第8話「代わりはいなかった」
王国に、南部同盟からの正式書簡が届いたのは、エレノアが帝国を発ってから三週間後のことだった。
封蝋を切ったベルクハイムの手が止まった。
『貴国との条約更新交渉を無期限で凍結する。再開の条件として、先方の交渉担当者の変更を求める。なお、王太子殿下からの書簡に記された当方代表の氏名の誤記について、正式な謝罪を要求する。——南部同盟代表 ルドヴィク・シュヴァルツェンベルク侯』
無期限凍結。
この条約が更新されなければ、南部国境の交易路が閉ざされる。王国の歳入の二割を占める交易税が消える。それだけではない。南部同盟は帝国とも経済協定を結んでいる。王国が南部同盟を失えば、外交上の孤立が一気に進む。
ベルクハイムは書簡を手に、リオンの執務室へ向かった。三度目の進言になる。
「殿下。南部同盟のルドヴィク侯から——」
「また南部か。しつこいな。何と言ってきた」
「条約更新交渉の無期限凍結です。殿下のお名前の誤記について、正式な謝罪を求めています」
リオンの顔が赤くなった。怒りだ。ただし、自分の失態への怒りではない。
「余が謝罪だと? たかが侯爵風情が、王太子に謝罪を求めるとは。無礼にも程がある」
「殿下。侯の名前を間違えたのは、こちらの落ち度です。謝罪書を出し、交渉担当者を——」
「黙れ。余の書簡に不備などない。あの侯爵の名前が紛らわしいのだ。そもそも交渉など、別の同盟と結べばよい」
ベルクハイムは目を閉じた。別の同盟。三年かけてエレノア嬢が築いた信頼関係を、「別の」で片付ける。
「……殿下。南部同盟に代わる交易相手は存在しません。条約が凍結されれば、来年度の歳入が——」
「くどいと言っている。下がれ。ベルクハイム、余はお前の小言を聞くために王太子になったのではない」
老宰相は一礼して退出した。
廊下で、財務官ヘルムートが待っていた。顔色が悪い。
「宰相。帳簿の件ですが……不明支出が十二件から二十三件に増えました。先々月分まで遡ると、もう手に負えません」
「エレノア嬢の分類体系は」
「依然として解読不能です。我々のやり方で一から帳簿を組み直すしかありませんが、少なくとも三ヶ月はかかります。その間、国庫の正確な状況が把握できません」
三ヶ月。その間に何が起きるか、ベルクハイムには嫌というほどわかっていた。
「……エレノア嬢が管理されていた頃は、こんなことは」
「一度もありませんでした。月末の収支報告は翌日には完成していました。あの方は——」
ヘルムートが言葉を切った。言わなくても、二人の間で答えは共有されていた。
あの方は、代わりのきかない人だった。
廊下の向こうから、出入りの商人の声が聞こえた。
「宰相閣下、王立薬局の件ですが——先月の納品薬の品質が著しく落ちています。以前の処方と明らかに違う。調合を担当されていた方が変わったのですか」
ベルクハイムは答えなかった。答える必要もなかった。変わったのではない。いなくなったのだ。
*
——その頃、私は帝国の薬草管理院で、新しい乾燥室の設計図を引いていた。
ゲルツ医師と若い医師二人が、私の図面を覗き込んでいる。
「この配置なら、乾燥ムラが七割減ります。王国の南部領で使われていた方式を改良したものです」
「七割……。エレノア嬢、これは帝国中の薬草管理院に導入すべきでは」
ゲルツ医師が真剣な顔で言った。一週間前まで「令嬢に何ができる」と渋い顔をしていた人が、今では私の提案を率先して採用してくれる。
人は変わる。正しく見てもらえる場所では、人は——ちゃんと変わる。
*
王城の神殿では、別の問題が進行していた。
クレメント大司祭は、リリアーナ・フォーセットの訪問を受けていた。
「大司祭さま。大祭の浄化の儀について、ご相談があります」
リリアーナは完璧な笑顔で、大司祭の前に座った。白い法衣に金の髪飾り。聖女の装いは隙がない。——ただ、大司祭の目は法衣の袖口から覗く腕輪に一瞬止まった。男爵令嬢の身分には不釣り合いな、細工の細かい金の腕輪だった。
「フォーセット嬢。率直に申し上げますが、先日の浄化で祭壇は応答しませんでした。大祭まで十日です。もし次も——」
「大丈夫です。次は成功します。ただ、一つだけ。祭具の準備を、少し変えていただけませんか」
リリアーナが差し出したのは、一枚の図面だった。祭壇の配置を変え、照明の位置を調整し、香炉の数を増やす案。
「この配置であれば、祭壇の反応がより——」
「お待ちください」
クレメント大司祭の目が険しくなった。
「この配置は……光の演出で、浄化の光が生じたように見せかけることができる。フォーセット嬢、まさか」
リリアーナの笑顔が一瞬、凍った。
「そんな……私はただ、より効果的な配置を——」
「浄化の儀は神聖な儀式です。演出で偽装することは、神殿への冒涜に当たります」
大司祭の声は静かだったが、鋼のような硬さがあった。
リリアーナの手が、膝の上で握りしめられた。指の関節が白くなっている。
「……わかりました。申し訳ございません。余計なことを」
立ち上がり、一礼して退出する。扉が閉まった瞬間、リリアーナの顔から健気な表情が消えた。
冷たい目だった。計算する目だった。
「大司祭がだめなら——別の方法を考えなければ」
廊下を歩きながら、リリアーナは呟いた。大祭まで十日。浄化の力はない。偽装も封じられた。
追い詰められている。
けれどリリアーナは、まだ一つだけ手札を残していた。
リオンに泣きつくこと。「聖女の力が不安定なのは、エレノアの呪いのせいだ」と。リオンなら信じる。いつだって信じてきた。
*
——帝国の居室で、ルーカスからベルクハイムの書簡の概要を聞いた。
王国の宰相が、リオンの許可なく帝国に南部交渉の仲介を求めてきた。宰相自身が王太子を見限り始めている証拠だ。
「エレノア嬢。この書簡にどう対応するか、陛下はあなたのご意見を聞きたいと仰っています」
「……私の意見を」
「ええ。南部同盟との関係は、もともとあなたが築いたものです。あなた以上にこの問題を理解している人間はいない、と」
私の意見を聞く。判断を委ねるのではなく、意見を求めて、一緒に考えようとしてくれる。
リオンは五年間、一度も私の意見を聞かなかった。「黙れ」と。「余の判断に口を出すな」と。
カイは——聞いてくれる。
「……ベルクハイム卿の書簡には、応じるべきだと思います。ただし、王国への直接介入ではなく、ルドヴィク侯への仲裁という形で。侯は帝国との関係を重視しています。帝国が仲に立てば、凍結は解除できる可能性があります」
ルーカスが目を見開いた。
「……追放された国の交渉を、助けるのですか」
「交渉が決裂して困るのは、南部国境の領民です。あの人たちに罪はありません」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
リオンへの怒りはある。けれど、領民の暮らしを巻き添えにしたいとは思わない。それは——私が五年間、あの国のために働いた理由そのものだから。
ルーカスが小さく頭を下げた。
「……お伝えします。陛下も、きっと同じことを仰ると思います」
*
王城の夕刻。
リオンの執務室に、リリアーナが駆け込んできた。目に涙を浮かべて。
「殿下……私、怖いのです。浄化の力がうまく出ないのは……もしかしたら、エレノアさまの呪いが——」
「呪い?」
リオンの目が見開かれた。
「エレノアさまは古い魔法の使い手だと聞きました。私を聖女の座から引きずり下ろすために、遠くからでも呪いを……」
嘘だ。エレノアはそんなことをする人間ではない。ベルクハイムにはわかる。ヘルムートにもわかる。王城で働く古い文官なら、誰でもわかる。
けれど、リオンにはわからない。
「……許さない。あの女、帝国に行ってまでリリアーナを害するとは。ルーカスに……いや、帝国の皇帝に直接書簡を送る。エレノアの呪いを解くよう要求する」
ベルクハイムが——その場にいたなら、止めただろう。
だが老宰相はもう執務室にいなかった。三度目の進言を退けられた後、宰相は自室で帝国からの返信を待っていた。
リオンは羽ペンを取り、帝国皇帝宛ての書簡を書き始めた。
『ヴェルザンド帝国皇帝カイ殿。貴国が保護しているエレノア・ヴァルシュタインは、我が国の聖女に対し呪いをかけた疑いがある。即刻、当該人物の引き渡しを要求する——』
*
その夜。
カイが薬草管理院を訪ねてきた。珍しく、ルーカスもいない、一人きりだった。
「遅い時間にすみません。少し——話したいことがあって」
「はい」
二人で、管理院の中庭に出た。冬の星空が広い。帝国の星は、王国より近く見える。
「エレノア嬢」
「はい」
「あなたが領民のために仲裁を提案したと、ルーカスから聞きました」
「……当然のことをしただけです」
「当然ではありません」
カイの声が、いつもより少し低かった。
「追放された国のために動ける人は、そう多くない。あなたは——怨まないのですね」
怨んでいないと言えば嘘になる。けれど、怨みで動きたくはない。
「……怨みで生きるのは、もうやめました。それよりも、今ここでできることを——」
風が吹いた。冷たい風に、思わず肩をすくめた。
その瞬間、温かいものが肩にかかった。
カイの外套だった。
「——寒いでしょう」
振り返ると、カイは白いシャツだけで立っていた。自分のほうが寒いだろうに。
「陛下こそ——」
「私は平気です」
平気ではないだろう。頬が赤い。けれど、この人はきっと返してほしいとは言わない。
外套が温かかった。カイの体温が、布地を通じて肩に伝わってくる。
……信じたい。この温かさを。もう、疑わなくてもいいのではないか。
「——ありがとうございます。カイ陛下」
名前を呼んだ。「陛下」ではなく、名前を。
カイの表情が動いた。ほんの一瞬、目が揺れて——それから、静かに頷いた。
「大祭まで十日です。浄化の準備を進めましょう。——それと」
カイが中庭の向こうに目を向けた。
「王国から、近く書簡が届くかもしれません。おそらく、愉快な内容ではない」
「……覚悟しています」
「何が来ても、帝国はあなたの味方です。——それだけは、約束します」
肩の外套を握りしめた。温かさが、指先まで届いた。
星空の下、二人の間に落ちた沈黙は、穏やかで——少しだけ、甘かった。
——その翌朝。予告通り、王国からの書簡が届いた。
差出人は、王太子リオン。
内容は——エレノア・ヴァルシュタインの即時引き渡し要求だった。




