第7話「名前を呼ぶこと」
古代神殿は、帝都の北の丘に建っていた。
朝霧の中を馬車で二十分。石段を上ると、苔むした柱の列が現れた。屋根はなく、空がそのまま天井だった。中央に白い石の祭壇がある。
カイが先に立ち、振り返った。
「ここが、千年前の契約が刻まれた場所です」
朝の光が祭壇に差し込む。白い石の表面に、見覚えのある紋様が浮かんでいた。左手の甲の紋様と同じ意匠。金属片と、離れの暖炉の煉瓦と、そしてここ。四つ目だ。
「触れてみてください」
カイの声は穏やかだったが、その目は真剣だった。
祭壇に手を伸ばす。指先が石に触れた瞬間——
光が溢れた。
祭壇全体が金色に輝き、古い紋様の一つひとつが浮き上がるように発光する。左手の紋様が呼応して熱を持ち、光の筋が祭壇と私の手を繋いだ。
風が吹いた。温かい風だ。真冬の朝なのに。
「……これが、契約の応答です」
カイの声がかすかに震えていた。ルーカスが目を見開いている。
「千年に一度、継承者が現れたとき、祭壇が応える。クラーラ様……貴女のお母上が亡くなってから、この祭壇は沈黙していました。十年以上」
光がゆっくりと収まっていく。指先にはまだ温かさが残っていた。不思議なことに——左手の紋様が、祭壇に触れる前よりも鮮明になっている。頭の隅で、母の魔法書の古代語が、ほんの少しだけ輪郭を持ち始めた気がした。
「浄化の儀は、この祭壇を通じて行われます。継承者の力で、土地と水と空気を清める古代の儀式です」
カイが祭壇の縁に刻まれた文字を指でなぞった。「この碑文には『継承者と守護者の盟約』と記されています。千年前、貴女のお母上の先祖と帝国皇家が結んだ契約です」
「帝国の南部国境一帯は、五十年前の大戦の影響で土壌が傷んでいます。薬草の生育が悪いのも、水源が汚染されやすいのも、根本にはこの問題があります。浄化の儀が成功すれば、土地そのものが蘇る。——次の満月まで二週間。それまでに準備を進めたい」
「私に、できるのでしょうか」
「祭壇が応えたということは、力がある。あとは——」
カイが言葉を切った。何かを飲み込むように、一拍の間を置く。
「あとは、貴女自身が、その力を受け入れるかどうかです。これも、貴女の意思で決めてください。強制はしません」
また、選ばせてくれる。
リオンなら「やれ」と言っただろう。父なら「家門のために引き受けろ」と命じただろう。この人はいつも——私に、選択肢を残す。
「……やります。母がこの力を私に残してくれたのなら、受け入れたい」
カイがうなずいた。その表情がわずかに——本当にわずかに——緩んだのを、私は見逃さなかった。
*
神殿からの帰り道。馬車には乗らず、丘を歩いて下りた。
カイの提案だった。「少し歩きませんか。天気がいいので」と。皇帝が護衛も最小限にして丘道を歩くなど、きっと普段はしないのだろう。ルーカスが渋い顔をしていた。
カイが先に立ち、丘の道を選んで歩く。足元が悪いところでは、黙って手を差し出してくれた。私がそれを取らずに自分で跨ぐと、何も言わずに手を引っ込めた。強制しない。けれど、差し出してはくれる。
そんな小さなことに、胸が揺れる自分が少し可笑しかった。
朝霧が晴れ、冬の陽光が丘の枯れ草を金色に染めていた。吐く息が白い。
「寒くはありませんか」
「大丈夫です。王国の冬のほうが——」
言いかけて止めた。王国の冬。離れの棟で、薪もなく凍えていた夜。あの記憶がよぎる。
カイは何も聞かなかった。ただ、歩く速度を少しだけ落とした。
しばらく無言で歩いた。この沈黙が、不思議と苦しくなかった。リオンとの沈黙はいつも緊張を伴っていた。何を言えば機嫌を損ねないか、常に考えていた。
この人との沈黙は——ただ、静かだった。
「カイ陛下」
「はい」
「母のことを、もう少し教えていただけますか。陛下から見た母を」
カイが少し考えるように空を見上げた。
「……クラーラ様は、帝国の古代魔導の研究者でした。優秀で、頑固で、紅茶に砂糖を三つ入れる人でした」
砂糖を三つ。
「……母は、甘いものが好きだったんですか」
「ええ。先帝が呆れるほど。宮廷の茶会で一人だけ砂糖壺を独占して、給仕が慌てていました」
思わず口元が緩んだ。母の記憶は断片的で、いつも優しく、いつも穏やかで、「完璧な母」の像しか残っていなかった。砂糖壺を独占する母。そんな姿は想像したこともなかった。
「笑いましたね」
カイの声がした。振り向くと、紺色の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
「……え」
「帝国に来てから、笑ったのは初めてでは」
心臓が跳ねた。見られていた。この人は、私の表情をそこまで見ていたのか。
「……すみません、つい」
「謝ることではありません」
カイが前を向いた。その声は普段と変わらない低さだったが、ほんの少しだけ——温度が違った気がした。
「もっと笑えるようになるといい。——この国で」
頬が熱くなった。冬の冷気のせいではない。
……何だろう、今の。胸のこの、妙な感覚は。
慌てて視線をそらした。丘の向こうに、帝都の街並みが朝日に照らされている。
「あ。あの建物は何ですか」
話題を変えた。声が少し上ずっている自覚があった。
「帝国図書院です。古代語の文献が一番多い場所ですね。——もしよければ、今度案内しましょうか」
「ぜひ。母の魔法書を読むための参考文献が見つかるかもしれません」
「エレノア嬢は勉強家ですね」
「好きなんです。文献を読むのが。学院にいた頃は、図書室が一番落ち着く場所でした」
言ってから気づいた。こんな話——自分の好みや、居場所の話を——リオンにしたことは一度もなかった。聞かれたこともなかった。五年間の婚約者は、私が何を好きで、どこにいると安心するかを、一度も聞いてくれなかった。
「図書室ですか」
カイが小さく頷いた。
「覚えておきます」
それだけ言って、カイは前を歩き続けた。
ふと、その横顔を見た。目の下にうっすらと影がある。皇帝の仕事量を考えれば当然かもしれない。今朝も早くからこの神殿に来てくれたのだ。
「カイ陛下」
「はい」
「陛下こそ、お休みになっていますか。先ほどから少し——お疲れのように見えます」
カイが一瞬、足を止めた。
それから、わずかに口元が動いた。今度こそ——笑みだった。小さな、驚いたような笑み。
「……私の体調を気にしてくれる人は、ルーカス以外では初めてかもしれません」
「それは、周りの方がもっと気を遣うべきです」
「エレノア嬢は、時々とても率直ですね」
「あ——すみません、差し出が——」
「いいえ。……嬉しいのです」
カイがまた前を向いた。耳の先が少しだけ赤いのは、冬の冷気のせいだろうか。
何でもない一言だった。けれど、「覚えておきます」と言ってくれた人は、これまでの人生で何人いただろう。
私の言葉を、聞いて、覚えると言ってくれる。それだけのことが、こんなに胸に響くなんて。
*
帝都に戻ると、薬草管理院でゲルツ医師が待っていた。
「エレノア嬢。南部駐屯地の最新報告です。発熱症状の患者、全員の回復が確認されました。死者はゼロです」
胸の奥がぎゅっと締まった。三年前は——十二人が死んだ。あの時の悔しさが、ここでようやく報われた気がした。
「ゲルツ医師。これからの管理体制について、提案があるのですが」
「はい。ぜひ伺いたい。——あ、エレノア嬢」
ゲルツ医師が少し気まずそうに言った。
「……先ほど陛下から伝言がありまして。『エレノア嬢は今日は早く仕事を切り上げるように。明日の浄化の準備のために休息を取ってほしい』と」
「陛下が、わざわざ」
「ええ。それと——」
ゲルツ医師が咳払いをした。
「陛下がああいう伝言を寄越すのは、私の記憶では初めてです。普段は部下の休息に口を出される方ではないので」
熱が、頬に戻ってきた。
「……ありがとうございます。では、今日は早めに」
「はい。あ、それと、居室にお茶菓子が届いていると思います。陛下の手配だそうです。甘いものがお好きだと伺ったと」
甘いもの。
私は確かに、甘いものが好きだ。けれどそれをカイに言ったことはない。
——言ったのは、母の話をした時だ。「砂糖を三つ入れる」母の話で笑った時。あの一瞬を見て、この人は——。
「……覚えておきます、か」
呟いた声は、自分にしか聞こえなかった。
*
居室に戻ると、テーブルの上に焼き菓子の籠があった。蜂蜜を使った素朴な菓子。帝国の南部地方の名物らしい。一口齧ると、優しい甘さが口に広がった。
マリーが嬉しそうに笑う。
「エレノアさま、お菓子ですよ。陛下がご自分で手配されたそうです」
「……そうみたいね」
「陛下って、エレノアさまの前だとちょっと違いますよね。ルーカスさまが『陛下が自ら菓子を選ぶなど前代未聞だ』って仰ってました」
頬がまた熱くなる。マリーが何か言いたそうな顔をしているが、私は窓の外を向いて黙っていた。
信じたい。この人の好意を。
けれどまだ、胸の奥に小さな痺れが残っている。信じて、裏切られた五年間の記憶。優しさの裏に何かあるのではないか、という疑い。それは理屈ではなく、身体が覚えている恐怖だった。
——でも。
砂糖壺を独占した母の話で笑った、あの瞬間。「もっと笑えるようになるといい」と言ったカイの声。菓子の籠。図書室が好きだと言った私の言葉を、覚えておくと言ってくれたこと。
少しずつ。ほんの少しずつだけ。
信じてみても——いいのかもしれない。
焼き菓子をもう一つ齧ったとき、扉を叩く音がした。
ルーカスだった。表情が硬い。
「エレノア嬢。お休みのところ申し訳ありません。——陛下のもとに、二通の書簡が届きました」
「二通?」
「一通は、王国の宰相ベルクハイム卿から帝国外務省宛て。南部同盟との交渉仲介を求める内容です。王太子の許可は得ていないものと思われます」
宰相が独断で帝国に仲介を求めた。それほどまでに、王国は追い詰められている。
「もう一通は」
ルーカスが一拍の間を置いた。
「王太子リオン殿下の名で、南部同盟のルドヴィク侯に直接送られた書簡の写しです。ルドヴィク侯の侍従が帝国に転送してきました。侯は——激怒しているとのことです」
リオンが、草案なしで、ルドヴィク侯に直接書簡を送った。
侯の過去の交渉姿勢も、優先事項も、譲歩の範囲も知らないまま。
「……何が書かれていたのですか」
「侯の名前の綴りが間違っていたそうです」
私は一瞬、何を聞いたのかわからなかった。
名前の綴りを間違えた。三年間書簡をやり取りした相手の名前を。
——リオンは、ルドヴィク侯の名前すら正しく知らなかった。
草案も持たず、侯の名前すら正確に知らないまま——自分の肩書きだけで通せると思ったのだろう。
「条約更新交渉は、事実上の決裂です」
ルーカスの声が、静かに部屋に落ちた。
窓の外で、冬の陽が傾き始めている。
焼き菓子の甘さが、まだ舌に残っていた。こちらでは温かい食事があり、名前を覚えてくれる人がいて、仕事の成果を認めてくれる場所がある。
あちらでは——名前の綴りすら、間違えている。
もう、何も言えなかった。怒りでも、悲しみでもない。ただ静かに、深いところで、何かが確定した感覚があった。
あの国に、もう戻ることはない。
そして——この場所で、私は私の力を使う。
満月まで、あと二週間。浄化の儀が近づいている。




