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捨てられた公爵令嬢は、もう誰のためにも泣かない  作者: 今井 幻


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第3話「王命と暖炉の奥」

「——ヴァルシュタイン公爵家長女、エレノア。王命により、以下を通達する」


 離れの棟に移って三日目の朝、それは来た。


 王家の使者が公爵邸の正門を訪れ、父の書斎ではなく——わざわざ使用人たちが居並ぶ本邸の大広間で、勅令を読み上げたのだ。


「第一に、王太子リオン殿下との婚約は正式に解消される。第二に、婚約期間中に下賜されたすべての品——宝飾品、衣装、王家紋章入りの調度品を含む——を、七日以内に王宮へ返納すること」


 使者が一拍の間を置いた。大広間の空気が張り詰める。


「第三に、エレノア・ヴァルシュタインは、王太子妃候補としての一切の資格を剥奪される。今後、王都の社交行事への参加を当面の間、自粛するよう勧告する」


 大広間の隅で、使用人たちが息を潜めている。家令のハンスが薄い笑みを浮かべているのが、視界の端に映った。若い侍女たちは目を伏せ、料理長だけが苦い顔で壁を見つめていた。


 社交行事への参加自粛。勧告という体裁を取ってはいるが、実質的な王都追放だ。


 婚約破棄だけでは飽き足らず、私の社会的な居場所まで消しに来た。伝書蝶で断罪の場面が拡散され、掲示鏡で社交界中に晒され、その上でさらにこの勅令。念の入った仕上げだった。


 リオンの仕業だろう。いや——リリアーナの入れ知恵だろうか。私が社交界に残れば、過去の功績を知る者が声を上げるかもしれない。宰相ベルクハイム卿のように、南部交渉の草案が私の手によるものだと証言する者が現れるかもしれない。それを未然に封じるための一手。単なる男爵令嬢の発想ではない。


 父は使者の隣に立ち、深々と頭を下げた。


「王命、謹んで承ります」


 娘の名誉が公然と踏みにじられる場面で、一言の異議も唱えない。それどころか、使者を本邸の大広間に通したのは父の判断だろう。離れの棟で私一人に伝えればすむ話を、使用人の前で読み上げさせた。


 公爵家としての忠誠を、家中に示す目的だ。「我が家は王家に逆らわない」と。その見せしめの道具に、自分の娘を使う。


 私は背筋を伸ばしたまま、使者に向き直った。


「承知いたしました。下賜品は七日以内にすべてお返しいたします」


 使者がわずかに目を見張った。抵抗すると思っていたのか、それとも泣くと思っていたのか。


「——なお、一点だけ確認させてください」


「何か」


「婚約期間中に私が個人として作成した書類——外交交渉の草案、法案の原稿、交渉相手との書簡の控えは、下賜品には含まれませんね。これらは王家から賜ったものではなく、私個人の著作物ですので」


 使者が眉をひそめた。想定外の質問だったのだろう。隣の父も、一瞬だけ私に視線を寄越した。


「……それは下賜品ではなく、個人の著作物と考えるのが妥当かと」


「ありがとうございます。では、それらは私の手元に残るということで、公式な記録に留めていただけますか」


 大広間が微かにざわめいた。使用人たちが顔を見合わせる。家令ハンスの笑みが消えた。


 何を確認しているのか、この場の誰にも理解できないだろう。けれど宰相ベルクハイム卿なら——あの草案がなければ南部交渉が成り立たないことを知っている彼なら——この一言の重みがわかるはずだ。


 南部同盟との条約更新交渉は来月に迫っている。草案を書いたのは私だ。交渉相手のルドヴィク侯と三年間の信頼関係を築いたのも私だ。それらが「私個人の著作物」として公式に認められた今、王家はこの書類を私の許可なく使えなくなった。


 リオンはそんなことには気づかない。けれど、宰相は気づく。そしてその時、王太子が何を手放したのか、嫌でも直視することになる。帳簿と草案の写しは、ベルクハイム卿にもお預けしてある。あの方なら——万が一のとき、正しい場所に届けてくれるだろう。


 私は静かに一礼し、大広間を出た。


 背後で、使者が父に何かを囁くのが聞こえた。父の返答は聞こえなかったが、短い沈黙が落ちた。


 あの沈黙の意味を、父はまだ理解していない。


   *


 離れの棟に戻ると、マリーが目を真っ赤にして待っていた。


「聞きました……社交行事への参加自粛なんて……エレノアさまは何も悪いことをしていないのに」


「マリー。泣かないで」


 三日前と同じ言葉を繰り返す。この子の涙を見るたびに、喉の奥が焼けるように熱くなる。泣けるマリーが、少し羨ましかった。


「私は大丈夫。それより——」


 私は暖炉の前に膝をついた。三日前の夜、煤の奥に見つけた紋様。金属片と同じ意匠が刻まれた煉瓦。あれ以来、何度も試してみたが、反応はなかった。


 けれど今朝は違った。勅令を受けた直後、左手の紋様がずっと熱を持っている。感情が揺れると、紋様は強く反応する。母の魔法書にそう書いてあったのかもしれない——読めないから確かめようがないが。


 金属片を鞄から取り出し、暖炉の煉瓦にそっと押し当てた。


 紋様が光った。


 金属片と煉瓦の紋様が同時に輝き、暖炉の奥から低い振動が伝わってきた。煤が舞い上がり、マリーが咳き込む。


「え——エレノアさま、何が——」


 煉瓦の一つが、音もなく奥へ沈んだ。


 その向こうに、暗い空間が口を開けている。


「……部屋がある」


 暖炉の裏に隠された小部屋。いや、書斎と呼ぶべきか。埃に覆われた小さな机、壁一面の本棚、そして——中央に置かれた硝子の箱。


 天井の高さは十分にあり、かつては魔導灯が灯されていた痕跡がある。空気は乾いて、不思議と黴の匂いがしなかった。保存の魔法が施されているのかもしれない。


 本棚の背表紙に目を走らせる。すべて古代語だ。学院の図書室にも王都の公文書館にも存在しなかった文字体系。母の魔法書と同じ言語。


 そして、硝子の箱の中に一通の封書があった。


 封蝋はない。代わりに、見覚えのある筆跡で宛名が書かれていた。


『愛しいエレノアへ——母より』


 指先が震えた。今度は隠せなかった。


 母の字だ。丸みのある、優しい筆跡。幼い頃に読んでもらった絵本の書き込みと、同じ手だ。


 封を開ける。便箋は薄く、古い。母が亡くなる前——おそらく私がまだ幼い頃に書かれたものだ。


   *


『この手紙を読んでいるということは、あなたは鍵を手に入れ、この部屋に辿り着いたのですね。


 エレノア、あなたに伝えなければならないことがあります。


 私はこの国の人間ではありません。ヴェルザンド帝国の、古代魔導師の血を引く者です。あなたの左手の紋様は、千年に一度現れる「契約の継承者」の証です。


 この力のことを、あなたの父には話していません。話せば、あなたはまた別の形で「駒」にされるでしょう。だから隠しました。この部屋に、あなたが自分の足で辿り着くその日まで。


 帝国の皇家には、古い盟約があります。契約の継承者が現れたとき、帝国はその者を迎え入れ、守護するという約束です。


 私の命が尽きる前に、皇太子に、あなたのことを託しました。


 あなたが苦しいとき、居場所を失ったとき、帝国があなたの味方になります。


 どうか、自分を責めないで。あなたが愛されなかったのではありません。あなたの価値を見る目が、周りになかっただけです。


 母は、あなたをこの世の誰より愛しています。いつまでも、どこにいても。』


   *


 最後の一行を読んだとき、視界が滲んだ。


 母を亡くしてからずっと——十年以上、私の目は乾いたままだった。泣くことを自分に許さなかった。公爵令嬢として、王太子妃候補として、父の駒として。泣く暇も、泣く理由を認める余裕もなかった。


 けれど今、堰が切れた。


 涙が頬を伝う。一筋、二筋、そして止まらなくなった。声は出さなかった。静かに、ただ静かに、膝の上に落ちた手紙を両手で握りしめて泣いた。


 マリーが隣にしゃがみ込み、何も言わずに肩を抱いてくれた。


 母が知っていた。私の力を。私の運命を。そして——私がいつか、この家で居場所を失うことも。


 だから準備していた。この部屋を用意し、鍵を帝国に託し、私が自分の足でここに辿り着く日のために。


 涙が止まるまで、長い時間がかかった。目を拭い、手紙をもう一度読み返した。


『帝国があなたの味方になります』


 皇帝カイの封書と、母の遺書が一本の線で繋がった。あの招待は慈善でも気まぐれでもなかった。母との盟約——千年の契約に基づく、正式な迎えだったのだ。


 隠し部屋の本棚を改めて見る。古代語で書かれた数十冊の書物。母の魔法書と同じ言語だ。ここで学べば、あの魔法書も読めるようになるだろうか。左手の紋様の意味も、この力の使い方も、わかるようになるだろうか。


 紋様が、まるで応えるように温かく脈動した。


   *


 隠し部屋を出ると、離れの棟の前にセバスチャンが立っていた。


 老執事の顔は、いつにも増して険しかった。


「お嬢さま。旦那さまからの伝言です」


「何かしら」


「来週の園遊会に、リリアーナ・フォーセット嬢を正式にお招きすることが決まりました。王太子殿下もご同席されるとのこと。それに伴い——」


 セバスチャンが言葉を区切った。唇が一瞬、震えた。


「お嬢さまが管理されていた庭園の白百合の花壇を、リリアーナ嬢のお好みの薔薇に植え替えるよう、旦那さまから指示がございました」


 足元から血の気が引いた。


 白百合の花壇。母が生前、毎朝水をやっていた花。母が亡くなってから十年以上、私が一人で手入れを続けてきた場所。球根を植え替え、土を整え、虫を取り、冬には藁で覆って守った。あの花壇だけが、母と私を繋ぐ最後の場所だった。


 それを——あの子のために——植え替える。


 唇を噛んだ。下唇の内側に鋭い痛みが走り、血の味がした。


「……承知しました」


 声が震えた。今度は抑えられなかった。


「セバスチャン、父上にお伝えください。花壇のことは、お好きになさってくださいと」


 セバスチャンが深く頭を下げた。老執事の肩が微かに震えていた。この人も知っている。あの花壇を、毎朝誰が手入れしていたか。あの白百合が、誰の形見だったか。


 離れの棟の扉を閉めた。


 鞄の中から、皇帝カイの手紙を取り出す。


『貴女の母君との約束を果たしに参ります』


 この国にはもう、守るべきものがない。


 父は私を駒として切り捨てた。リオンは五年間の功績ごと私を否定した。使用人たちは目を逸らし、社交界からは締め出され、母の花壇すら奪われる。


 けれど——母は知っていてくれた。母だけは、最初から最後まで、私を見ていてくれた。


 その事実が、崩れかけた足元を支えている。


 机の上に、母の手紙と皇帝の手紙を並べた。


 古代語の書物が眠る隠し部屋。左手の紋様。千年に一度の契約の継承者。帝国との盟約。


 答えは、もう出ている。


 私はこの国を出る。帝国の招待を受けよう。


 その決意が胸の中で固まった瞬間——左手の紋様が、これまでで最も強く輝いた。金色の光が離れの棟を包み、一瞬だけ、窓の外の庭園を照らした。


 本邸の方角から、誰かの悲鳴が上がった。光に驚いたのだろう。


 けれど私はもう振り返らなかった。


 手紙の隅に、母の筆跡でもう一行。読み落としていた小さな追伸。


『追伸——あの子は気難しく見えるけれど、本当はとても優しい子です。昔はよく泣いていました』


 あの子——と呼べるほど幼かった少年が、今は「死神」と呼ばれる大陸最強の皇帝になっている。


 その人が、泣き虫だった。


 母は一体、どんな関係をあの人と築いていたのだろう。


 答えを知るためにも——私は、帝国へ行かなければならない。

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