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第4話「死神と呼ばれた人」

 離れの棟で目を覚ますと、指先が悴んでいた。


 暖炉は薪が足りず、夜半に火が落ちていた。本邸からの薪の補充は三日前から滞っている。家令ハンスの指示だろう。離れの棟に住む「元婚約者」に、わざわざ薪を運ぶ使用人はいない。


 冷たい水で顔を洗い、母の隠し部屋に入る。古代語の書物を一冊、机に広げた。文字は相変わらず読めない。けれど不思議なことに、昨日より少しだけ、紋様の並びに規則性が見えるようになっていた。左手の紋様が、朝の光を受けてかすかに脈動している。


 帝国への連絡手段を見つけなければならない。決意はある。けれど、社交行事への参加を自粛させられた身で、帝国の使者にどう接触すればいいのか。伝書蝶を使えば父に知られる。


 そのとき、本邸の方角から馬蹄の音が聞こえた。一頭や二頭ではない。


 マリーが窓から身を乗り出し、息を呑んだ。


「エレノアさま——正門に、馬車が。黒い馬車です。あの紋章——」


 双頭の獅子と黒い薔薇。


 ヴェルザンド帝国が、来た。


   *


 本邸が慌ただしく動いている気配が、離れにまで伝わってきた。


 使用人が走り回る足音。父の書斎の扉が開く音。大陸最強の帝国から突然の訪問を受けて、公爵家が平静でいられるはずがない。


 私は離れの棟の窓から、庭園越しに正門を眺めていた。


 漆黒の馬車が三台。護衛の騎兵が十二騎。先日の使者一人とは規模が違う。これは国賓級の訪問だ。


 三十分ほどして、マリーが息を切らして戻ってきた。


「旦那さまが——エレノアさまを本邸にお呼びです。帝国からの客人が、エレノアさまに面会を求めているそうです」


 面会。私に。


 父はさぞ困惑しているだろう。離れの棟に追いやった娘を、帝国の使節団の前に出さなければならないのだから。


 身なりを整えた。と言っても、まともなドレスは返納予定の下賜品しかない。手持ちの中で最も質素な、学院時代の紺色のワンピースに袖を通した。マリーが手早く髪を結ってくれる。


「大丈夫ですか、エレノアさま」


「大丈夫」


 大丈夫かどうかはわからない。けれど、帝国が来たのなら——これは、母が遺してくれた道が開く瞬間かもしれない。


   *


 本邸の応接間に通されると、父が入口の脇に立っていた。その顔は、見たことがないほど強張っていた。


「エレノア。先方が直接お前と話したいと仰っている。無礼のないようにしろ」


 つい先日まで離れに追いやり、使用人の前で勅令を読み上げさせた人が、今は「無礼のないように」と言う。帝国の前では、捨てた駒にも笑顔で取り繕うのだ。


 応接間の扉が開いた。


 最初に目に入ったのは、窓際に立つ人影だった。


 黒い軍装。背が高い。先日の銀髪の使者が、その人物の二歩後ろに控えている。ということは——この人が。


 振り返った顔を見て、私は一瞬、言葉を失った。


 若い。おそらく二十代の半ば。黒髪に、深い紺色の瞳。顔立ちは端正だが、冷たさよりも静けさが印象に残る。「死神」の異名から想像していた威圧感は、不思議と薄かった。


 その目が、私を見た。


 じっと。品定めするのではなく、何かを確かめるように。


「——エレノア・ヴァルシュタイン嬢ですね」


 低く、落ち着いた声だった。


 リオンの声はいつも上から降ってきた。断定し、命令し、遮る声。この人の声は違う。水平に、まっすぐに、私の耳に届いた。


「ヴェルザンド帝国皇帝、カイ・ヴェルザンドです。突然の訪問をお許しください」


 皇帝が直接来た。大陸最強の国の君主が、婚約破棄された公爵令嬢のもとに。


 父が息を呑む音が聞こえた。


「お初にお目にかかります、陛下」


 私は礼法に則って一礼した。声は震えなかった。五年間、王太子妃候補として叩き込まれた所作が、こういうときに役に立つ。


「……立派な礼ですね。さすが、南部同盟との条約草案を一人で書き上げた方だ」


 心臓が跳ねた。


 知っている。この人は、私の仕事を知っている。


「草案をお読みになったのですか」


「ルドヴィク侯が見せてくれました。三年前の書簡のやり取りと合わせて。侯は貴女を高く評価しています。『あの令嬢がいなければ交渉の席にはつかない』と」


 喉の奥が詰まった。


 五年間。リオンにも、父にも、一度も言われなかった言葉だ。私の仕事の中身を見て、その価値を認める言葉。


「——ありがとうございます」


 声がわずかに震えた。それを隠そうとして、唇を引き結ぶ。


 カイの視線がかすかに動いた。私の唇に残った噛み痕を——見ただろうか。何も言わなかった。代わりに、静かにこう言った。


「座ってお話ししませんか。お茶を用意させました。——少し、寒かったでしょう」


 なぜわかるのだろう。指先の悴みを、隠していたつもりだった。


 応接間の椅子に腰を下ろす。テーブルには帝国式の茶器が並んでいた。カイの従者が手際よく琥珀色の茶を注ぐ。湯気が立ち上り、温かい匂いが広がった。


 温かい飲み物を出されたのは、いつ以来だろう。離れの棟には湯を沸かす道具もなかった。本邸の厨房に行けば使用人の目がある。マリーが気を利かせて冷たい水と硬いパンを運んでくれるのが、この数日の食事だった。


 茶杯を両手で包んだ。指先に、じわりと熱が移る。


「単刀直入に申し上げます」


 カイが口を開いた。


「貴女のお母上——クラーラ・ヴェルザンドは、帝国の古代魔導師の血を引く方でした。私の父……先帝の時代に、帝国を出てこの国に嫁がれた」


 父の顔色が変わった。母の旧姓が「ヴェルザンド」だったことすら、知らなかったのだろう。


「クラーラ様は、私がまだ皇太子だった頃に、一つの約束を託されました。『娘が居場所を失ったとき、迎えに来てほしい』と」


 カイの紺色の瞳が、まっすぐに私を見た。


「エレノア嬢。帝国は貴女を正式にお迎えしたい。これは慈善ではありません。千年の盟約に基づく、皇家の義務です。——ただし」


 一拍の間を置いて、カイは言った。


「最終的に決めるのは、貴女です。強制はしません。お望みでなければ、私はこのまま帰ります」


 強制はしない。


 リオンは私に一度も選ばせなかった。婚約も、役割も、破棄も、すべて一方的だった。父も同じだ。命令と叱責だけで、私の意志を聞いたことはない。


 この人は——選ばせてくれる。


「条件を伺ってもよいですか」


 自分でも驚くほど冷静な声が出た。五年間の交渉経験が、こういうときに働く。感情と判断を切り分けることは、私が最も得意とすることだ。


 カイの口元がわずかに動いた。笑みとは呼べない、けれど硬い表情が少しだけ緩んだ瞬間。


「もちろんです。帝国で貴女にお願いしたいことがあります。南部国境の薬草管理体制の再建と、古代魔導の研究支援。報酬、住居、身分保障はすべて帝国が用意します。詳細は書面で——」


「あの」


 私は遮った。


「一つだけ。侍女のマリーを同行させていただけますか。彼女は……私のために、公爵家での立場を失いかけています」


 カイが銀髪の使者に目を向けた。使者がうなずく。


「無論です。貴女が必要とされる方は、すべてお連れください」


 何かがこみ上げてきた。涙ではない。胸の奥で凝っていたものが、ほんの少しだけ溶ける感覚。


 こんなふうに、当たり前のことを当たり前に聞いてもらえたのは——いつ以来だろう。


「……陛下」


「カイで構いません」


「では、カイ陛下。一つだけ、教えてください」


 私は母の追伸を思い出しながら、聞いた。


「母は——どんな方でしたか。陛下から見て」


 カイの目がわずかに揺れた。紺色の瞳に、ほんの一瞬だけ、温かいものが差した。


「……強い方でした。そして、優しい方だった。私が皇太子になるのが嫌で泣いていたとき、『泣いてもいいけれど、泣き終わったら前を向きなさい』と言ってくれた人です」


 泣き虫だった、という母の追伸が重なる。


「母はいつも——前を向きなさい、と」


「ええ。クラーラ様の口癖でした」


 この人は母を知っている。母の言葉を覚えている。


 五年間、リオンは私の母のことを一度も聞かなかった。父は母の花壇すら壊した。けれどこの人は——異国の皇帝が——母の言葉を大切に覚えていた。


「——帝国に、参ります」


 声が震えた。今度は隠さなかった。


「お受けいただけますか」


「はい。自分の足で行きます。自分の意志で」


 カイがうなずいた。静かに、深く。


 その瞬間、左手の紋様が温かく光った。金色の光が茶杯の水面にちらちらと映る。


 カイの視線が、私の左手に落ちた。


「——やはり」


 低い声で、カイは呟いた。銀髪の使者と目を合わせる。何か確認するように、使者が小さくうなずいた。


「エレノア嬢。その紋様について——明日、帝国に着いてから、お話しさせてください。今夜は休んでいただきたい」


 すべてを今は言わない。段階を踏もうとしている。


「出発は」


「明後日の朝を予定しています。明日一日は、荷物の整理とお別れに充ててください」


 お別れ。


 この屋敷で別れを惜しむ相手は——マリーとセバスチャンだけだ。


 立ち上がりかけたとき、カイが思い出したように言った。


「一つ、お伝えしておくことがあります」


「何でしょう」


「先月、王国から帝国に届くはずだった南部同盟との事前協議書が届きませんでした。ルドヴィク侯は困惑しています。条約更新交渉に必要な資料が、どこにも見当たらないそうです」


 南部交渉の草案。私が書き、私の旧自室に置いてきた。法的には私個人の著作物。誰も見に行かず、誰も引き継がず、放置されたまま。


「……それは、おそらく私の元に」


 カイの目がわずかに細くなった。


「やはりそうですか。——王太子殿下は、随分と大きなものを手放されたようだ」


 その声には怒りも嘲りもなかった。ただ事実を述べるような、静かな響き。


 けれどその静けさの中に、私は確かに聞き取った。


 この人は——怒っている。私が受けた仕打ちに。


 応接間を出て、廊下を歩く。背後で父が何か言いかけたが、カイの従者に遮られていた。


 離れの棟に戻り、扉を閉めた。


 マリーが駆け寄ってくる。


「エレノアさま、大丈夫ですか。何があったんですか」


「マリー。荷物をまとめて。明後日の朝、私たちはこの国を発つ」


 マリーが目を見開いた。


「帝国に行くの。あなたも一緒に。——嫌なら、無理にとは言わない」


 マリーの目に涙が浮かんだ。けれど今度の涙は、悲しみではなかった。


「お供します。どこまでも」


 窓の外で、庭師が白百合の花壇に鋤を入れている。


 母の花が、一本また一本と抜かれていく。


 もう見なくていい。


 母の本当の遺産は、花壇ではなく、あの隠し部屋の書物と、左手のこの紋様と——母を覚えていてくれた、あの皇帝の記憶の中にある。


 鞄の奥から母の魔法書を取り出した。開いた頁の古代語が——昨日まで読めなかった一行が——かすかに、意味を帯び始めていた。


『継承者よ。目覚めの地にて、汝の力は花開く——』


 帝国が、その「目覚めの地」なのだろうか。


 答えは、明後日の朝の向こうにある。

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