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第5話「この手にできること」

 ヴェルザンド帝国の皇都は、王国とは何もかもが違っていた。


 三日間の馬車旅を終えて城門をくぐった瞬間、空気が変わった。乾いて澄んだ風。街路に植えられた薬草の匂い。石造りの建物は王都より質素だが、隅々まで手入れが行き届いている。通りを歩く人々の表情は穏やかで、すれ違う兵士たちは姿勢が正しかった。


 カイが用意してくれた居室は、離れの棟の何倍もの広さがあった。清潔な寝具、温かい暖炉、湯の出る水場。窓からは帝都の街並みと、遠くに雪を被った山脈が見える。


 マリーは部屋に入った瞬間、声を上げて泣いた。


「エレノアさま……お湯が出ます。お湯が」


 離れの棟では冷たい水しかなかったのだ。硬いパンと冷たい水で過ごしたあの日々が、もう遠い昔のことのように感じる。けれど、まだ一週間も経っていない。


 到着した翌朝。カイの側近である銀髪の青年——ルーカスと名乗った——が迎えに来た。あの夜、最初に封書を届けてくれた使者だった。


「エレノア嬢。陛下が、薬草管理院をご覧いただきたいと」


 案内されたのは、皇城の東翼に位置する大きな石造りの建物だった。扉を開けた瞬間、薬草の匂いが押し寄せてくる。


 棚に並ぶ薬瓶。乾燥室から続く長い廊下。三つの調合台が並ぶ広い作業場。規模は王都の王立薬局の三倍はある。


 けれど、何かがおかしい。


 調合台の前で頭を抱えている白衣の男が三人。棚の薬瓶は半数近くが空で、残りの多くには変色や結露の兆候が見える。薬草の乾燥が不均一だ。管理台帳が机の上に散乱し、記入の日付が飛んでいる。


 これは——管理者が不在のまま、長期間放置された施設の状態だ。


「——現状を、説明していただけますか」


 私が声をかけると、白衣の男たちが振り返った。年配の医師が私の服装を上から下まで見て、眉をひそめる。


「あなたが、王国から来たという令嬢ですか。失礼ですが、我々は今それどころでは——」


「ゲルツ医師」


 ルーカスが静かに遮った。


「陛下の命令です。エレノア嬢に現状を説明してください」


 ゲルツと呼ばれた医師が、不満を隠さずに口を開いた。


「南部国境の駐屯地から、原因不明の発熱症状の報告が相次いでいます。三十名以上が倒れ、日ごとに増えている。標準の解熱剤を送りましたが効果がない。原因を特定できず、適切な薬を調合できない状態です。——率直に言えば、お手上げです」


 管理台帳を手に取った。症状の記録に目を通す。発熱、関節痛、皮膚の発疹、強い倦怠感。発症者は駐屯地の水源を共有する区画に集中している。発症の時期は今月に入ってから急増。


「水源の検査記録はありますか」


「水源は問題ないと報告を受けています」


「報告ではなく、検査記録の原本を見せてください」


 ゲルツ医師の目が鋭くなった。若い令嬢に指図されることへの反感だろう。けれど、ルーカスの視線を受けて、渋々と書棚から綴じ込みを引き出した。


 水源の検査記録。数値を追い、過去三年分の季節変動を照合し、付随する地形図と重ねる。上流の地質が記された別紙を引き出し、鉱脈の位置を確認する。


 ——見つけた。


「この水源は、雪解けの時期に上流の鉱脈から微量の重金属が流入する構造です。通常は問題ない量ですが、今年は暖冬でしたか」


 ゲルツ医師が目を見張った。


「……ええ。今年は例年より一ヶ月早く雪解けが始まりました」


「であれば、雪解け水の流入量が通常の二倍から三倍になっている可能性があります。重金属の蓄積による中毒症状と、記録上の症例は完全に一致します。解熱剤が効かないのは当然です。熱を下げても、体内の毒素が排出されない限り症状は繰り返されます」


 部屋が静まった。


 若い医師の一人が口を開きかけたが、言葉が出ない様子だった。もう一人は手元の台帳と地形図を交互に見つめ、ゆっくりと頷いている。


 ゲルツ医師が低い声で言った。


「……気候と鉱脈と水源の三点を結ぶ分析は、帝国の医学書にも記載がありません。どこで学ばれたのですか」


「王国の南部領で、三年前に同じ症状が発生しました。私が疫病対策法案を起草したとき、原因特定に三週間かかりました。水源と気候の相関を見落としていたからです。あの三週間で十二人が亡くなりました。——二度と同じ失敗はしないと、そのとき決めました」


 あの法案はリオンの名前で議会に提出された。成果は横取りされた。けれど、十二人の命を前に泣いた夜の記憶と、そこから学んだ知識は、私だけのものだ。誰にも奪えない。


「治療法はあるのですか」


 ルーカスが一歩前に出た。


「あります。解毒と排出を同時に行う処方が必要です」


 私は調合台の前に立ち、棚を見回した。帝国の薬草体系は王国と異なるが、基本的な薬効は共通している。


「銀葉草はありますか」


「あります。ですが在庫が——」


「少量で構いません。それと、赤土根と清水苔。この三つを一対二対一の比率で煎じます。銀葉草は必ず根元から三節目までを使うこと。それより上は薬効が三割落ちます」


 手が勝手に動いた。秤を取り、刃物で薬草を正確に裁断し、配合を始める。銀葉草の根元を丁寧に剥き、赤土根を薄く削ぎ、清水苔を揉んで繊維をほぐす。


 母に教わった調合の基本。学院の図書室で独学を重ねた応用。南部領の薬師から直接学んだ民間処方。十年かけて積み上げた技術が、指先に染みついている。


 誰にも褒められなかった。誰にも気づかれなかった。けれど、手は覚えている。


 薬草を刻む音だけが、静かな部屋に響く。三人の医師が、いつの間にか私の手元を食い入るように見ていた。


「……銀葉草の三節目以下を使う処方は、文献化されていないのですか」


 ゲルツ医師が、今度は敬意を含んだ声で聞いた。


「されていません。南部領の老薬師が六十年の経験から導いた処方です。私が文書化した記録は、王国の旧自室に——」


 言いかけて、止めた。あの記録も、リオンの名で世に出ていたら、今頃は「王太子殿下の功績」として語られていただろう。


 十五分で調合が完了した。淡い緑色の煎じ薬。匂いを確かめ、ごく少量を指先に取って舐める。苦みの中にわずかな甘み。配合は正確だ。


「——大丈夫です。これを一日三回、五日間服用してください。水源は上流の鉱脈から離れた場所に切り替えるか、濾過装置を設置する必要があります。簡易濾過装置の図面は、今日中に書きます」


 沈黙が落ちた。


 ゲルツ医師が、長い間の後、深く頭を下げた。


「……失礼な態度をお詫びします。この処方を、直ちに南部駐屯地に送らせていただきたい」


 若い医師の一人が呆然と呟いた。


「原因特定から処方完成まで、三十分足らずだ……」


 もう一人が、静かに、けれどはっきりと言った。


「この方を追放した国は、何を考えているのですか」


 ルーカスが短く咳払いをして、その言葉を止めた。


 私は調合台を片づけながら、静かに言った。


「ただ、これは応急処置です。根本的には、薬草管理院の体制そのものを立て直す必要があります。在庫の劣化、乾燥工程の不備、台帳の記録方法——改善すべき点はいくつか見えます」


 言ってから気づいた。出過ぎただろうか。着いて初日から人の仕事に口を出すのは——。


「……すみません。差し出がましいことを」


「エレノア嬢」


 背後から声がした。


 振り返ると、いつの間にかカイが入口の柱に肩を預けて立っていた。腕を組み、こちらを見ている。いつから見ていたのだろう。


「差し出がましくはありません。——それが、貴女にお願いしたい仕事です」


 短い言葉だった。けれど、その声には確かな重みがあった。


 称賛でも同情でもない。「あなたの力が必要だ」という、対等な評価。


 五年間、一度も聞いたことのない種類の言葉だった。リオンは私の仕事を見もしなかった。父は結果だけを求め、過程に興味を持たなかった。この人は——私がやったことの意味を、わかっている。


 胸の奥で、凝り固まっていた何かがまた少し溶けた。


「……ありがとうございます。精一杯、務めます」


 自然と深く頭を下げていた。卑下ではない。この仕事を任せてくれたことへの、対等な感謝だった。


 カイがうなずき、それからルーカスに目を向けた。


「南部駐屯地への薬の手配を。最優先で」


「はい。——それと、陛下。王国から書簡が届いております」


 ルーカスが一通の封書を差し出した。カイが受け取り、封を切る。読み終えるまでに、数秒しかかからなかった。


「……宰相ベルクハイムからです。南部交渉の草案を探しているようですね。王国中を探したが見つからない、と」


 私の旧自室に置いてきた草案。法的には私の個人著作物。王家は、私の許可なく使えない。


 宰相はようやく事態の深刻さに気づいたのだ。あの草案がなければ、来月の南部同盟との条約更新交渉は成り立たない。


「エレノア嬢に草案の提供を求める内容ですが」


 カイが封書を畳んだ。


「返答は、貴女の判断に委ねます」


 私は少し考えた。


「……今は、お断りします。あの草案は、私の五年間の仕事の集大成です。無断で名前を使い、功績を横取りし、最後に追放した相手に、無条件で渡す理由はありません」


 カイの口元がわずかに動いた。笑みではない。けれど、硬い表情の奥にあるものが、少しだけ見えた気がした。


「……賢明な判断だと思います」


   *


 その夜。与えられた居室の窓辺で、母の魔法書を開いた。


 古代語が——また少し、読めるようになっている。王国にいた頃は断片しか認識できなかった文字列が、帝国に来てから文章として意味を結び始めていた。左手の紋様も、一日中穏やかに温かい。


 新たに読み取れた一節。


『契約の継承者は、目覚めの地にて三つの試練を受ける。薬、浄化、そして——』


 三つ目の文字が、まだ読めない。


 薬。今日の調合が、その最初の「試練」だったのだろうか。それとも、ただの偶然か。


 そして二つ目——浄化。


 カイが明日、紋様について話すと言っていた。


 扉を叩く音がした。ルーカスだった。


「エレノア嬢。明朝、陛下がお会いしたいとのことです。——帝国の古代神殿に、お連れしたいと」


「古代神殿」


「千年前の契約が刻まれた祭壇があります。——そして、次の満月に行われる浄化の儀の会場でもあります」


 浄化の儀。


 魔法書の一節と、完全に重なった。


「もう一つ、お伝えすることがあります」


 ルーカスの表情がわずかに硬くなった。


「先ほど、王国の社交界で流れている噂が伝書蝶で届きました。王太子リオン殿下が、リリアーナ・フォーセット嬢に浄化の儀式を執り行わせようとしているそうです。——結果は、失敗したとのこと」


 偽聖女に、浄化の儀式はできない。


 それでもリオンは信じるのだろう。リリアーナの涙と、自分の判断の正しさを。


 私はもう、あの国のことを考える必要はない。


 けれど一つだけ、確かなことがある。


 明日——私は、自分が何者なのかを知る。

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