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第9話「祭壇が応える声」

 リオンの書簡を読み終えたカイは、それを机の上に静かに置いた。


 朝の執務室。私とルーカスが向かいに座っている。


「エレノア嬢。これを読んでいただけますか」


 差し出された書簡を受け取った。目を通すにつれて、指先が冷たくなっていく。


『エレノア・ヴァルシュタインは我が国の聖女に対し呪いをかけた疑いがある。即刻、当該人物の引き渡しを要求する。応じない場合、王国はしかるべき措置を取る用意がある——』


 呪い。


 私がリリアーナに呪いをかけた。浄化ができないのは私のせいだと。


 手紙が震えた。怒りではない。呆れですらない。ただ——虚しかった。五年間尽くした相手が、最後に寄越してきたのがこの嘘だということが。


「……事実ではありません。私は一度も——」


「わかっています」


 カイの声が遮った。穏やかだが、揺るぎのない声だった。


「呪いなど存在しないことは、古代魔導の知識があれば明白です。契約の継承者の力は浄化と再生であり、呪詛の系統には属しません」


 カイがルーカスに目を向けた。


「返書を用意してください。内容は以下の通り。——『エレノア・ヴァルシュタイン嬢は帝国の正式な客人であり、千年の盟約に基づき帝国皇家の保護下にある。引き渡しの要求には一切応じない。なお、根拠なき呪詛の嫌疑については、帝国として遺憾の意を表明する』」


 ルーカスが頷き、退出した。


 二人きりになった執務室で、カイが私を見た。


「怖い思いをさせてすみません」


「いいえ。……ただ」


 言葉を選んだ。


「リオン殿下は、リリアーナ嬢の言葉をそのまま信じたのでしょう。浄化ができないのは呪いのせいだと。真実を確かめもせず」


「五年間、あなたの仕事を確かめなかったのと同じですね」


 カイの指摘は静かだったが、正確だった。リオンは最初から最後まで——何も確かめない人だった。


「引き渡し要求は無視して構いません。それよりも——」


 カイが立ち上がった。


「浄化の準備を進めましょう。大祭まで九日。今日から、毎日祭壇で練習を行います。私も立ち会います」


   *


 古代神殿の祭壇の前に立つのは、これで三度目だった。


 初めて触れたときは、光が応答しただけだった。二度目は、紋様が共鳴して温かい風が吹いた。


 三度目の今日——何が起きるのか。


「浄化の儀は、三つの段階で構成されます」


 カイが祭壇の脇に立ち、説明した。


「第一段階、祭壇との接続。これは前回確認しました。第二段階、浄化の力の発動。継承者の意志で、祭壇を通じて土地に力を送ります。第三段階——」


 カイが言葉を切った。


「第三段階は、力の定着です。浄化した土地の状態を維持するために、継承者の力を祭壇に刻み込む。これが最も難しく、最も消耗する。クラーラ様は——お母上は、この第三段階で体力の限界を超え、命を縮めたと言われています」


 胸の奥が冷えた。


 母は、この力のために——。


「エレノア嬢。今日は第二段階の練習です。無理はしないでください。少しでも体に異変を感じたら、止めてください」


「……はい」


 祭壇に手を置いた。金属片は持っていない。もう必要なかった。紋様が直接、祭壇と繋がる。


 目を閉じた。


 母の魔法書に書かれていた一節を思い出す。『浄化とは、力を注ぐことではない。土地の声を聞き、土地が望む姿に導くことである』


 力を注ぐのではなく——聞く。


 意識を祭壇に沈めた。石の冷たさ。その奥にある、大地の脈動。もっと深く。土壌の中を流れる水。水に溶けた鉱物。根を張る草の呼吸。虫の蠢き。全部が、一つの大きな命の流れとして——。


 聞こえた。


 大地が、痛んでいる。


 五十年前の大戦で傷ついた土壌が、今も癒えずに苦しんでいる。毒が染み込み、水脈が濁り、草が育たない。薬草の生育が悪いのは——大地そのものが、まだ傷を抱えているからだ。


「——ここ」


 指先に力を込めた。正確には、力を込めたのではない。紋様を通じて、祭壇に意志を流した。「ここを癒したい」という、ただそれだけの意志を。


 母に教わった薬の調合と同じだ。病の原因を突き止め、適切な処方を選び、必要な量だけ投与する。大地の治療も、人の治療も、本質は変わらない。痛んでいる場所を見つけ、そこに必要なものを届ける。


 光が広がった。


 祭壇から金色の波紋が広がり、神殿の柱を伝い、石段を下り、丘全体に染み渡っていく。前回よりも遥かに強い光だ。


「——っ」


 カイが息を呑む音が聞こえた。


 光が丘を越えて広がっていく。見える範囲だけでも、半径一里はある。枯れた冬の丘の草が——光に触れた場所から——微かに、緑を帯び始めていた。


 真冬なのに。


「エレノア嬢、もう十分です。止めてください」


 カイの声が遠くから聞こえる。


 止めなければ。わかっている。けれど、大地の声がまだ聞こえる。もっと奥に、もっと深く、痛みがある。届けたい。もう少しだけ——。


「エレノア」


 カイの手が、私の手の上に重なった。


 温かかった。大地の脈動とは違う、人の体温。


 その瞬間、意識が祭壇から引き戻された。目を開けると、膝が崩れかけていた。カイの腕が、倒れる寸前の私を支えた。


「……すみません」


「謝らないでください。——十分すぎる結果です」


 カイの声が硬い。怒っているのかと思ったが、顔を見上げると——違った。硬いのは、心配で余裕がないからだ。


 紺色の瞳が、真剣にこちらを見ている。


「無理をしないでほしいと言ったでしょう」


「……はい。すみません。大地の声が聞こえて、つい——」


「大地の声」


 カイが繰り返した。ルーカスと目を合わせる。ルーカスの顔は蒼白だった。


「……大地の声が聞こえる継承者は、記録の中でも二人しかいません。——三人目です」


 母でさえ聞こえなかった声が、私には聞こえている。


 カイが静かに言った。


「エレノア嬢。あなたの力は、私の想像以上でした」


 想像以上。王国では、この力の存在すら知られていなかった。リオンは「お前に何ができる」と言った。父は「駒として使えなくなった」と切り捨てた。


 この力が——あの国にいる間、ずっと眠っていた。誰にも見つけてもらえず、私自身も気づかず。


「ただし」


 カイの声が鋭くなった。


「第三段階——力の定着は、体への負担が極めて大きい。今日の練習だけでも、相当消耗しているはずです。今後は毎日の練習に加えて、十分な食事と休息を取っていただきたい」


「……わかりました」


「それと——」


 カイが少し言いづらそうに、けれどはっきりと言った。


「練習の後は、薬草管理院の仕事は控えてください。体を休める時間を確保します」


「でも、管理院の在庫整理が——」


「ゲルツ医師に引き継ぎます。あなたが作った分類体系は、もうゲルツ医師たちが習得しています。あなたがいなくても回る体制を——あなた自身が作ったのです」


 私が作った体制が、私がいなくても回る。


 王国では、私がいなくなった途端にすべてが崩壊した。それは、私しかできない仕事を私にだけ押しつけていたからだ。


 帝国では違う。私が仕組みを作り、人に教え、引き継ぐ。私がいなくても回る体制を作ることが、私の本当の仕事だ。


「……ありがとうございます。カイ陛下」


「カイで構いませんと、前に言ったはずです」


「……カイ」


 呼び捨てにした瞬間、頬が熱くなった。カイも——一瞬だけ、視線を逸らした。


 ルーカスが背後で、ごく小さく咳払いをした。


   *


 その日の夕方。居室で休んでいると、マリーが伝書蝶を受け取ってきた。


「エレノアさま。帝国の南部駐屯地から、報告が届いています」


 報告書に目を通す。あの解毒薬で回復した兵士たちが、エレノアの名を覚えてくれているらしい。駐屯地の指揮官が「薬草管理院のエレノア嬢に感謝状を送りたい」と申し出ていると書かれていた。


 感謝状。私の名前で。


 王国では——疫病対策法案の感謝状は、リオンの名前で発行された。


 目頭が熱くなった。泣くほどのことではない。けれど、自分の名前で感謝される。ただそれだけのことが、こんなにも——。


「それと、もう一つ。帝国の商人組合から、エレノアさまの乾燥室設計を採用した他の薬草管理院が、薬草の廃棄率を四割削減したそうです」


 四割。一つの設計図で、帝国全体の薬草管理が改善し始めている。


 窓の外を見た。帝都の夕焼け。ここに来てまだ一ヶ月も経っていない。けれど、もう——ここが自分の場所だと、思える。ふと思い立って、母の魔法書を開いた。祭壇での練習を重ねるたびに、読める行が増えている。今日新たに読めた一節——『契約は、土地と血と意志に刻まれる』。意味はまだわからない。けれど、文字が向こうから近づいてくるような感覚があった。


   *


 翌朝、ルーカスが一通の報告書を持ってきた。


「エレノア嬢。王国の最新情報です。——リオン殿下が、帝国への引き渡し要求を拒否された怒りで、宰相ベルクハイム卿を更迭したそうです」


 手が止まった。


「……更迭」


「はい。ベルクハイム卿が独断で帝国に仲介を依頼したことが発覚し、殿下が激怒されたとのことです。後任の宰相は——リオン殿下の側近であるフェルディナント伯爵です」


 フェルディナント伯爵。リオンの取り巻きの中で最も声が大きく、最も能力がない人物。学院時代から、リオンの機嫌を取ることだけが得意な男だった。


 あの人が宰相になれば、王国にはもう——歯止めをかけられる人間がいなくなる。


「それと、もう一点」


 ルーカスの声が低くなった。


「大祭まであと八日ですが——王国の大祭では、リリアーナ嬢が浄化の儀を行うと正式に発表されたそうです。王太子殿下が直々に宣言したと」


 リリアーナが、浄化の儀を。


 祭壇が応じない力で。偽装も封じられた状態で。


「……できるはずがありません」


「ええ。帝国もそう見ています。——そしてエレノア嬢。帝国の大祭は、王国の大祭と同日に行われます」


 同じ日。


 帝国の祭壇で私が浄化を成功させる日と、王国の祭壇でリリアーナが失敗する日が——同じ。


 カイが、いつそれを知っていたのかはわからない。けれど、この日程が偶然ではないことだけは、確かだった。


「エレノア嬢」


 ルーカスが真剣な目で言った。


「大祭の浄化が成功すれば、あなたの名は大陸中に響きます。——そしてその日、王国では」


 言葉の続きは必要なかった。


 その日、王国の祭壇は——沈黙する。偽りの者には、応えないから。


 左手の紋様が、静かに光った。大地の声が、まだかすかに耳の奥で響いている。


 大祭まで、あと八日。

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