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第11話「王国の三日間」

 大祭まで、あと三日。


 王城の執務室で、新宰相フェルディナント伯爵は窓の外を見ながら果物を食べていた。


「宰相閣下。至急のご報告が三件——」


「三件? 後にしてくれ。今朝はまだ朝食を終えていない」


 財務官ヘルムートは唇を噛んだ。ベルクハイム卿がいた頃は、朝の報告は七時に始まり、八時には対処の指示が出ていた。フェルディナントは十時になっても執務室に来ない日がある。


「閣下。一件目は帝国からの返書です。王国軍の国境集結について——」


「ああ、あれか。殿下の命令通り、兵を出しただけだろう。帝国が何か言ってきたのか」


「はい。帝国は王国軍の即時撤退を要求しています。撤退しない場合、帝国軍の国境配備を検討すると」


 フェルディナントが果物の種を皿に吐き出した。


「……帝国軍が出てくるのか?」


「はい。帝国の正規軍は王国の十倍の規模です。三百の兵で帝国を威嚇するのは——率直に申し上げて、蟻が象を脅すようなものです」


 フェルディナントの顔が青ざめた。この男にも、軍事力の差くらいはわかる。


「……殿下にお伝えしなければ」


「二件目があります。南部同盟のルドヴィク侯から、追加の書簡が届きました。条約凍結に加え、既存の交易ルートの通行料を三倍に引き上げると」


「三倍。なぜだ」


「侯の書簡によれば、『信頼の置けない国との取引には、相応の保険料が必要である』と」


 三倍の通行料。南部国境の交易はただでさえ凍結寸前だ。ここに通行料の大幅引き上げが加われば、商人たちは南部ルートを放棄する。王国の歳入はさらに落ち込む。


「三件目は」


「国庫の件です。不明支出が二十三件から——三十八件に増えました」


 フェルディナントが果物を置いた。食欲が失せたのだろう。


「……前の宰相は、なぜこれを放置して更迭されたんだ」


「放置ではありません。ベルクハイム卿はこの問題を殿下に三度報告し、三度退けられました。帳簿を管理していたのはエレノア嬢であり、あの方の分類体系を解読できる者がいないのです」


「エレノア? あの……追放された公爵令嬢か」


「はい」


 フェルディナントは黙り込んだ。この問題の根がどこにあるか、朧げにでも理解し始めたのだろう。しかし、理解することと対処できることは別だった。


「……殿下にご報告する。全部まとめて」


「宰相閣下。まとめて報告されても、殿下は個別の対処を——」


「余計なことは言うな。報告書を書け。私が持っていく」


 ヘルムートは深く頭を下げた。心の中で、ベルクハイム卿の名を呼んでいた。


 廊下に出ると、ヴァルシュタイン公爵が壁にもたれていた。


「ヘルムート。娘の——エレノアの帳簿の件だが」


 公爵の声は低く、疲弊していた。娘を離れに追いやり、花壇を壊し、使用人の前で勅令を読み上げさせた男の声とは思えないほど、消耗している。


「帝国から何か、あの子の分類体系について情報は得られないのか」


「公爵閣下。エレノア嬢は帝国で正式な客人として保護されています。殿下が引き渡し要求を出されたことで、帝国との接触は極めて困難に——」


「……わかっている」


 公爵が目を閉じた。その瞼の奥で、何を見ているのだろう。母の正体を知らされた日の衝撃が、まだ処理されていないのかもしれない。


 けれどヘルムートは知っている。この公爵が娘に何をしたか。離れに追いやり、白百合の花壇を壊し、勅令の場で一言も娘を庇わなかった。


 今更、帳簿の鍵を求めたところで——もう遅い。


   *


 ——その頃、私は帝国の古代神殿で、最後の練習を行っていた。


 第二段階の制御はもう安定している。浄化の範囲、力の強度、消耗の管理——すべてが、日を追うごとに洗練されていく。


 カイが石段の下で見守っている。毎朝。一日も欠かさず。


 練習を終えて降りると、温かい茶が用意されていた。カイが自分で淹れたらしい。ルーカスが「陛下が茶を淹れるなど前代未聞です」と小さく呟いていたが、私には聞こえなかったことにした。


「体調は」


「良好です。——カイ。第三の試練のことを、話させてください」


 カイの目が真剣になった。


 すべてを伝えた。絆の試練。信じる者と手を繋ぐこと。力を共有すること。そして——対価があること。


 カイは黙って聞いていた。最後まで、一度も遮らなかった。


「……引き受けます」


 即答だった。


「対価の内容は——」


「何であれ、構いません」


「でも——」


「エレノア」


 カイの紺色の瞳が、まっすぐに私を見た。


「あなたを一人にはしない。それだけです」


 胸の奥が、音を立てて震えた。


   *


 王国の神殿。


 大祭まで三日。リリアーナ・フォーセットは祭壇の前に立っていた。


 三度目の練習。結果は——同じだった。


 祭壇は沈黙している。光も、温かさも、何もない。手を置いても、詠唱しても、涙を流しても——石は冷たいままだ。


「……なぜ」


 リリアーナの声が、無人の神殿に響いた。


「なぜ、応えてくれないの」


 クレメント大司祭は、神殿の入口に立って見ていた。腕を組み、無言で。


 リリアーナが振り返った。涙を浮かべて——。


「大司祭さま。何か、方法はありませんか。祭壇が応えてくれるように——」


「フォーセット嬢。祭壇は聖女の力に応えるものです。力がなければ、応えません。方法の問題ではありません」


 冷たい言葉だった。大司祭の目にあるのは、同情ではなく——静かな確信だった。


 この娘に、聖女の力はない。


「大祭まで三日です。もし浄化が——」


「失敗すれば、聖女の資格は問い直されます。それは王太子殿下の判断ではなく、神殿の判断です」


 リリアーナの顔から、演技の涙が消えた。代わりに浮かんだのは、恐怖だった。


 聖女の資格を剥奪されれば、リオンの寵愛だけが頼りになる。けれどリオンの寵愛は「聖女」であるリリアーナに向けられている。聖女でなくなったリリアーナに、リオンはどう接するだろう。


「……わかりました。大祭では、必ず成功させます」


 嘘だった。成功する手段がないことを、リリアーナ自身が一番よく知っていた。


 神殿を出たリリアーナの目が、暗く光った。


 浄化ができないなら——大祭そのものを中止させるしかない。


「殿下に相談しなくちゃ。帝国が軍を動かすかもしれないって——大祭どころじゃないって」


 理由を作る。大祭を中止するための理由を。


 それが王国にとって何を意味するか——リリアーナは考えなかった。考える余裕が、もうなかった。


   *


 リオンの執務室。


 フェルディナントの報告を聞いたリオンは、苛立たしげにペンを机に叩きつけた。


「帝国が軍を出す? 余の三百の兵に対してか。それは脅しだ。無視すればいい」


「殿下。帝国の正規軍は——」


「黙れフェルディナント。お前は余に任命された宰相だ。余の判断に異を唱えるな」


 フェルディナントは口をつぐんだ。ベルクハイムなら三度は食い下がっただろう。この男には、それすらできない。


 そこへ、リリアーナが駆け込んできた。フェルディナントと一瞬だけ視線が交わり——すぐに逸れた。


「殿下。大変です。帝国が軍を動かすかもしれないと聞きました。こんなときに大祭なんて——」


「リリアーナ。お前が心配することではない」


「でも……もし大祭の最中に何か起きたら。いっそ、今年は大祭を延期したほうが——」


 大祭の延期。


 フェルディナントが思わず口を開いた。


「殿下、大祭は国の根幹です。延期すれば——」


「余が決める」


 リオンがリリアーナの肩を抱いた。


「リリアーナの安全が第一だ。大祭は——延期を検討する」


 フェルディナントの顔が蒼白になった。大祭を延期すれば、神殿の信頼は地に落ちる。領民の不安は爆発する。そして何より——延期したところで、リリアーナが浄化できるようになる見込みは、ゼロだ。


 問題を先送りにしているだけだ。けれどリオンにはそれが見えない。目の前の美しい涙しか見えない。


「……殿下。延期の場合、帝国の大祭は予定通り行われますが——」


「帝国が何をしようと余には関係ない」


「帝国の大祭では——追放されたエレノア嬢が、浄化の儀を執り行うとの情報があります」


 リオンの手が止まった。


「……あの女が? 浄化を?」


「はい。帝国の古代神殿の祭壇が、エレノア嬢に応答したと。帝国の大祭で浄化が成功すれば——」


「馬鹿な。あの女に浄化の力などあるはずがない」


 リオンの声が鋭かった。けれど、その目が——一瞬だけ、揺れた。


 揺れたのは、疑念ではなく恐怖だった。もし本当にあの女が浄化を成功させたなら——自分が切り捨てた判断の正しさが、根底から覆される。


「……大祭は、予定通り行う」


 リオンの声が変わった。低く、硬く。


「リリアーナ。浄化の儀は、お前がやれ」


 リリアーナの顔が凍りついた。


「で、殿下——」


「できるだろう。お前は聖女だ。余がそう認めた。余の判断は正しい。——正しいんだ」


 最後の一言は、リリアーナに向けたものではなかった。自分自身に言い聞かせていた。


   *


 ——帝国の居室で、マリーが淹れてくれたお茶を飲んでいた。


 窓辺の白百合が、静かに咲いている。帝国に来てから、この花は一度も枯れない。


 大祭まで三日。カイが対価を引き受けてくれた。「何であれ構わない」と。


 怖くないわけではない。母のことがある。第三段階の消耗。対価の内容。わからないことだらけだ。


 けれど——一人ではない。


 カイがいる。ルーカスがいる。ゲルツ医師がいる。マリーがいる。


 あの国では、ずっと一人だった。すべてを一人で抱え、一人でこなし、一人で耐えた。


 もう、そうではない。


 左手の紋様が、温かく光っている。恐れではなく——信頼の光だ。


   *


 大祭前日の夜。


 王城の回廊で、一人の老人がこっそりと荷物をまとめていた。


 更迭された前宰相、ベルクハイム卿だった。


 宰相の職を解かれてからも、彼は王城に留まっていた。王に仕えた四十年の忠誠が、簡単には断ち切れなかったからだ。


 けれど——もう限界だった。


 帳簿は崩壊した。外交は決裂した。軍は帝国の国境で膠着し、大祭は混乱の中で明日を迎えようとしている。新宰相は何もできず、王太子は何も見えず、偽聖女は何も持っていない。


「お嬢さん……あなたが正しかった」


 誰もいない廊下で、ベルクハイムは呟いた。


 荷物の中に、一冊の帳簿がある。エレノア嬢が管理していた帳簿の——唯一残っていた写し。彼女が更迭前に彼のもとに預けていたものだ。


「この帳簿は、あなたにお返ししなければ」


 老宰相の足は、帝国大使館の方角を向いていた。


 大祭まで、あと一日——。


 王国が何を失ったのか、理解している者はもうほとんどいない。


 けれどベルクハイムは知っている。そしてその知識を、正しい場所に届けるために——老いた足を、動かし始めた。

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