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第6話「崩れ始めた王国」

 その頃、王国では——。


「南部同盟との条約更新交渉について、至急ご報告がございます」


 宰相ベルクハイムが王太子リオンの執務室に入ったのは、エレノアが帝国を発ってから十日後の朝だった。


 リオンは窓辺の長椅子に腰かけ、テーブルに並べた果物を摘んでいた。隣にはリリアーナが座り、小さな花束を手遊びしている。二人きりの朝食を邪魔されたリオンの眉が不機嫌に寄った。


「交渉がどうした。担当官に任せてある」


「その担当官が、交渉の草案を見つけられません。草案を作成したのはエレノア嬢であり、法的には彼女の個人著作物です。彼女の許可なく使用することはできません」


「草案だと? あの女が? 大げさだな。別の者に書かせればいい」


「殿下。南部同盟のルドヴィク侯は、三年間エレノア嬢と書簡を交わし、信頼関係を築いた上で交渉に応じる意向を示していました。彼女以外の担当者では、侯は交渉の席に——」


「くどい」


 リオンが果物のナイフをテーブルに置いた。金属の音が執務室に響く。


「あの女がいなければ回らない国だと言うのか。馬鹿馬鹿しい。余はこの国の次代の王だ。余が直接ルドヴィクとやらに書簡を送ればいい話だろう」


 ベルクハイムの額に汗が浮かんだ。


「……殿下が直接お書きになるのは構いませんが、ルドヴィク侯の過去の交渉姿勢、優先事項、譲歩の範囲——これらの分析資料もすべてエレノア嬢の手元にあります。何も知らない状態で書簡を送れば、侯の怒りを買う可能性が——」


「余の書簡で怒る者がいるとでも? 王太子の名前で十分だ」


 リリアーナが花束から顔を上げた。


「殿下、宰相さまもご心配なさっているのです。何かお手伝いできることがあれば、私も——」


「リリアーナは気にしなくていい。お前は聖女としての務めに集中してくれ」


 リオンの目元がやわらいだ。リリアーナが健気に微笑む。


 ベルクハイムは二人から目をそらし、手元の書類を見下ろした。この書類の山が何を意味するか、この若い王太子にはわからないのだろう。


 エレノア嬢がいた頃は、この書類はすべて整理され、優先順位をつけられ、対応策が付箋で貼られていた。今は——未処理のまま積み上がっているだけだ。


「もう一点、ご報告を」


「何だ。手短にしろ」


「先日の浄化の儀式ですが——リリアーナ嬢が執り行った結果、祭壇の浄化は不完全に終わりました。神殿からは、大祭までに再度の浄化が必要との申し入れが来ております」


 リリアーナの手が、花束の茎を折った。小さな音がした。


 リオンが不快そうに眉をひそめた。


「リリアーナの力は本物だ。初めての儀式なのだから、多少の不備は当然だろう。次はうまくいく」


「大祭まで三週間です、殿下。次の機会は——」


「うるさい。リリアーナの力を疑うのか。下がれ」


 ベルクハイムは深く一礼して退出した。


 廊下に出た瞬間、老宰相は壁に手をついた。指先が震えていた。


 南部交渉の草案なし。浄化の儀式は失敗。国庫の帳簿は先月から整合が取れず、財務官が三人がかりで修正を試みて失敗している。エレノア嬢が一人で管理していた帳簿を、三人がかりでも復元できないのだ。


「……あの方がいなくなっただけで、これほどまでに」


 誰にも聞こえない声で、ベルクハイムは呟いた。


   *


 同じ頃——


 リリアーナ・フォーセットは、与えられた私室で鏡の前に立っていた。


 聖女の白い法衣。金の髪飾り。すべてエレノアが去った後に用意されたものだ。机の上には新しい宝飾箱が三つ並んでいる。聖女活動の支援金で購入した、とリオンには説明してある。


 鏡の中の自分は美しい。王太子の寵愛を受け、聖女と呼ばれ、公爵邸の園遊会にも招かれた。計画通りだ——はずだった。


 浄化の儀式が、できなかった。


 祭壇の前に立ったとき、何も起きなかった。光も、温かさも、何もない。詠唱は完璧に暗記した。所作も神官に教わった通りに行った。なのに——祭壇は応じなかった。


「……大丈夫。次はうまくいく」


 自分に言い聞かせる。リオンの前で見せた笑顔と同じ言葉。


 けれど鏡の中の目は、笑っていなかった。


 扉を叩く音がした。侍女が顔を出す。


「リリアーナ様。神殿のクレメント大司祭から、お呼び出しが」


「……何の用かしら」


「大祭の浄化について、ご確認がございますと」


 三週間。大祭まで三週間。


 浄化ができなければ、聖女の資格が問われる。リオンの寵愛だけでは、神殿の信頼は維持できない。


 リリアーナは鏡に向かって、もう一度笑顔を作った。完璧な笑顔。涙を浮かべる練習は何百回もした。けれど——祭壇を光らせる練習は、何百回やっても実らない。


「あの女は、どうやっていたのかしら」


 鏡に映った自分に、リリアーナは呟いた。


 エレノア・ヴァルシュタイン。あの冷たい目の公爵令嬢。追い出すことには成功した。けれど、追い出した後に残った穴の大きさを、リリアーナは初めて知り始めていた。


   *


 ——その頃、私は帝国の薬草管理院で、在庫台帳の再編に取り組んでいた。


 ゲルツ医師が隣で新しい分類法を書き写している。「この方式なら、在庫の劣化を三ヶ月早く検知できます」と私が説明すると、彼は唸りながらも素直に頷いた。


 南部駐屯地からは、兵士たちの回復が始まったという報告が届いている。解毒薬が効いたのだ。薬草管理院の若い医師が、嬉しそうに報告書を読み上げてくれた。


「エレノア嬢のおかげです。あの処方がなければ、死者が出ていたかもしれない」


 そう言われて、胸の奥がじんと温かくなった。


 誰かの役に立てている。それを、ちゃんと言葉にしてもらえる。


 たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて——五年間、私は何を我慢していたのだろう。


   *


 王国の王城では、もう一つの問題が浮上していた。


 財務官のヘルムートが、帳簿の束を抱えて廊下を走っていた。


「ベルクハイム宰相。先月の国庫収支ですが——やはり合いません。歳出の項目に、記録されていない支出が十二件。エレノア嬢が管理されていた時代の帳簿と照合しようにも、あの方の整理方法が独自で、我々には——」


「解読できない、か」


「はい。三人がかりで一週間試みましたが、分類体系の鍵がわかりません。エレノア嬢に直接お聞きするしか——」


「それはできない。彼女は帝国にいる」


 ヘルムートが言葉を失った。


「……帝国に?」


「ヴェルザンド帝国の皇帝が直接迎えに来た。エレノア嬢は帝国で薬草管理の再建を任されているそうだ」


「あの帝国が——あの方を——」


 ヘルムートの顔から血の気が引いた。大陸最強の帝国が、王国が追放した令嬢を正式に迎えた。その意味がわからないほど愚かな財務官ではない。


「宰相。これは——殿下にお伝えするべきでは」


 ベルクハイムは長い沈黙の後、首を横に振った。


「殿下に伝えても、『あの女が何をできる』と仰るだけだ。……だが、伝えねばなるまい。外交問題になる前に」


   *


 その日の夕刻。


 ベルクハイムはもう一度、リオンの執務室を訪れた。


「殿下。エレノア・ヴァルシュタイン嬢の件で、追加のご報告が」


「またあの女の話か。聞き飽きた」


「ヴェルザンド帝国が、エレノア嬢を正式に迎えました。皇帝カイ自ら公爵邸を訪れ、国賓級の待遇で連れ出したとのことです。現在、帝国で薬草管理体制の再建に携わっています」


 リオンが一瞬だけ手を止めた。


「……帝国が? あの女を?」


「はい」


 沈黙が落ちた。リリアーナの顔からも一瞬、表情が消えた。


「——馬鹿げている」


 リオンが鼻で笑った。


「帝国の皇帝は変わり者で有名だ。追放された令嬢を拾うとは、余程暇なのだろう。あの女にできる仕事など、帝国でもたかが知れている」


 ベルクハイムは何も言わなかった。


 言っても無駄だと、もう理解していた。


「——殿下。それでは、南部交渉の件は、殿下が直接お進めになるということでよろしいですか」


「無論だ。余が直接ルドヴィクに書簡を送る。草案など不要だ。王太子の言葉で十分だ」


 ベルクハイムは一礼して退出した。


 廊下を歩きながら、老宰相は決意した。もう、これ以上は待てない。


 執務室に戻り、一通の書簡を書き始めた。宛先は——ヴェルザンド帝国の外務省。


 個人的な懇願ではない。王国の宰相として、南部同盟との条約更新交渉の仲介を帝国に依頼する書簡だ。リオンの許可は取っていない。取れば却下される。


 ペンを走らせる手が、わずかに震えていた。


「お嬢さん……あなたのいない国は、こんなにも脆かった」


 誰にも聞こえない声で、ベルクハイムは呟いた。


   *


 同じ夜。


 リリアーナの私室に、取り巻きの令嬢が一人、訪ねてきた。


「リリアーナ様。少し、お耳に入れたいことが」


「何かしら」


「帝国がエレノアを迎えたという話……社交界で、噂になっています。『追放された令嬢を帝国が拾うのは、王国の判断に問題があったからではないか』と。掲示鏡にも、そういう意見が映り始めて……」


 リリアーナの指が、椅子の肘掛けを掴んだ。


「……それで?」


「中には、『浄化の儀式の失敗と関係があるのではないか』という声も」


 リリアーナの目が鋭くなった。一瞬だけ——取り巻きの令嬢が息を呑むほどの、冷たい光が宿った。


 けれど次の瞬間には、涙を浮かべた柔らかい表情に戻っていた。


「……私のせいですよね。もっと頑張らなきゃ。次の大祭では、きっと……」


 取り巻きの令嬢が慰めの言葉をかける。リリアーナは頷きながら、内心で計算していた。


 掲示鏡の噂を消すには、大祭の浄化を成功させるしかない。けれど、浄化の力はない。であれば——。


「ねえ。浄化の儀式に使う祭具の管理は、誰がしているの」


「クレメント大司祭です」


「大司祭は……殿下に恩がある方よね」


 取り巻きの令嬢が首を傾げた。リリアーナは微笑んだ。美しく、完璧に。


「何でもないわ。ちょっと聞いてみたかっただけ」


   *


 ——私は帝国の居室で、母の魔法書を読んでいた。


 古代語が日に日に鮮明になっていく。今夜、新たに読み取れた一節。


『浄化の儀は、継承者の心を映す鏡である。偽りの者が触れれば、祭壇は沈黙する——』


 リリアーナが浄化に失敗した理由が、ここに書かれていた。


 偽りの者には、できない。


 そして——次の満月まで、あと二週間。


 カイが明日、私を古代神殿に連れていくと言っていた。


 私の紋様は何を意味するのか。浄化の儀で、私は何を求められるのか。


 左手が、静かに、けれど確かに光っている。


 王国で抑え込まれていた何かが、帝国の空気の中で目覚めようとしている。


 ——明日。すべてが、動き出す。

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