 周囲に、目隠しになりそうなものは無い……どうするか考えを働かせながら、桐高と、その周囲に蔓延(はびこ)る黒を見る。

 薫は一呼吸、深く息を吸い込み――直後、思いっきり力を込めて、斜めに角度を付けて、路上のタイルを踏み抜いた。

 突如、繁華なトンネル内に、土砂と混凝土(コンクリート)の瀑布が顕現する。瀑布は天から墜ちるのではなく、天に向かって噴出していた。まるで破裂した水道管の有様。さらに薫はローキックのように、地面に埋まったままの右脚を回して、地面に弧を描く。――強靭な筈の身体――その右足首に、僅かな痛みを感じて薫は顔を顰める。

 土塊(つちくれ)と粉塵の暗幕。透明の天蓋に届いて弾かれ、地面に土砂の豪雨を撒き散らす。斜めに角度のついた蹴りによって放たれれば、土塊は暗幕でなく弾幕となり、弧を描いて桐高に襲い掛かる。これで目隠しになっただろう――薫は次の行動に移る。道の左側にあった柱に向かって走る。

 柱を中心に半円を描くように走って、柱のどの辺りが良いか選び抜く。

 大まかな箇所の選択が終わると、薫は柱と距離をとり、桐高に背を向ける――が、土砂の幕で、彼からは無防備な薫の背中を視認できない。一瞬の思考で角度を計算――助走をつけて地から離れると、薫は上から下――斜めに角度を付けて、柱に向かってドロップキックを叩き込む。老朽化していた柱が、巨人の呻きのような悲鳴を漏らす。

 ぐらつく人工の巨木。断面が見られれば、三十度ほどの角度の凹みになっている筈だ。すかさず薫は、凹んだ場所の裏側に回り込むと、先ほど蹴りを加えた箇所より心持ち上に、掌底の第二撃を叩き込む――打撃が命中した後も、なおもしつこく、薫は手の平を柱へと捻り込んでいく。

 山林で木を切ることを生業とする林業者、彼らの伐倒の用語で、『受け口』と『追い口』というものが存在する。

 倒す方向に合わせて、断面からみれば『∠』の形になるように立木に入れる切れ込みを『受け口』という。逆に受け口の反対側に『追い口』という、直線的な切り口を入れる。

 その後、追い口を『く』の字のように切り開いていくと、自重によって、反対側にある受け口は潰れていくのだ。こうすることで林業者たちは、立木を狙った方向に、正確に倒すことが出来る。

 薫の場合、対象は鉄の柱。使うのはチェーンソーでなく打撃だが、原理は相似している。二度目の掌底によって、最初の蹴りで凹んだ部分に、自重が掛かって傾いていく。

 熊や大猩々(ゴリラ)であろうと、それで数トンもある鉄製の柱を折るのは不可能だろう。しかし蓮灘の記録は常識の外にある。さらに計算を加えられた打撃を前に、十メートルに及ぶ鉄の柱は、ついに敗北を喫した。

 べこん、という、特大の中華鍋でも落としたような金属音が響き渡る。

 鉄の柱は薫の意により、正確に桐高に向かって倒れていく。数トンに及ぶ力を前にすれば、桐高は『断絶』を全開にして迎え撃つしかない。

 直後、土煙の向こう側で、黒い何かが広がった。倒れてきた鉄の柱を、断絶によって防いでいるのだろう。

 ――狙い通りだ!

にやりと笑って、薫は弾丸のように飛び出した。チーターのように路上を駆け抜け、一直線に向かっていく――桐高にではなく、路上の右側にある柱の方に。

 助走をつけ、飛び上がった薫は空中で体勢を変える――柱に足の裏をつけると、今度は柱を蹴って、桐高の頭上を通り越す。

 立体的な運動、人間離れした(わざ)。しかも桐高は現在、鉄の柱を相手にしている最中(さなか)。黒い『断絶』によって、薫の姿は完全に死角だ。

 タイルに着地する音は、先ほどから降り続ける土砂の豪雨が掻き消してくれた。『T』字型のアーケードの交差点付近に着地し、桐高の真後ろを取った薫は、あらん限りの力を込めて、桐高に回し蹴りを見舞う。

 蹴りで巻き込む空気は、吹き荒ぶ業風と化す。気づいた桐高が振り向き、腕を伸ばす。

 そんな細い腕、巻き込んでへし折ってやる――凶暴な本能が赴くままに、薫は桐高の腕を蹴りながら、本命である胴体にまで届けようと、膝を伸ばして、捻りを加え、脚を強引に押していく。

 ――が、薫は思い知ることになる。断絶は、一つではないのだと。

 鉄の柱を相手にしている黒とは別に、桐高の腕からもう一つの黒が広がったのだ。

「っ!」

 予想外の反撃に、ぞっ、と薫は背筋を凍らせる。

 手の平から広がる断絶の黒色。自分の足が触れているからか、人食い鮫の口腔もかくやという凶暴性をイメージしてしまう。

 まさか、断絶は複数展開できたのか――思慮の浅さを嘆きながらも、薫の脳裏に浮かぶのは、二つの選択肢。

 一つ目は、このまま蹴りを続行して、本格的に断絶が広がり、薫の足を消し尽くす前に、桐高の内臓をシェイクして意識を奪ってしまうこと。

 二つ目は、やはりもう一度退くこと。

 瞬時に広がる黒が、ついにズボンの裾を侵食しようとし始めたところで、薫はチャンスを放棄する決意を固めた。

「クソッ!」

 脚を退き、地面を蹴る。悪意を持って桐高に向かってタイルを割って蹴り飛ばすが、どれも断絶を前に消されていく――役立たず――土塊を相手に罵るのも虚しい。

 最後に打撃を見舞ってやろうかと左腕を構えるが、そう何度も同じ手を喰らう桐高でもない。手の平の前に広がる攻防一体の断絶が、薫を牽制する。

「ちっ……」

 舌打ち――離れて薫は膝を突く。いくら『蓮灘の記録』とはいえ、地面を蹴り崩して、鉄柱を倒している。筋肉の疲労と関節へのダメージは少なくない。満身創痍というわけでもないが、身体には確実にガタが来ている

 響き渡る轟音と共に、大穴の開いた鉄柱が倒れる。

 土砂の雨が止み、土煙が晴れていく。そこに佇む男には、傷一つありはしない。光をも拒絶する断絶が、黒い雨傘のように、僅かに降る砂と礫から桐高を守る。

 まさに化け物。裁定委員会の裁定員が手も足も出なかったというのも頷ける。

「百聞は一見にしかずというが……これが蓮灘の記録か。すごいな、人間の膂力も、願いを極めたら、こんなになるんだな」

 感嘆の声は、桐高の素直な賞賛だった。だがそれは、薫にとっては彼の余裕を見せ付けられる挑発でしかない。

「ま、でもこれでサイナラだ」

 次に動いたのは、桐高の方だった。

 音は無い。空気を消して、風を凪いで、光を黒く塗り替える断絶が、薫の視界で膨張した。

 はじめ、薫はそれが何なのか分からなかった。巨大な盾のように、断絶を展開しているのかとも思った。全体的に視界が暗いのも、答えを出すまでに時間を食った原因の一つだ。

 だが――黒の膨張が、路面のタイルを少しずつ減らしているのが見て――それが、近づいてきているのだと分かった。

 人間の目は、光の反射によって物を見る。遠近の感覚――近づいているか、遠ざかっているかは、物が大きくなっているか、それとも小さくなっているかも判断の基準の一つであるし、他のものとの相対的な大きさなどの比較もある。

 しかし、もとより不定形の断絶、光を一切反射しない『黒』一色では、それが『近づいている』のか、それとも『膨張しているのか』の区別はつかない。

 薫の判断は迅速だった。くるりと後ろに背を向けて、薫は一気に駆け出した。じりじりと後退していたら、あの黒いのに飲み込まれる――。

「ああ、駄目だ、そっちも」

 桐高の断絶が、濁流のようにアーケードの道を全てを飲み込む。もはやアメーバのような化け物だった。どれだけ逃げようと追ってくる。

 走る速度を倍に上げて、薫は曲がり角を曲がると、中央の通りを駆けていく。だが、そのくらいで桐高の領域からは逃れられない。

 断絶が、機関銃の掃射の如く吹き荒れる。背後で、既に潰れた宝石店とCDショップが食い千切られた。

 建物越しの攻撃は、文字通り暴力の嵐。全てを飲み込む波と化し、黒い断絶が迫り来る。

 逡巡――波が頭上を覆っている。黒い波が左右を飲み込んでいる。逃げられる方向は真正面しか……。

 走りながら、背後に振り返る。タイルを(むし)り、コンクリートの地表を板チョコみたいに砕き割る黒い波。自重に耐え切れなくなったのか、地表のあちこちが割れて落ちていく……。

 未曾有の災いに薫は、ぞっとする。こうなれば疲労を度外視して、あの黒い波を飛び越えるしかないか――。

 そこで、ふと思いつく。だが、危険な賭けだ。でも――このまま逃げていても勝ち目は無い。

 覚悟を決めて、薫は足を止めると、振り返って黒い波に対峙し、そして――。


 跪く。腰を下ろして嵐が静まるのを待ちながら、息を整え、全身の筋肉に休息を与える。本来の『蓮灘の記録』の力が十全に活かせていたのなら、生きているのは当然で、いま薫かが感じているほどの疲労はしないはずだ。しかし薫の理解が十分でないから、うまく使えず、こんな醜態を晒しているのだ。

 ――くそ、もしこの身体じゃなけりゃ、死んでるところだ……。

 暗い場所で、薫は舌打ちした。それは『この身体』という単語に対して。

 蓮灘の記録が、他人との繋がり……他人を意識させる原因だというのなら……この力に頼って鈴切桐高を打倒したのでは、意味が無い。

 なぜなら、薫が憧れ、そして超えたいと思った鈴切桐高の在り方は、独りでも揺るがない強さだからだ。なのに自分が用いる力……自分が振り回されている力が他人のモノでは、なんの意味も無い。

 彼の願いは自分の物なのに、薫の膂力は他人の作成物。これでは鈴切桐高と公平な戦いをしているとは……そして彼の『断絶』と、真っ向から勝負しているなんて、とてもじゃないけど言えられない気がする。

 こんな危険な時なのに、こんなつまらない考えが浮かんでしまうあたり、注意が散漫しているのは明白すぎるが、ここで考えるのを中断しても、シコリとして残った命題は、薫の集中を阻害するだろう。――なら、いま答えを出してしまえ。

 薫は考える。なんで私は、他人のモノを……『蓮灘の記録』たる身体を使って、桐高に挑むのか……。否――違う。そんなのは、どうだっていいことなんだ。

 ――私は……。

 かつかつと、足音が反響して鼓膜を揺らす。鈴切桐高だ。ここに近づいてきている。薫を仕留めたか確認するために、こっちに来てるに違いない。だが、まだ存在には気づいていないだろう。仕留めるなら、ヤツが薫の姿を見失っている今しかない。とりわけ最高の時機(タイミング)は、互いの平行な距離(・・・・・)が重なった時だ。それまでに、薫は自らに課した命題に、答えを出さねばならない。

 薫は瞼を閉じて考える。桐高を打倒して、自分を納得させられる理由を模索する。

 独りとは、理解されずに距離を感じる、精神的な、心理的な、社会的なもの。

 人の間と書いて人間と言う。人間は、人の間にいる生き物なのだ。けれどそれは、寂寞を感じないという意味ではない。誰かといても、独りなのだと、どこかで意識している。

 だが鈴切桐高のそれは、寂寞を抱くなんて、そんな主観的ではない――また別の一人である。孤独を感じているかもしれない。孤立を実感しているかもしれない。疎外に打ちひしがれているかも知れない。けれど彼は、なにか力を持っていて、一人である事を当然として受け止め、独りだからと屁にもしない。まるで王のような風格――その姿、その雰囲気に薫は憧憬を抱いた。

 薫はなんとなく分かる。彼の場合、ただ独りなだけじゃない。他者から見て、彼を一人とするしかない、力による淵がある。彼が独りを感じていたとしても関係ない。彼には、人を寄せ付けず、独りになる力を有しているのだ。そして彼は、それに耐えられる、強い力を持っている。

 そう――薫は、あの背中に辿り着きたかったのだ。一人であろうと独りであろうと、自分を保てる正真正銘の力。『蓮灘の記録』なんてものに振り回されない、自分だけで生きていける力が欲しい。

 なら――『蓮灘の記録』という他人の力を無闇に(ふる)って『断絶』を破る行為はお門違い。たとえやったとしても意味が無い……勝手に『蓮灘の記録』が暴走して勝っただけでは、薫ではない他人が勝ったのと同じだ。

 薫は頭を抱えた。違う、そうじゃない。――このままじゃ、私の行動は無意味になる。そんなの嫌だ――もう少し……そうじゃないんだ。私とアイツの違いは何だ?

 かつかつと、急かすように、男の足音は近づいてくる。

 桐高の力は、望んで手に入れたもの。独りであるがゆえ、一人になるための『断絶』の力。

 薫の力は、望まずして手に入れたもの。それは他者のものだから、独りだったとしても一人になることができない身体の力。

 けれど薫は、鈴切桐高と同じ生き方を望んでいる――ならば、他者のモノ(・・)でなく、自分の()にすれば良い。

 力とは、振り回されるのではなく、御して制するべきである。振り回され、巻き込まれるならそれは疎外。そんなの私は望んでいない。私が望んでいる力は――振り回される力ではなく、御せる力なのだから。

 薫は結論に辿り着く。客観的には僅かな時間でも、主観的には長く苦痛な時間だった。

 足音が近づいてくる。這うようにして、薫は穴倉の奥に進む(・・・・・・・)

 ――『解創の力……この世に具現する願いの影響力は、願いの深度に比例する』

 角川の言葉が脳裏を過ぎる。そう――願いの深度、思いの強さは、解創の強さに直結する。

 ――『断絶』の強さと、『蓮灘の記録』を自分の物にして、独りになろうとする願いは『独りを望む』という点で同質だ。だから、私が鈴切桐高に勝利できたとしたら、それは私の力が……思いが、鈴切桐高のそれを上回ったって事だ。

 桐高を上回る薫の力――それは『蓮灘の記録』ではない。これは薫が持っている一つの立派な願いだ。自分を理解したいという願い。他者に与えられた力を理解して、自分を理解したいという力。これが薫の自己同一性(アイデンティティ)。自分探しは、今まさに始まったばかり。

 願いの力は加算ではなく乗算だ。『蓮灘の記録』は身体の能力を高めるもの。それだけでは『断絶』の力を持つ桐高には対抗できない。できたとしても、それは意図しないもの。災害と同じだ。

 しかし薫の理解が十分であれば――『蓮灘の記録』を上手く用いることができる。持っている力と、それを使う力。両方揃えば勝機は有る。

 そう――問題なのは、力を使う力が無い今は、『蓮灘の記録』はあくまで誰かの借り物でしかないということで。

 ――私がこいつに疎外されず、私のものに出来たなら……『蓮灘の記録』は他人のものなんかじゃない。

 薫が膝を曲げ、真っ暗闇の天を仰ぐ。見つめるのは、宙ではなくて、アスファルト。

 薫は『断絶』によって食い千切られたアスファルトの穴に飛び込んで、地下にいたのだ。迫りくる『断絶』の波の動きを見切らなければ、失敗して塵芥と果てる危険な賭け。だが成功した。頭上は薄いアスファルト――そして今、かつかつ、という足音は真上に来た。


 ――鈴切桐高を倒せば、『蓮灘の記録』を私の力にできた証明になる――!


 弾けるように飛び上がり、薫は闇の天井に向けて、掌を突き刺さした。

 亀裂から漏れる月の光――そして砕けて散る天蓋。

 路上を歩いていた桐高は、いったい何が起こったのか、すぐには理解できなっただろう。ただ歩いていたら、突如、落下の浮遊感に襲われた――そのくらいの感想しかない筈だ。

 自由落下の不意打ちに混乱し、願いすら間に合わず、いまだ『断絶』が囲んでいない下方向――そこが薫の狙い目だ。砕けた地の下、奈落に獲物が潜んでいようなどと、一体誰が考えようか。

 もっとも、獲物は何時(いつ)の間にかにか天敵と化していたのだが。

 砕け散る黒い瓦礫の暴落を浴びながら――蓮灘薫の突き上げるようなボディーブローが、浮遊で無防備だった鈴切桐高の腹部を打ち抜いた。


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