表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第1話「断罪の大広間」

「——エレノア・ヴァルシュタイン。お前との婚約を、本日をもって破棄する」


 満場の貴族が息を呑む王立学院の大広間で、王太子リオンは高らかにそう宣言した。


 卒業記念の大舞踏会。学院の五年間の終わりを祝うはずの夜に、私は大陸中の貴族の子弟が見守る中、壇上から断罪された。


「お前は王太子妃にふさわしくない。いや——この国にとって害悪だ」


 リオンの声が、魔導灯に照らされた天井に反響する。隣に立つのは、涙をためた大きな瞳で彼の袖をつかむ男爵令嬢——リリアーナ・フォーセット。


 五年。私がこの国のために捧げた五年を、彼はたった一言で踏みにじった。


   *


 大広間のざわめきが、遠い波音のように聞こえる。


 周囲の視線が刺さる。同級の令嬢たちが顔を寄せ合い、伝書蝶——この学院で誰もが使う魔導通信の光蝶——を素早く飛ばしているのが見えた。淡い燐光を帯びた蝶が、ひらひらと大広間の窓から王都の夜空へ舞い上がっていく。もう広まっている。今夜中に、王都中の社交界がこの断罪を知るだろう。


 学院の掲示鏡——誰もが自分の日常を映し出し、互いの姿を評し合う魔導鏡——にも、きっと今の場面が映されている。明日の朝には全学年の生徒がこの断罪を「鑑賞」し、憐れみか嘲りの伝書蝶を飛ばし合うのだ。


 学院とはそういう場所だった。学問と礼法を修める場であると同時に、貴族の子弟たちが派閥を組み、噂を飛ばし、互いの序列を確かめ合う、小さな社交界の縮図。


「リリアーナは聖女の素質を持つ者だ。彼女こそが、この国を導く光である」


 リオンがリリアーナの肩を抱く。彼女は泣きながら首を横に振った。


「やめてください、殿下……私のせいでエレノアさまが……ごめんなさい、私なんかのために……」


 その涙の裏で、リリアーナの指先がリオンの袖を離さないことに、この場で気づいているのは私だけだろう。


 計算し尽くされた涙だ。


 私が初等部から中等部、高等部と五年間をかけて築いたリオンとの関係を、彼女は転入からわずか一年で奪い取った。クラスの集まりでは誰よりも無垢に振る舞い、リオンの取り巻きの前では決して目立たない。けれど二人きりになった途端、頼りなく微笑み、そっと腕に触れる。放課後の魔法実習棟の裏で、偶然を装ってリオンと鉢合わせる手際。学院祭の準備で、さりげなく私の担当を外し、自分がリオンの隣に収まる立ち回り。


 あの巧みさは、田舎から出てきた素朴な男爵令嬢のそれではない。


「エレノア。お前がリリアーナに対して行った数々の嫌がらせ——」


「嫌がらせ」


 思わず声が出た。


「具体的に、何のことでしょうか」


 リオンが一瞬、言葉に詰まった。——やはり、彼には具体的な証拠などない。リリアーナの涙混じりの訴えだけを鵜呑みにしている。


「リリアーナを仲間外れにしただろう。彼女が学院で孤立するように仕向けた」


「私がフォーセット嬢の交友関係に介入したことは一度もございません。むしろ、彼女が学院生活に馴染めるよう、教師に相談し、学友への紹介状まで書いたのは私です。必要であれば、教務課に記録が残っております」


 大広間が静まる。壇上の脇に控えていたローレンツ教授が小さくうなずいたのを、私は視界の端で捉えた。


 リオンの顔が赤くなった。反論できないとき、彼はいつもこうだ。怒りで思考を塗りつぶし、声を大きくして押し通す。学院の頃からずっとそうだった。自治会の議論でも、友人との些細な口論でも、正論を突きつけられると激昂して場を壊す。そのたびに私が後始末をした。


「——黙れ。お前の小賢しい口はもう聞き飽きた」


 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


 五年間。私はこの人のために、どれほどのことをしてきただろう。


 学院の自治会では、リオンが手つかずのまま放り出した予算案を毎年私が修正し、各クラスへの配分を調整した。彼の名前で提出された南部領の疫病対策法案——あれを起草したのは私だ。深夜まで文献室の灯りを点け、教授に助言を求め、関係各方面に伝書蝶を飛ばし続けた。法案がどれほどの人命を救ったか、リオンは知りもしないだろう。


 リオンの魔法学の成績が落ちかけたとき、自分の課題を後回しにして彼の実技指導を手伝ったのも私だ。彼の取り巻きの前では「殿下はお優秀ですわ」と微笑み、決して恩を着せなかった。


 それが、私の役割だと思っていたから。婚約者として。未来の王太子妃として。この国のために。


 けれど今、この瞬間にすべてが分かった。


 リオンは私の献身を知らない。知ろうともしなかった。


 ——いいえ、違う。知っていても、どうでもよかったのだ。彼にとって婚約者とは、自分の隣で微笑み、自分の言葉に頷き、自分の気分を良くしてくれる存在。それだけでよかった。私が何を考え、何を成し遂げたかなど、最初から興味がなかった。


「殿下」


 私は背筋を伸ばした。崩れそうになる膝を、意志の力だけで支える。ここで泣けば、リリアーナの思い通りになる。ここで叫べば、リオンの「気の狂った元婚約者」という筋書きが完成する。


 五年間で学んだ。この学院という場所で、噂と評判がどれほどの力を持つかを。一度レッテルを貼られれば、真実など誰も見ようとしない。伝書蝶は真偽を問わず飛び、掲示鏡は面白い方の物語だけを映す。


 だから私は、最後まで完璧な公爵令嬢として振る舞う。


「婚約の破棄、謹んでお受けいたします」


 大広間にどよめきが走った。


 私が抵抗すると思っていたのだろう。泣いて縋ると。膝をついて許しを請うと。


 リリアーナの目が一瞬、揺れた。想定外だったのだ、この反応は。彼女の脚本では、私はここで取り乱し、醜態を晒すはずだった。


「ただし、一つだけ申し上げます」


 リオンが眉をひそめる。


「私がこの五年間に行った税制改革案、疫病対策法案、南部国境の外交交渉の準備書類——すべて、婚約者の立場で携わったものです。婚約が解消される以上、それらの引き継ぎが必要でしょう。どなたが後任をお務めになるのですか」


 沈黙が落ちた。


 宰相ベルクハイム卿の顔が、目に見えて青ざめた。彼は知っている。私がいなくなれば、来月に迫った南部同盟との条約更新交渉は白紙に戻ることを。交渉相手のルドヴィク候が信頼しているのは王太子ではなく、三年間にわたって誠実な書簡を交わし続けた私だということを。


「そ、そのようなことは——後から考えればよい」


 リオンが苛立たしげに手を振る。


 後から。いつもそうだ。この人は、目の前の華やかなものだけを選ぶ。学院で一番人気の友人、一番甘い言葉をくれる令嬢、一番気分のいい選択肢。それだけを掴み取り、後のことは誰かに押しつける。


 その「誰か」が、ずっと私だった。


 もう終わりにしよう。


「……承知いたしました」


 私は深く一礼した。完璧な角度で。学院で叩き込まれた礼法の通りに。最後まで、非の打ちどころのない令嬢として。


「五年間、お世話になりました。殿下、どうぞお健やかに」


 踵を返す。大広間を横切る。百を超える視線が背中に突き刺さる。ささやき声と伝書蝶の羽音が、嵐の前の虫の声のようだった。


 涙は、出なかった。出さないのではなく、出なかった。胸の奥にあるのは悲しみではなく、深い底を打ったような、静かな空洞だった。


 五年間、私はリオンのために泣いた。彼の冷たさに傷つき、彼の無関心に涙を飲み、それでも「王太子妃になる者の務め」と自分に言い聞かせた。


 父上は私の婚約を家門の誇りだと言った。学院での成績よりもリオンの機嫌を優先しろ、と。お前は公爵家の長女なのだから、個人の感情など捨てよ、と。母上は幼い頃に亡くなり、相談できる人は誰もいなかった。家の名誉、父の期待、婚約者としての義務。全部が鎖のように私を縛り、「エレノア個人」としての私は、どこにもいなくなっていた。


 友人と呼べる者も少なかった。公爵令嬢にして王太子の婚約者。その肩書きが、対等な関係を遠ざけた。近づいてくる者は皆、私ではなく私の立場を見ていた。


 もう、終わりにしよう。


 誰かのための私は、今夜ここに置いていく。


   *


 大広間を出た廊下は、月の光が青白く差し込んでいた。


 足音が追いかけてきた。


「エレノアさま」


 侍女のマリーだ。目を真っ赤にして、私の手を握る。


「あんまりです……あんまりですわ。エレノアさまがどれほど殿下のために——この国のために——」


「マリー。泣かないで」


 彼女の肩を軽く叩く。この子は学院時代から、身分の壁をものともせず私に率直に意見をくれた唯一の友人だった。令嬢たちの派閥争いにも加わらず、「エレノアさまは偉いです。でも、もっと自分を大事にしてください」と真っ直ぐに言ってくれた子。その言葉を、私はいつも笑って受け流していた。


 もっと早く、聞いておけばよかった。


「でも——」


「これでよかったの。いえ、遅すぎたくらい」


 自分の声が、思ったよりも穏やかだったことに驚く。


 ああ、私は本当に解放されたのだ。鎖が一本、確かに断ち切られた。


「お嬢さま」


 低い声が廊下の先から響いた。ヴァルシュタイン公爵家の筆頭執事、セバスチャンが佇んでいた。この場に父上が来ていないことが、すべてを物語っている。婚約破棄の噂は事前に父の耳にも届いていたはずだ。それでも来なかった。娘よりも、王家との政治的関係を秤にかけたのだろう。


 いつものことだ。父にとって私は、家門を繋ぐための駒でしかなかった。


「お迎えに上がりました。馬車の準備は整っております」


「……ありがとう、セバスチャン」


 彼の皺だらけの目に、わずかに光るものがあった。この老執事だけは、幼い頃から変わらず私の味方だった。母が亡くなった夜も、父に叱責された日も、いつもそっと温かい紅茶を差し出してくれた人だ。


「——それと、お嬢さま。申し上げにくいのですが」


「何」


「公爵家の馬車とは別に、もう一台。お嬢さまを訪ねて参った方がおられます」


 訪ねて? この夜に?


「どなた」


「名は明かされませんでした。ただ——」


 セバスチャンが言葉を選ぶように、一拍の間を置いた。


「その方は、こう申されました。『古き契約の継承者に、正式な招待状を届けに参った』と」


 古き契約。


 その言葉を聞いた瞬間、左手の甲がかすかに熱を持った。幼い頃から時折現れては消える、淡い金色の紋様。母が亡くなる前に一度だけ、震える声で言った言葉がよみがえる。


 ——いつか、その印が光る日が来たら、迎えが来ます。怖がらなくていい。あなたは、あなたが思っているよりもずっと大きな存在なのだから。


 母の言葉の意味を、私はずっと理解できなかった。けれど今、左手の紋様が五年ぶりに光を放ち始めている。


 セバスチャンに導かれ、学院の裏門へ向かう。


 月明かりの下、見慣れない漆黒の馬車が停まっていた。装飾は最小限だが、一目で常軌を逸した品質だとわかる。護衛らしき人影が二つ、馬車の左右に微動だにせず立っている。その佇まいは、王都の近衛騎士とは比較にならない錬度を感じさせた。


 馬車の扉に刻まれた紋章を見て、私は足を止めた。


 双頭の獅子に、黒い薔薇——。


 それは、大陸最強と謳われるヴェルザンド帝国の皇室紋章だった。


 そして帝国を率いるのは、若くして即位した皇帝。「死神」の異名を持つ、大陸で最も危険とされる男。


 馬車の窓の奥で、何かが微かに光った。


 ——私の左手の紋様と、同じ金色の光。


 背後で、学院の塔から舞踏会の楽の音がかすかに聞こえる。あの大広間では今頃、リオンがリリアーナの手を取って踊っているのだろう。私が五年間守り続けた場所で、私の存在などなかったかのように。


 けれど、もう振り返らない。


 私の物語は、今夜ここから始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ