表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/20

第7話「名前を呼ぶこと」

 古代神殿は、帝都の北の丘に建っていた。


 朝霧の中を馬車で二十分。石段を上ると、苔むした柱の列が現れた。屋根はなく、空がそのまま天井だった。中央に白い石の祭壇がある。


 カイが先に立ち、振り返った。


「ここが、千年前の契約が刻まれた場所です」


 朝の光が祭壇に差し込む。白い石の表面に、見覚えのある紋様が浮かんでいた。左手の甲の紋様と同じ意匠。金属片と、離れの暖炉の煉瓦と、そしてここ。四つ目だ。


「触れてみてください」


 カイの声は穏やかだったが、その目は真剣だった。


 祭壇に手を伸ばす。指先が石に触れた瞬間——


 光が溢れた。


 祭壇全体が金色に輝き、古い紋様の一つひとつが浮き上がるように発光する。左手の紋様が呼応して熱を持ち、光の筋が祭壇と私の手を繋いだ。


 風が吹いた。温かい風だ。真冬の朝なのに。


「……これが、契約の応答です」


 カイの声がかすかに震えていた。ルーカスが目を見開いている。


「千年に一度、継承者が現れたとき、祭壇が応える。クラーラ様……貴女のお母上が亡くなってから、この祭壇は沈黙していました。十年以上」


 光がゆっくりと収まっていく。指先にはまだ温かさが残っていた。不思議なことに——左手の紋様が、祭壇に触れる前よりも鮮明になっている。頭の隅で、母の魔法書の古代語が、ほんの少しだけ輪郭を持ち始めた気がした。


「浄化の儀は、この祭壇を通じて行われます。継承者の力で、土地と水と空気を清める古代の儀式です」


 カイが祭壇の縁に刻まれた文字を指でなぞった。「この碑文には『継承者と守護者の盟約』と記されています。千年前、貴女のお母上の先祖と帝国皇家が結んだ契約です」


「帝国の南部国境一帯は、五十年前の大戦の影響で土壌が傷んでいます。薬草の生育が悪いのも、水源が汚染されやすいのも、根本にはこの問題があります。浄化の儀が成功すれば、土地そのものが蘇る。——次の満月まで二週間。それまでに準備を進めたい」


「私に、できるのでしょうか」


「祭壇が応えたということは、力がある。あとは——」


 カイが言葉を切った。何かを飲み込むように、一拍の間を置く。


「あとは、貴女自身が、その力を受け入れるかどうかです。これも、貴女の意思で決めてください。強制はしません」


 また、選ばせてくれる。


 リオンなら「やれ」と言っただろう。父なら「家門のために引き受けろ」と命じただろう。この人はいつも——私に、選択肢を残す。


「……やります。母がこの力を私に残してくれたのなら、受け入れたい」


 カイがうなずいた。その表情がわずかに——本当にわずかに——緩んだのを、私は見逃さなかった。


   *


 神殿からの帰り道。馬車には乗らず、丘を歩いて下りた。


 カイの提案だった。「少し歩きませんか。天気がいいので」と。皇帝が護衛も最小限にして丘道を歩くなど、きっと普段はしないのだろう。ルーカスが渋い顔をしていた。


 カイが先に立ち、丘の道を選んで歩く。足元が悪いところでは、黙って手を差し出してくれた。私がそれを取らずに自分で跨ぐと、何も言わずに手を引っ込めた。強制しない。けれど、差し出してはくれる。


 そんな小さなことに、胸が揺れる自分が少し可笑しかった。


 朝霧が晴れ、冬の陽光が丘の枯れ草を金色に染めていた。吐く息が白い。


「寒くはありませんか」


「大丈夫です。王国の冬のほうが——」


 言いかけて止めた。王国の冬。離れの棟で、薪もなく凍えていた夜。あの記憶がよぎる。


 カイは何も聞かなかった。ただ、歩く速度を少しだけ落とした。


 しばらく無言で歩いた。この沈黙が、不思議と苦しくなかった。リオンとの沈黙はいつも緊張を伴っていた。何を言えば機嫌を損ねないか、常に考えていた。


 この人との沈黙は——ただ、静かだった。


「カイ陛下」


「はい」


「母のことを、もう少し教えていただけますか。陛下から見た母を」


 カイが少し考えるように空を見上げた。


「……クラーラ様は、帝国の古代魔導の研究者でした。優秀で、頑固で、紅茶に砂糖を三つ入れる人でした」


 砂糖を三つ。


「……母は、甘いものが好きだったんですか」


「ええ。先帝が呆れるほど。宮廷の茶会で一人だけ砂糖壺を独占して、給仕が慌てていました」


 思わず口元が緩んだ。母の記憶は断片的で、いつも優しく、いつも穏やかで、「完璧な母」の像しか残っていなかった。砂糖壺を独占する母。そんな姿は想像したこともなかった。


「笑いましたね」


 カイの声がした。振り向くと、紺色の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。


「……え」


「帝国に来てから、笑ったのは初めてでは」


 心臓が跳ねた。見られていた。この人は、私の表情をそこまで見ていたのか。


「……すみません、つい」


「謝ることではありません」


 カイが前を向いた。その声は普段と変わらない低さだったが、ほんの少しだけ——温度が違った気がした。


「もっと笑えるようになるといい。——この国で」


 頬が熱くなった。冬の冷気のせいではない。


 ……何だろう、今の。胸のこの、妙な感覚は。


 慌てて視線をそらした。丘の向こうに、帝都の街並みが朝日に照らされている。


「あ。あの建物は何ですか」


 話題を変えた。声が少し上ずっている自覚があった。


「帝国図書院です。古代語の文献が一番多い場所ですね。——もしよければ、今度案内しましょうか」


「ぜひ。母の魔法書を読むための参考文献が見つかるかもしれません」


「エレノア嬢は勉強家ですね」


「好きなんです。文献を読むのが。学院にいた頃は、図書室が一番落ち着く場所でした」


 言ってから気づいた。こんな話——自分の好みや、居場所の話を——リオンにしたことは一度もなかった。聞かれたこともなかった。五年間の婚約者は、私が何を好きで、どこにいると安心するかを、一度も聞いてくれなかった。


「図書室ですか」


 カイが小さく頷いた。


「覚えておきます」


 それだけ言って、カイは前を歩き続けた。


 ふと、その横顔を見た。目の下にうっすらと影がある。皇帝の仕事量を考えれば当然かもしれない。今朝も早くからこの神殿に来てくれたのだ。


「カイ陛下」


「はい」


「陛下こそ、お休みになっていますか。先ほどから少し——お疲れのように見えます」


 カイが一瞬、足を止めた。


 それから、わずかに口元が動いた。今度こそ——笑みだった。小さな、驚いたような笑み。


「……私の体調を気にしてくれる人は、ルーカス以外では初めてかもしれません」


「それは、周りの方がもっと気を遣うべきです」


「エレノア嬢は、時々とても率直ですね」


「あ——すみません、差し出が——」


「いいえ。……嬉しいのです」


 カイがまた前を向いた。耳の先が少しだけ赤いのは、冬の冷気のせいだろうか。


 何でもない一言だった。けれど、「覚えておきます」と言ってくれた人は、これまでの人生で何人いただろう。


 私の言葉を、聞いて、覚えると言ってくれる。それだけのことが、こんなに胸に響くなんて。


   *


 帝都に戻ると、薬草管理院でゲルツ医師が待っていた。


「エレノア嬢。南部駐屯地の最新報告です。発熱症状の患者、全員の回復が確認されました。死者はゼロです」


 胸の奥がぎゅっと締まった。三年前は——十二人が死んだ。あの時の悔しさが、ここでようやく報われた気がした。


「ゲルツ医師。これからの管理体制について、提案があるのですが」


「はい。ぜひ伺いたい。——あ、エレノア嬢」


 ゲルツ医師が少し気まずそうに言った。


「……先ほど陛下から伝言がありまして。『エレノア嬢は今日は早く仕事を切り上げるように。明日の浄化の準備のために休息を取ってほしい』と」


「陛下が、わざわざ」


「ええ。それと——」


 ゲルツ医師が咳払いをした。


「陛下がああいう伝言を寄越すのは、私の記憶では初めてです。普段は部下の休息に口を出される方ではないので」


 熱が、頬に戻ってきた。


「……ありがとうございます。では、今日は早めに」


「はい。あ、それと、居室にお茶菓子が届いていると思います。陛下の手配だそうです。甘いものがお好きだと伺ったと」


 甘いもの。


 私は確かに、甘いものが好きだ。けれどそれをカイに言ったことはない。


 ——言ったのは、母の話をした時だ。「砂糖を三つ入れる」母の話で笑った時。あの一瞬を見て、この人は——。


「……覚えておきます、か」


 呟いた声は、自分にしか聞こえなかった。


   *


 居室に戻ると、テーブルの上に焼き菓子の籠があった。蜂蜜を使った素朴な菓子。帝国の南部地方の名物らしい。一口齧ると、優しい甘さが口に広がった。


 マリーが嬉しそうに笑う。


「エレノアさま、お菓子ですよ。陛下がご自分で手配されたそうです」


「……そうみたいね」


「陛下って、エレノアさまの前だとちょっと違いますよね。ルーカスさまが『陛下が自ら菓子を選ぶなど前代未聞だ』って仰ってました」


 頬がまた熱くなる。マリーが何か言いたそうな顔をしているが、私は窓の外を向いて黙っていた。


 信じたい。この人の好意を。


 けれどまだ、胸の奥に小さな痺れが残っている。信じて、裏切られた五年間の記憶。優しさの裏に何かあるのではないか、という疑い。それは理屈ではなく、身体が覚えている恐怖だった。


 ——でも。


 砂糖壺を独占した母の話で笑った、あの瞬間。「もっと笑えるようになるといい」と言ったカイの声。菓子の籠。図書室が好きだと言った私の言葉を、覚えておくと言ってくれたこと。


 少しずつ。ほんの少しずつだけ。


 信じてみても——いいのかもしれない。


 焼き菓子をもう一つ齧ったとき、扉を叩く音がした。


 ルーカスだった。表情が硬い。


「エレノア嬢。お休みのところ申し訳ありません。——陛下のもとに、二通の書簡が届きました」


「二通?」


「一通は、王国の宰相ベルクハイム卿から帝国外務省宛て。南部同盟との交渉仲介を求める内容です。王太子の許可は得ていないものと思われます」


 宰相が独断で帝国に仲介を求めた。それほどまでに、王国は追い詰められている。


「もう一通は」


 ルーカスが一拍の間を置いた。


「王太子リオン殿下の名で、南部同盟のルドヴィク侯に直接送られた書簡の写しです。ルドヴィク侯の侍従が帝国に転送してきました。侯は——激怒しているとのことです」


 リオンが、草案なしで、ルドヴィク侯に直接書簡を送った。


 侯の過去の交渉姿勢も、優先事項も、譲歩の範囲も知らないまま。


「……何が書かれていたのですか」


「侯の名前の綴りが間違っていたそうです」


 私は一瞬、何を聞いたのかわからなかった。


 名前の綴りを間違えた。三年間書簡をやり取りした相手の名前を。


 ——リオンは、ルドヴィク侯の名前すら正しく知らなかった。


 草案も持たず、侯の名前すら正確に知らないまま——自分の肩書きだけで通せると思ったのだろう。


「条約更新交渉は、事実上の決裂です」


 ルーカスの声が、静かに部屋に落ちた。


 窓の外で、冬の陽が傾き始めている。


 焼き菓子の甘さが、まだ舌に残っていた。こちらでは温かい食事があり、名前を覚えてくれる人がいて、仕事の成果を認めてくれる場所がある。


 あちらでは——名前の綴りすら、間違えている。


 もう、何も言えなかった。怒りでも、悲しみでもない。ただ静かに、深いところで、何かが確定した感覚があった。


 あの国に、もう戻ることはない。


 そして——この場所で、私は私の力を使う。


 満月まで、あと二週間。浄化の儀が近づいている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ