#10 桐高
心には、壁があると人は言う。
だが彼は知っている。それは壁ではなく、淵の間違えだ。高さというものが、そもそも無い。あるのは深さだけだ。
けれど落ちた時のことを考えると、人は一歩を踏み出せない。淵はそれ以上、深くならない。だが不安から来る想像は、無限に淵を深く見せる。
鈴切桐高は知っている。他人から見た己の解創は、淵という、針小棒大なものであることを。
人と人との間にあるのは、登り越せない壁ではなく、飛び越せない淵なのだと。
落ちること、墜ちること、堕ちること。人は、それが怖いのだ。
人は淵を見て想起する。落ちれば痛い、墜ちれば死ぬ、墜ちれば醜く卑しくなる。落ちさえしなければいいのに、落ちた時のことばかりを考える。
鈴切桐高は知っている。そんな事ばかり考えるから、人間は、いつまで経っても淵を越えられないのだと。
鈴切桐高は公園にいた。そこは少々広い自然公園だった。
広い敷地には、遊具が集まった空間や、整備されていない大きな池と散歩道、そして急斜面の林の丘がある。桐高の感覚だと、その丘は山と言っていい大きいのだが、この大きさだと、『山を舐めるな』と田舎者に怒られそうなので、丘と形容しておく。
桐高は、公園の中央にある、屋根のついた休憩所のベンチに座っていた。敷地がそこそこあるので休憩所は幾つかあるが、石畳で出来ていて、モダンな雰囲気を醸し出す場所は、ここだけだ。
朝の寒い空気は、張り付くように肌を冷めさせる。鼻に至ってはトナカイのように赤くなっているだろう。桐高は鼻をすすりながら、じっと、ただじっと座っていた。寒いと動く気すらなくなるもので、こうしてじっとしていると、体温という熱ですら、どれだけ貴重なものなのか、身をもって体感できる。
だが、自己完結した暖かい服の中の世界を満喫しながらも――気付いていた。なにやら自分に視線を向ける人間の存在を。
……ここでは人目につくからやりにくい。いくらこんな朝っぱらとはいえ、ジョギング後の休憩中らしき男や、弦楽器を持参して演奏している二人の老男、読書中の眼鏡の少女など、少人数とはいえ、普通の人間がチラホラいる。
だがやりにくいのは相手も同じ。騒ぎになれば難儀だ。桐高が人目の届かない所に移動すれば、仕掛けてくるに違いない。
桐高はベンチから立ち上がる。膝を伸ばすと、張り詰めていたジーンズの裾が、一気に緩くなる。この感覚は嫌いではなかった。張り付いていると気持ち悪い。適度な間隙は、両者に良い影響を与える。
休憩所から離れ、散歩道へと入る。……散歩道というわりに、丸太で形成された坂道は急で、かつ、段の一つ一つが高く、そして悪意を感じる微妙な奥行きがあるから、大きく膝を曲げないと上れない。これは散歩というより負荷運動だ。
この時間の公園には、人の姿が少ない。こんな不人気そうな散歩道ならなおさらだ。朝も六時から山――もとい丘に登りたい人間は、そうそういない。
緑の葉っぱと茶色い樹木、それに近しい色の地面しかない筈の視界に……何か、不自然なものがあった。飴の袋だった。よく目を凝らせば、様々なものが捨てられている。空き缶だとか、白いプラスチックだとか。その全てが土に汚れているとはいえ、人為的な色は、自然の中では毒々しくて、いやに孤立していた。
丘の中腹にたどり着く。眼下にあった公園の風景は、いつの間にか密集した木々によって遮られて見えなくなっていた。この場所は外界とは隔離されているのだ。意識されず、見えないとあって、ここはもう立派な陸の孤島である。
「……もう、我慢しなくていいか」
一人、桐高は呟いていた。
一人、なんて言うと、周りに人はいないように思えるが――人は居た。
桐高は特定の出来ない人間を――相手を認識する。
瞬間、桐高の周囲に黒が現れた。
闇が舞い降りた、というには、些かニュアンスが違う。闇には、闇という意味がある。だが、これにはそれがない。正体は不明、だからただ、『黒』と形容するしかない。
不気味さだけを言えば、見えないから怖い闇と、そもそも何なのか理解できない『黒』とでは、比較にならない。
ただ願う。独りになりたい――一人になりたい、と。




