第2話「帰る場所のない令嬢」
帝国の馬車から降りてきたのは、使者と名乗る銀髪の青年だった。
軍服に似た黒い外套。年は私と同じか、少し上だろう。表情は読めない。ただ、その立ち姿だけで只者ではないとわかった。
「ヴァルシュタイン公爵令嬢——エレノア殿」
抑揚のない声が、私の名を呼ぶ。
「ヴェルザンド帝国より、正式な招待状をお届けに参りました」
差し出されたのは、黒い封蝋で封じられた書簡。双頭の獅子の紋章が、月明かりの下で鈍く光る。
受け取ろうと手を伸ばした瞬間、左手の甲の紋様が一段強く輝いた。青年の目がわずかに見開かれる。
「……やはり」
何かを確認するように、青年は小さくそう呟いた。
「お届けするものは以上です。ご開封は、お一人のときに」
それだけ言い残して、青年は馬車に戻った。漆黒の馬車は音もなく走り去り、月光の中に溶けるように消える。
手の中に残った封書の重みだけが、あれが現実だったことを証明していた。
*
ヴァルシュタイン公爵邸に着いたのは、深夜を回った頃だった。
正門ではなく、裏口から通された。セバスチャンが無言のまま先導する。その背中の強張りが、何かを予感させた。
書斎の灯りが漏れている。
扉を開けると、父——ヴァルシュタイン公爵が執務机に座っていた。舞踏会には来なかった人が、ここにはいる。
「座りなさい」
顔も上げずに、書類に目を落としたまま。
私は向かいの椅子に腰を下ろした。この部屋に呼ばれるとき、父の用件は決まっていた。叱責か、命令か、そのどちらかだ。褒められた記憶は、一度もない。
「婚約破棄の件は聞いている」
父の声には怒りがあった。ただし、娘が理不尽な目に遭ったことへの怒りではない。
「なぜ防げなかった」
喉の奥がきゅっと詰まった。
「五年間、何をしていた。王太子の心を繋ぎ止めることすらできなかったのか」
防ぐ。まるで婚約破棄が、私の不手際であるかのように。
「お言葉ですが、父上。殿下の心変わりは——」
「言い訳は聞いていない」
書類を叩くように机に置き、ようやく父が顔を上げた。その目に、私を心配する色は欠片もなかった。
「ヴァルシュタイン家は三代にわたって王家と姻戚関係を保ってきた。お前の婚約はその要だった。それを失ったということが、何を意味するかわかっているのか」
わかっている。私は家門の駒だ。駒が使えなくなったとき、駒を責めるのがこの人のやり方だ。
「明日から、お前は離れの棟に移れ」
「——離れ」
「本邸の客室は、リリアーナ嬢に提供することになる可能性がある。王太子が新たな婚約者候補を連れてくるかもしれん。その際、お前がいては都合が悪い」
指先が震えた。それを隠すように、膝の上でスカートの布を握る。
離れの棟。使用人すら常駐しない、かつて物置として使われていた古い建物だ。そこに自分の娘を——婚約破棄の翌日に——追いやるのか。
「王太子が新たに選ぶ相手が、この屋敷に来ることはないでしょう。公爵家と王家の関係は——」
「黙りなさい。政治の判断は私がする」
父は再び書類に目を落とした。会話の終わりを告げる仕草。私はもう、この机の前にいる価値がない、という宣告。
立ち上がり、一礼して書斎を出た。
廊下は暗かった。使用人たちがこちらを見ている気配がする。壁際に控えた若い侍女が、目を逸らした。今朝まで「お嬢さま」と呼んで私のドレスを整えてくれた子だ。
婚約破棄の噂は、もうこの屋敷にも届いている。伝書蝶は早い。そして人の心は、もっと早く変わる。
自室に向かう途中、すれ違った家令のハンスが、わざとらしく咳払いをした。
「離れへのお引越しは、明朝手配いたします。荷物はこちらで運びますので——ああ、必要最低限でお願いしますね。あちらは手狭ですから」
声に含まれた薄い軽蔑を、私は聞き逃さなかった。この男は父の忠臣だ。父の態度が変われば、周囲もそれに倣う。学院と同じだ。頂点の意向が、全体の空気を決める。
「ありがとう、ハンス。手配をお願いします」
声が震えなかったことだけが、今の私にできる精一杯の矜持だった。
*
自室の扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けた。
壁に背中を預けて、ゆっくりと座り込む。床の冷たさが、薄いドレスの布地を通して伝わってきた。
一人だ。
広い部屋に、私一人。
今夜の舞踏会では、百人を超える貴族の前で婚約を破棄された。学院中の伝書蝶がその場面を運び、明日の掲示鏡には私の断罪が映し出される。父は私を離れに追いやり、使用人たちはもう目を合わせない。
これが、五年間国のために尽くした結果だ。
胸の底に鉛を流し込まれたような重さがあった。涙は、やはり出なかった。あの大広間で泣けなかったように、ここでも泣けない。涙を流す感情すら、五年間のどこかで磨り減ってしまったのだろう。
机の上に積まれた書類が目に入った。
南部同盟との条約更新交渉の草案。来月の交渉に向けて、私が三ヶ月かけて作成したもの。ルドヴィク候の過去の交渉記録を遡り、相手方の優先事項を分析し、双方に利のある妥協点を五つ提案するところまで仕上げてあった。
この草案がなければ、交渉は決裂する。ルドヴィク候は強硬派で、王太子の名前だけでは席にすら着かない。三年間の書簡で築いた信頼が、唯一の交渉カードだった。
私がいなくなれば、そのカードは消える。
けれど、もうそれは私の問題ではない——はずだった。
机の端に、もう一つの束がある。昨年、王都南部の疫病が流行したとき、私が起草した緊急対策法案の写し。薬草の確保ルート、隔離措置の手順、資金の配分表。すべて私の筆跡で書かれている。
あの法案はリオンの名前で議会に提出された。成立したとき、リオンは取り巻きに囲まれて「この国のために最善を尽くす」と笑っていた。私はその横で、黙って微笑んでいた。
それでいいと思っていた。王太子妃とは影で支える者。成果は王太子のもの。名誉も賞賛も、すべてリオンに。
今になって分かる。あれは支えではなく、搾取だった。
私は立ち上がり、書類の束を手に取った。持っていくか、置いていくか。
——置いていこう。
この草案の価値がわかる人間は、この屋敷にはいない。いずれ誰かが探し始めたとき、ここにある。それでいい。
ドレスを夜着に替え、最低限の荷物をまとめ始めた。本棚から母の形見——古い魔法書を一冊だけ取り出す。金の箔押しが剥げかけた革表紙。母が亡くなる前に「あなたに」と渡してくれた、唯一の遺品だ。
開いたことはあるが、中に書かれた文字は古代語で、大半が読めなかった。学院の図書室でも、この言語体系に関する文献は見つからなかった。
——ただ一箇所だけ。
最後の頁に、母の筆跡でこう書かれている。
『この書を読める者が現れたとき、契約は再び動き出す』
母は何を知っていたのだろう。何を伝えようとしていたのだろう。
形見の本を荷物に入れようとしたとき、左手の紋様が再び淡く光った。同時に、帝国の使者から受け取った封書が、鞄の中で微かに熱を帯びたのがわかった。
開封は、お一人のときに——あの使者はそう言った。
今がそのときだ。
封蝋に指を当てる。触れた瞬間、蝋が自ら溶けるように崩れた。普通の封蝋ではない。特定の相手にしか開けない魔導封印だ。
中には一枚の便箋と、薄い金属片。
便箋には、短い一文だけが記されていた。
『貴女の母君との約束を果たしに参ります。——ヴェルザンド帝国皇帝 カイ』
皇帝。
「死神」の異名を持つ、大陸最強の統治者。
その人物が——母と、約束を?
金属片を手に取る。掌に収まるほどの小さな薄板に、精緻な紋様が刻まれている。左手の甲の紋様と、同じ意匠だった。
何かの鍵だ。何の鍵かはわからない。けれど、この薄板を握った瞬間、胸の奥の空洞がわずかに温まった気がした。
*
翌朝。
離れの棟に移る荷物をまとめていると、扉を叩く音がした。
マリーだった。昨夜のまま、目を泣き腫らしている。
「お嬢さまを離れに移すなんて……私、旦那さまに申し上げました。こんなのおかしいです、って」
「マリー。無茶をしないで。父上に逆らえば、あなたの立場が——」
「そんなの構いません。私はエレノアさまの侍女です。どこへだってお供します」
小さな手が、私の荷物の一つを掴む。涙声なのに、目だけは真っ直ぐだった。
喉の奥が熱くなった。
この子だけだ。肩書きではなく、私自身を見てくれるのは。
「……ありがとう、マリー」
離れへ向かう渡り廊下で、本邸の窓から笑い声が聞こえた。父の書斎の近くだ。
「——来月の園遊会には、リリアーナ嬢をお招きしては。王太子殿下もお喜びになるでしょう」
家令ハンスの声だった。
父の返答は聞こえなかったが、否定した様子はなかった。
ああ、そうか。私が追い出された部屋に、あの子が招かれるのか。
私が五年間管理してきた来客用の食器棚、季節の花の手配、園遊会の席次表——すべて引き継ぎもなく、別の人間が使う。
足が止まった。
マリーが心配そうに振り返る。
「エレノアさま——」
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。けれど、ここで立ち止まるわけにはいかない。
離れの棟は、思った以上に荒れていた。埃をかぶった家具、罅の入った窓硝子、冷え切った暖炉。使用人が手入れを怠っていたのではなく、もともと人が住むことを想定していない場所だ。
マリーが息を呑む。
「こんな場所に——」
「掃除すれば使える。まず窓を開けましょう」
私は窓を押し開けた。朝の冷たい風が吹き込む。
眼下に、屋敷の庭園が見えた。春に向けて私が手配した薔薇の苗が、几帳面に並んでいる。そのすぐ隣に、母が生前愛した白百合の花壇。毎年私が手入れを続けてきた場所。
あの花壇も、もう私のものではないのだろう。
鞄の中で、帝国の金属片がかすかに震えた。
左手の紋様が、朝陽を受けて淡く脈動する。
母の魔法書。帝国の皇帝からの手紙。左手の紋様。すべてが繋がっているのに、まだ全体像が見えない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
この屋敷に、もう私の居場所はない。父にとって私は失敗した駒であり、使用人たちにとって私はもう「お嬢さま」ではない。学院の友人も、社交界の知人も、伝書蝶で昨夜の断罪を知っている。
居場所を失った。名誉を失った。五年間の献身は誰にも覚えられない。
——けれど。
封書の一文が、頭の中で繰り返される。
『貴女の母君との約束を果たしに参ります』
母と皇帝の間に、何があったのか。古き契約とは何なのか。この手の紋様は、何を意味するのか。
わからないことだらけだ。けれど、初めて——本当に初めて——私は自分の意志で選ぼうとしている。
リオンのためでも、父のためでも、家門のためでもない。
私自身の答えを、見つけるために。
鞄の底から金属片を取り出し、朝陽に翳した。精緻な紋様が光を受けて浮かび上がる。
その瞬間——離れの棟の古い暖炉の奥で、何かが微かに光った。
煤に覆われた煉瓦の隙間に、同じ紋様が刻まれている。
この離れは——ただの物置ではなかったのかもしれない。




