#16 薫
飛び出した薫は、木から飛び降りる豹のように、急速に、かつ獰猛に、獲物である桐高へと肉薄する。
薫は着地すると、左脚を軸に見立て、前進の勢いを回転する力に変換して放つ――それは右脚による後ろ回し蹴り。伸ばされた腕の遠心力も加われば、速度と威力に拍車が掛かる。
踏み込み――軸となる左脚の位置は、通常の回し蹴りよりも、なお深い。拳による打撃でも十分に届く距離。だがこの位置ならば、後ろに回転する右脚の脹脛が相手の頭の側部にヒットするより前に、勢い良く膝を曲げることで、相手の後頭部を踵で穿つ事が出来る。脚力の勢い、全身を活かした遠心力、そして膝の力まで使ったそれが、薫が初手で望んだ変則の蹴り。たとえ屈んで回避されても、縮まった膝は、伸ばす力で第二撃を放つことが出来る。次手まで考えた最善手――の筈だった。
その瞬間、桐高の前に黒が現れた。暗幕のように遮る黒が、無警告に空間を絶つ。
――ッ!
何を予期したのかは分からない。ただ、穿たれた穴のようなそれに、内臓から吸い込まれていく感覚があった。
薫は思考する。――あれに接触したら、何が起こる?
獣を上回る薫の第六感が、接近を中止させる。
だが遅い。靴底は……すでに彼女の足は、彼の黒に触れていた。
淵に落ちれば、桐高が人に対して抱くのと印象と、同一の事象が具現化する。薫は見た――黒に触れた自分の靴が、ぞりぞりと抉り取られていく瞬間を。
――ッ!
脳内で警鐘の大合唱。衝撃的な映像に、薫の意識が白く灼ける。
薫は全身に急激な逆回転を掛ける。急制動と無理な捻りに脇腹の筋肉が悲鳴を上げる中、膝を曲げて右脚を逃がしながら、苦し紛れに左腕で裏拳を放つ。
桐高の側頭部に、馬の蹄のように硬い手の甲が叩き込まれる。
祈祷は間に合わない。桐高が腕を使って打撃を防ぐ。薫は素早く腕を錐揉みに半転させると、手の平で桐高の腕を押す。
まるで、暴れ牛にぶつかったかのように、桐高の腕が後ろに弾かれて体勢が崩れる。その隙に、薫は地を蹴って安全圏へと退避する。
時間にして、五秒に満たない一連の攻防。それだけで、薫は彼の解創の認識を改めた。彼の独りへの執着の薄さから、その解創も比例するかと予想していたが……どうやら、そういうわけでもないようだ。
彼の断絶は、槍でも剣でも盾でもない。それは火炎に近いモノ。ただ、輝きは無く、無機も有機も分別なく、灰も残さず消し尽くすから、もっと性質が悪い。
唯一の救いといえば、炎と違い『燃え移る』という事が無い点だ。現に、靴底が消失した右脚の運動靴は、足の裏を露わにしていたが、熱も帯びていなければ、崩壊が進んでいるわけでもない。ただ破れて不良品に成り下がっただけで済んでいる。
桐高は口先では、独りへの執着は無いように言っていたが、これほどの解創が為せるのならば、やはり願いは深いはずだ。虚言だったのか――それとも、この男の願いの深さ……執着は、半ば諦めていても、なお常人の一心な願いと同等以上なのか。
どちらにせよ――薫の中で、桐高への執着が再燃するには十分すぎる。解創の力は、願いの力に他ならない。これだけの力を見せ付けられて、誰が正気を保っていられようか?
薫は警戒から桐高を注視し続ける。桐高は、従えるように黒を引き連れて、ゆっくりと薫に近づいてくる。一見、無防備に見えるが、彼の周囲に滞留する黒が、何物よりも強固な防御である。そこに隙は無い。
「おい、いくらお前とツルみたいとは言っても、お前のほうから敵対されちゃ、俺もお前に手を出さなきゃいけなくなるんだが、いいのか?」
本気で掛かってくるなら上等――薫の望むところだが、しかし先ほどのことを鑑みると、直線に攻めても効果が薄い。
となると、彼の視界の外からでないと、有効な打撃は放てない。彼の目に映ってしまえば、断絶の対象となるのだから。
――となると、上か。
周囲を観察する。タイルの路面、閉店中の店が、壁のように左右に並んでいる。店と店の間には、仕切りのように柱がある。左右に整列して屹立するそれは、林道に並ぶ巨木のように見えた。
問題は――現在、桐高の視界にいる状況で、どうやって相手の死角に入るかという点だ。
周囲に、目隠しになりそうなものは無い……どうするか考えを働かせながら、桐高と、その周囲に蔓延る黒を見る。
薫は一呼吸、深く息を吸い込み――直後、思いっきり力を込めて、斜めに角度を付けて、路上のタイルを踏み抜いた。
突如、繁華なトンネル内に、土砂と混凝土の瀑布が顕現する。瀑布は天から墜ちるのではなく、天に向かって噴出していた。まるで破裂した水道管の有様。さらに薫はローキックのように、地面に埋まったままの右脚を回して、地面に弧を描く。――強靭な筈の身体――その右足首に、僅かな痛みを感じて薫は顔を顰める。
土塊と粉塵の暗幕。透明の天蓋に届いて弾かれ、地面に土砂の豪雨を撒き散らす。斜めに角度のついた蹴りによって放たれれば、土塊は暗幕でなく弾幕となり、弧を描いて桐高に襲い掛かる。これで目隠しになっただろう――薫は次の行動に移る。道の左側にあった柱に向かって走る。
柱を中心に半円を描くように走って、柱のどの辺りが良いか選び抜く。
大まかな箇所の選択が終わると、薫は柱と距離をとり、桐高に背を向ける――が、土砂の幕で、彼からは無防備な薫の背中を視認できない。一瞬の思考で角度を計算――助走をつけて地から離れると、薫は上から下――斜めに角度を付けて、柱に向かってドロップキックを叩き込む。老朽化していた柱が、巨人の呻きのような悲鳴を漏らす。
ぐらつく人工の巨木。断面が見られれば、三十度ほどの角度の凹みになっている筈だ。すかさず薫は、凹んだ場所の裏側に回り込むと、先ほど蹴りを加えた箇所より心持ち上に、掌底の第二撃を叩き込む――打撃が命中した後も、なおもしつこく、薫は手の平を柱へと捻り込んでいく。
山林で木を切ることを生業とする林業者、彼らの伐倒の用語で、『受け口』と『追い口』というものが存在する。
倒す方向に合わせて、断面からみれば『∠』の形になるように立木に入れる切れ込みを『受け口』という。逆に受け口の反対側に『追い口』という、直線的な切り口を入れる。
その後、追い口を『く』の字のように切り開いていくと、自重によって、反対側にある受け口は潰れていくのだ。こうすることで林業者たちは、立木を狙った方向に、正確に倒すことが出来る。
薫の場合、対象は鉄の柱。使うのはチェーンソーでなく打撃だが、原理は相似している。二度目の掌底によって、最初の蹴りで凹んだ部分に、自重が掛かって傾いていく。
熊や大猩々であろうと、それで数トンもある鉄製の柱を折るのは不可能だろう。しかし蓮灘の記録は常識の外にある。さらに計算を加えられた打撃を前に、十メートルに及ぶ鉄の柱は、ついに敗北を喫した。
べこん、という、特大の中華鍋でも落としたような金属音が響き渡る。
鉄の柱は薫の意により、正確に桐高に向かって倒れていく。数トンに及ぶ力を前にすれば、桐高は『断絶』を全開にして迎え撃つしかない。
直後、土煙の向こう側で、黒い何かが広がった。倒れてきた鉄の柱を、断絶によって防いでいるのだろう。
――狙い通りだ!
にやりと笑って、薫は弾丸のように飛び出した。チーターのように路上を駆け抜け、一直線に向かっていく――桐高にではなく、路上の右側にある柱の方に。
助走をつけ、飛び上がった薫は空中で体勢を変える――柱に足の裏をつけると、今度は柱を蹴って、桐高の頭上を通り越す。
立体的な運動、人間離れした業。しかも桐高は現在、鉄の柱を相手にしている最中。黒い『断絶』によって、薫の姿は完全に死角だ。
タイルに着地する音は、先ほどから降り続ける土砂の豪雨が掻き消してくれた。『T』字型のアーケードの交差点付近に着地し、桐高の真後ろを取った薫は、あらん限りの力を込めて、桐高に回し蹴りを見舞う。
蹴りで巻き込む空気は、吹き荒ぶ業風と化す。気づいた桐高が振り向き、腕を伸ばす。
そんな細い腕、巻き込んでへし折ってやる――凶暴な本能が赴くままに、薫は桐高の腕を蹴りながら、本命である胴体にまで届けようと、膝を伸ばして、捻りを加え、脚を強引に押していく。
――が、薫は思い知ることになる。断絶は、一つではないのだと。
鉄の柱を相手にしている黒とは別に、桐高の腕からもう一つの黒が広がったのだ。
「っ!」
予想外の反撃に、ぞっ、と薫は背筋を凍らせる。
手の平から広がる断絶の黒色。自分の足が触れているからか、人食い鮫の口腔もかくやという凶暴性をイメージしてしまう。
まさか、断絶は複数展開できたのか――思慮の浅さを嘆きながらも、薫の脳裏に浮かぶのは、二つの選択肢。
一つ目は、このまま蹴りを続行して、本格的に断絶が広がり、薫の足を消し尽くす前に、桐高の内臓をシェイクして意識を奪ってしまうこと。
二つ目は、やはりもう一度退くこと。
瞬時に広がる黒が、ついにズボンの裾を侵食しようとし始めたところで、薫はチャンスを放棄する決意を固めた。
「クソッ!」
脚を退き、地面を蹴る。悪意を持って桐高に向かってタイルを割って蹴り飛ばすが、どれも断絶を前に消されていく――役立たず――土塊を相手に罵るのも虚しい。
最後に打撃を見舞ってやろうかと左腕を構えるが、そう何度も同じ手を喰らう桐高でもない。手の平の前に広がる攻防一体の断絶が、薫を牽制する。
「ちっ……」
舌打ち――離れて薫は膝を突く。いくら『蓮灘の記録』とはいえ、地面を蹴り崩して、鉄柱を倒している。筋肉の疲労と関節へのダメージは少なくない。満身創痍というわけでもないが、身体には確実にガタが来ている
響き渡る轟音と共に、大穴の開いた鉄柱が倒れる。
土砂の雨が止み、土煙が晴れていく。そこに佇む男には、傷一つありはしない。光をも拒絶する断絶が、黒い雨傘のように、僅かに降る砂と礫から桐高を守る。
まさに化け物。裁定委員会の裁定員が手も足も出なかったというのも頷ける。
「百聞は一見にしかずというが……これが蓮灘の記録か。すごいな、人間の膂力も、願いを極めたら、こんなになるんだな」
感嘆の声は、桐高の素直な賞賛だった。だがそれは、薫にとっては彼の余裕を見せ付けられる挑発でしかない。
「ま、でもこれでサイナラだ」
次に動いたのは、桐高の方だった。
音は無い。空気を消して、風を凪いで、光を黒く塗り替える断絶が、薫の視界で膨張した。
はじめ、薫はそれが何なのか分からなかった。巨大な盾のように、断絶を展開しているのかとも思った。全体的に視界が暗いのも、答えを出すまでに時間を食った原因の一つだ。
だが――黒の膨張が、路面のタイルを少しずつ減らしているのが見て――それが、近づいてきているのだと分かった。
人間の目は、光の反射によって物を見る。遠近の感覚――近づいているか、遠ざかっているかは、物が大きくなっているか、それとも小さくなっているかも判断の基準の一つであるし、他のものとの相対的な大きさなどの比較もある。
しかし、もとより不定形の断絶、光を一切反射しない『黒』一色では、それが『近づいている』のか、それとも『膨張しているのか』の区別はつかない。
薫の判断は迅速だった。くるりと後ろに背を向けて、薫は一気に駆け出した。じりじりと後退していたら、あの黒いのに飲み込まれる――。
「ああ、駄目だ、そっちも」
桐高の断絶が、濁流のようにアーケードの道を全てを飲み込む。もはやアメーバのような化け物だった。どれだけ逃げようと追ってくる。
走る速度を倍に上げて、薫は曲がり角を曲がると、中央の通りを駆けていく。だが、そのくらいで桐高の領域からは逃れられない。
断絶が、機関銃の掃射の如く吹き荒れる。背後で、既に潰れた宝石店とCDショップが食い千切られた。
建物越しの攻撃は、文字通り暴力の嵐。全てを飲み込む波と化し、黒い断絶が迫り来る。
逡巡――波が頭上を覆っている。黒い波が左右を飲み込んでいる。逃げられる方向は真正面しか……。
走りながら、背後に振り返る。タイルを毟り、コンクリートの地表を板チョコみたいに砕き割る黒い波。自重に耐え切れなくなったのか、地表のあちこちが割れて落ちていく……。
未曾有の災いに薫は、ぞっとする。こうなれば疲労を度外視して、あの黒い波を飛び越えるしかないか――。
そこで、ふと思いつく。だが、危険な賭けだ。でも――このまま逃げていても勝ち目は無い。
覚悟を決めて、薫は足を止めると、振り返って黒い波に対峙し、そして――。
跪く。腰を下ろして嵐が静まるのを待ちながら、息を整え、全身の筋肉に休息を与える。本来の『蓮灘の記録』の力が十全に活かせていたのなら、生きているのは当然で、いま薫かが感じているほどの疲労はしないはずだ。しかし薫の理解が十分でないから、うまく使えず、こんな醜態を晒しているのだ。
――くそ、もしこの身体じゃなけりゃ、死んでるところだ……。
暗い場所で、薫は舌打ちした。それは『この身体』という単語に対して。
蓮灘の記録が、他人との繋がり……他人を意識させる原因だというのなら……この力に頼って鈴切桐高を打倒したのでは、意味が無い。
なぜなら、薫が憧れ、そして超えたいと思った鈴切桐高の在り方は、独りでも揺るがない強さだからだ。なのに自分が用いる力……自分が振り回されている力が他人のモノでは、なんの意味も無い。
彼の願いは自分の物なのに、薫の膂力は他人の作成物。これでは鈴切桐高と公平な戦いをしているとは……そして彼の『断絶』と、真っ向から勝負しているなんて、とてもじゃないけど言えられない気がする。
こんな危険な時なのに、こんなつまらない考えが浮かんでしまうあたり、注意が散漫しているのは明白すぎるが、ここで考えるのを中断しても、シコリとして残った命題は、薫の集中を阻害するだろう。――なら、いま答えを出してしまえ。
薫は考える。なんで私は、他人のモノを……『蓮灘の記録』たる身体を使って、桐高に挑むのか……。否――違う。そんなのは、どうだっていいことなんだ。
――私は……。
かつかつと、足音が反響して鼓膜を揺らす。鈴切桐高だ。ここに近づいてきている。薫を仕留めたか確認するために、こっちに来てるに違いない。だが、まだ存在には気づいていないだろう。仕留めるなら、ヤツが薫の姿を見失っている今しかない。とりわけ最高の時機は、互いの平行な距離が重なった時だ。それまでに、薫は自らに課した命題に、答えを出さねばならない。
薫は瞼を閉じて考える。桐高を打倒して、自分を納得させられる理由を模索する。
独りとは、理解されずに距離を感じる、精神的な、心理的な、社会的なもの。
人の間と書いて人間と言う。人間は、人の間にいる生き物なのだ。けれどそれは、寂寞を感じないという意味ではない。誰かといても、独りなのだと、どこかで意識している。
だが鈴切桐高のそれは、寂寞を抱くなんて、そんな主観的ではない――また別の一人である。孤独を感じているかもしれない。孤立を実感しているかもしれない。疎外に打ちひしがれているかも知れない。けれど彼は、なにか力を持っていて、一人である事を当然として受け止め、独りだからと屁にもしない。まるで王のような風格――その姿、その雰囲気に薫は憧憬を抱いた。
薫はなんとなく分かる。彼の場合、ただ独りなだけじゃない。他者から見て、彼を一人とするしかない、力による淵がある。彼が独りを感じていたとしても関係ない。彼には、人を寄せ付けず、独りになる力を有しているのだ。そして彼は、それに耐えられる、強い力を持っている。
そう――薫は、あの背中に辿り着きたかったのだ。一人であろうと独りであろうと、自分を保てる正真正銘の力。『蓮灘の記録』なんてものに振り回されない、自分だけで生きていける力が欲しい。
なら――『蓮灘の記録』という他人の力を無闇に揮って『断絶』を破る行為はお門違い。たとえやったとしても意味が無い……勝手に『蓮灘の記録』が暴走して勝っただけでは、薫ではない他人が勝ったのと同じだ。
薫は頭を抱えた。違う、そうじゃない。――このままじゃ、私の行動は無意味になる。そんなの嫌だ――もう少し……そうじゃないんだ。私とアイツの違いは何だ?
かつかつと、急かすように、男の足音は近づいてくる。
桐高の力は、望んで手に入れたもの。独りであるがゆえ、一人になるための『断絶』の力。
薫の力は、望まずして手に入れたもの。それは他者のものだから、独りだったとしても一人になることができない身体の力。
けれど薫は、鈴切桐高と同じ生き方を望んでいる――ならば、他者のモノでなく、自分の物にすれば良い。
力とは、振り回されるのではなく、御して制するべきである。振り回され、巻き込まれるならそれは疎外。そんなの私は望んでいない。私が望んでいる力は――振り回される力ではなく、御せる力なのだから。
薫は結論に辿り着く。客観的には僅かな時間でも、主観的には長く苦痛な時間だった。
足音が近づいてくる。這うようにして、薫は穴倉の奥に進む。
――『解創の力……この世に具現する願いの影響力は、願いの深度に比例する』
角川の言葉が脳裏を過ぎる。そう――願いの深度、思いの強さは、解創の強さに直結する。
――『断絶』の強さと、『蓮灘の記録』を自分の物にして、独りになろうとする願いは『独りを望む』という点で同質だ。だから、私が鈴切桐高に勝利できたとしたら、それは私の力が……思いが、鈴切桐高のそれを上回ったって事だ。
桐高を上回る薫の力――それは『蓮灘の記録』ではない。これは薫が持っている一つの立派な願いだ。自分を理解したいという願い。他者に与えられた力を理解して、自分を理解したいという力。これが薫の自己同一性。自分探しは、今まさに始まったばかり。
願いの力は加算ではなく乗算だ。『蓮灘の記録』は身体の能力を高めるもの。それだけでは『断絶』の力を持つ桐高には対抗できない。できたとしても、それは意図しないもの。災害と同じだ。
しかし薫の理解が十分であれば――『蓮灘の記録』を上手く用いることができる。持っている力と、それを使う力。両方揃えば勝機は有る。
そう――問題なのは、力を使う力が無い今は、『蓮灘の記録』はあくまで誰かの借り物でしかないということで。
――私がこいつに疎外されず、私のものに出来たなら……『蓮灘の記録』は他人のものなんかじゃない。
薫が膝を曲げ、真っ暗闇の天を仰ぐ。見つめるのは、宙ではなくて、アスファルト。
薫は『断絶』によって食い千切られたアスファルトの穴に飛び込んで、地下にいたのだ。迫りくる『断絶』の波の動きを見切らなければ、失敗して塵芥と果てる危険な賭け。だが成功した。頭上は薄いアスファルト――そして今、かつかつ、という足音は真上に来た。
――鈴切桐高を倒せば、『蓮灘の記録』を私の力にできた証明になる――!
弾けるように飛び上がり、薫は闇の天井に向けて、掌を突き刺さした。
亀裂から漏れる月の光――そして砕けて散る天蓋。
路上を歩いていた桐高は、いったい何が起こったのか、すぐには理解できなっただろう。ただ歩いていたら、突如、落下の浮遊感に襲われた――そのくらいの感想しかない筈だ。
自由落下の不意打ちに混乱し、願いすら間に合わず、いまだ『断絶』が囲んでいない下方向――そこが薫の狙い目だ。砕けた地の下、奈落に獲物が潜んでいようなどと、一体誰が考えようか。
もっとも、獲物は何時の間にかにか天敵と化していたのだが。
砕け散る黒い瓦礫の暴落を浴びながら――蓮灘薫の突き上げるようなボディーブローが、浮遊で無防備だった鈴切桐高の腹部を打ち抜いた。




