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第10話「嵐の前の温もり」

 大祭まで五日。


 毎朝、古代神殿で浄化の練習を行う日々が続いていた。第二段階の制御は安定してきた。力の範囲を意識して絞り、消耗を最小限に抑える技術を、少しずつ身につけている。


 けれど、第三段階——力の定着には、まだ一度も触れていなかった。


 母が命を縮めた段階。カイが口にするたびに、表情が硬くなるあの段階。


 練習を終えて神殿を出ると、いつものようにカイが石段の下で待っていた。皇帝がわざわざ毎朝立ち会う必要はないはずなのに、一日も欠かさない。ルーカスが呆れ顔で「陛下の午前の公務が全部午後に押されています」と言っていたのを、マリーから聞いた。


「お疲れさまでした。体調は」


「大丈夫です。今日は制御がうまくいきました」


「……顔色が少し悪い」


 自分では気づかなかった。けれどカイの目は、私の些細な変化を見逃さない。


「練習の後は、管理院には寄らずに居室で休んでください」


「カイ。私は大丈夫です。管理院の月次報告が——」


「ゲルツ医師に任せてあります。あなたが作った報告書のテンプレートで、今月分は完成しています」


 また、先回りされた。けれど、それが嫌ではない自分がいる。


 王国では、私が休むと仕事が止まった。誰も代わりにやってくれなかった。ここでは——私が休める仕組みを、この人が作ってくれている。


「……わかりました。では、今日は休みます」


「それと」


 カイが少し間を置いた。


「今日の午後、図書院に寄りたいのですが。——もしよければ、一緒に」


 図書院。以前、私が「図書室が好きだ」と言った場所。あの時「覚えておきます」と言ってくれた。


「……いいのですか。陛下の公務は」


「午後は空けてあります」


 空けてある。皇帝が午後を空けるために、どれだけの予定を動かしたのだろう。


「ぜひ。行きたいです」


 自分の声が少し弾んでいるのがわかった。慌てて表情を戻す。けれどカイの口元が、ほんの少しだけ緩んだのが見えた。


   *


 帝国図書院は、想像以上の場所だった。


 三階建ての石造りの建物。高い天井から陽光が差し込み、埃が金色の粒子のように舞っている。壁一面の書架に、古今の文献が整然と並ぶ。


「……すごい」


 思わず声が出た。学院の図書室の十倍はある。古代語の文献だけで一区画を占めていた。


「好きなだけ見て回ってください。時間は気にしなくていい」


 カイがそう言って、自分は閲覧席に腰を下ろした。手元に書類を広げている。公務を持ち込んでいるらしい。


「……カイ。もしかして、ここで仕事をするつもりですか」


「ええ。執務室でも図書院でも、書類仕事は変わりません」


 つまり——私が図書院にいる間、隣で仕事をするということだ。見張りではない。送迎でもない。ただ、同じ空間にいてくれるだけ。


 五年間。リオンは一度も、私の好きな場所に付き合ってくれなかった。私が図書室にいるときはいつも一人だった。


 ここにいるカイは——何も強制しない。何も要求しない。ただ、同じ場所で、同じ時間を過ごしている。


 それだけのことが、胸の奥を温かくした。


 古代語の区画に入り、母の魔法書と同じ文字体系の文献を探す。三冊見つけた。一冊は古代浄化儀式の手順書。一冊は継承者の記録。そして三冊目——。


『契約の継承者と三つの試練:完本』


 手が震えた。母の魔法書では三つ目の試練が読めなかった。この本なら——。


 閲覧席に持ち帰り、頁をめくる。古代語の解読力が帝国に来てから格段に上がっている。以前は断片しか読めなかった文字列が、文章として流れるように理解できた。


 カイが隣の席で書類に目を落としている。時折ペンを走らせる乾いた音が、静かな図書院に心地よく響く。同じ空間で、別々のことをしている。なのに、一人ではない。この感覚が、こんなにも穏やかだなんて。


 ——リオンと同じ部屋にいたとき、私はいつも緊張していた。何を話せば機嫌を損ねないか。どう振る舞えば「小賢しい」と言われないか。あの五年間、同じ空間にいて安心したことは——一度もなかった。


 頁を追う手が止まった。


『第一の試練:薬——大地の傷を癒す知恵』

『第二の試練:浄化——大地の声を聞く力』

『第三の試練:——』


 三つ目の文字を追う。


『第三の試練:絆——信じる者と手を繋ぎ、力を分かち合うこと』


 絆。


 力を一人で抱え込むのではなく、信じる者と共有すること。それが第三の試練。


 母は——一人で第三段階を行い、命を縮めた。


「信じる者と手を繋ぐ」ことができなかったから。


 父は母の力を知らなかった。母は一人で儀式を行い、一人で力を使い果たした。信じて力を預けられる相手がいなかった。さらに数行先に、こう書かれていた。『継承者が守護者と手を取り合うとき、盟約は新たに結ばれる』——その意味を、まだ完全には理解できなかった。


 胸が痛んだ。母の孤独を、今になって理解した。


「何か見つかりましたか」


 カイの声が背後からした。いつの間にか、書類を置いてこちらを見ていた。


「……三つ目の試練のことが、書いてありました」


 私は本の内容を伝えた。薬。浄化。そして——絆。


 カイが黙って聞いていた。


「母は一人で第三段階を行って、命を縮めた。けれどこの本によれば——信じる者と力を共有すれば、負担は分散される。一人で背負う必要は、なかった」


 声が揺れた。


「母は……一人だったんです。力を預けられる人が、いなかった。父は母のことを何も知らなかった。母は孤独の中で——」


 言葉が詰まった。


 目の奥が熱い。泣くまいと思った。けれど、母の孤独を想うと——あの離れの棟で一人凍えていた夜の記憶が重なって——。


「エレノア」


 カイの声が、静かに名前を呼んだ。


 顔を上げると、紺色の瞳がまっすぐにこちらを向いていた。


「あなたは、一人ではありません」


 短い言葉だった。けれど、その声の温度が——。


「クラーラ様は、あなたが孤独にならないよう、私に託してくれた。帝国の盟約も、私の約束も、そのためにある。——けれど」


 カイが一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。


「今はもう、約束だけで立ち会っているのではありません」


 心臓が跳ねた。


「……どういう、意味ですか」


「そのままの意味です」


 カイが視線を逸らした。窓から差し込む午後の光が、その横顔を照らしている。耳の先が赤い。


「あなたの浄化に立ち会うのは、盟約の義務でも、皇帝の責任でもない。——私が、そうしたいからです」


 図書院の静寂が、二人の間に落ちた。


 本棚の向こうで、司書が足音を忍ばせて通り過ぎた。遠くで鳩が鳴いている。陽光の粒子が、ゆっくりと舞っている。


 この沈黙が——怖くない。


 むしろ、ずっとこのまま、この空間にいたいと思った。


 ……いけない。何を考えているの。


「……ありがとうございます」


 やっと絞り出した声は、自分でも聞いたことがないくらい小さかった。


 カイが小さく頷き、閲覧席に戻った。書類に目を落とすが——その目が文字を追っていないことに、私は気づいていた。


 マリーが後で言っていた。「図書院の司書さまが、陛下が書類を一頁もめくっていなかったと仰っていましたよ」と。


   *


 夕方。居室に戻ると、テーブルに小さな花瓶が置かれていた。


 白い花。見覚えがある。


 白百合だ。


 父が植え替えを命じた、母の花。王国ではもう抜かれてしまった花。


「マリー。この花は」


「ルーカスさまが届けてくださいました。陛下が、帝国の温室で育てていた品種だそうです。エレノアさまのお母さまが好きだった花と同じ種だと」


 カイが——母の好きな花を知っていた。そして、帝国の温室で育てていた。


 いつから。母が亡くなってから、ずっとだろうか。十年以上、この花を守り続けていたのだろうか。


 マリーが小声で付け加えた。


「温室の管理人さまが言っていたそうです。『陛下はこの花だけは絶対に枯らすなと、即位した日に命じられた』と」


 即位した日に。皇帝としての最初の命令の一つが、母の花を守ることだった。


 王国では父が壊した花壇。帝国では皇帝が——即位の日から守り続けていた花。


 涙がこぼれた。一滴だけ。頬を伝い、テーブルに落ちた。


「エレノアさま——」


「大丈夫。……嬉しいの。嬉しくて泣いてるの」


 嬉しくて泣く。そんな経験は、人生で初めてだった。


 白百合の花弁に触れた。柔らかく、冷たく、けれど生きている。


「……お母さま。あなたの花は、ここで咲いていました」


   *


 その夜、母の魔法書を開いた。


 古代語がますます鮮明になっている。今夜、新たに読めた一節。


『第三の試練において、継承者は信じる者の手を取り、共に祭壇に触れる。二人の意志が一つになったとき、力は定着し、大地は蘇る。——ただし、手を取る者もまた、対価を払う。契約の力の一端を、その身に受けることになる』


 対価。


 カイに力の一端が流れる。それが何を意味するのか——痛みなのか、消耗なのか、まだわからない。


 カイに頼んでいいのだろうか。皇帝に対価を負わせてまで。


 けれど——「私がそうしたいからです」と言った、あの声を思い出す。


 明日、カイに話そう。第三の試練のこと。対価のこと。すべてを伝えた上で——カイ自身に決めてもらおう。


 この人は、いつも私に選ばせてくれた。今度は私が、この人に選ばせる番だ。


 窓の外を見た。帝都の夜空に、満月が近づいている。あと五回、この月が昇れば——大祭だ。


 図書院で見つけた言葉を、もう一度心の中で繰り返す。


『信じる者と手を繋ぎ、力を分かち合うこと』


 信じる者。


 カイの顔が浮かんだ。紺色の瞳。「私がそうしたいからです」と言った声。書類を一頁もめくれなかった午後。白百合を十年守り続けた人。


 ……ああ、そうか。


 私は——この人を、信じている。


 もう、疑っていない。いつからかはわからない。けれど今、この瞬間——左手の紋様が、穏やかに、温かく光っている。恐れからではなく、安心から。


 扉を叩く音がした。ルーカスだった。


「エレノア嬢。夜分に申し訳ありません。——帝国の南部国境警備隊から緊急の報告が入りました」


「何が」


「王国の兵士が、国境近くに集結しているとのことです。数は約三百。正規軍の装備です」


 血の気が引いた。


「……王国が、帝国に」


「現時点では国境を越えてはいません。しかし——引き渡し要求を拒否された王太子が、軍事的威嚇に出た可能性があります」


 リオンが軍を動かした。


 引き渡しを拒否された腹いせに——あるいは、リリアーナの「呪い」の嘘を本気で信じて——武力で私を取り戻そうとしている。


 大祭まで、あと五日。浄化の儀を成功させなければならない日まで、あとわずか。


 そして——その五日間が、穏やかに過ぎるとは限らなくなった。


 白百合が、窓辺で静かに揺れていた。

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