第12話「二つの祭壇」
大祭の朝は、晴れていた。
冬の終わりに差し込む朝陽が、帝都の石畳を金色に染めている。古代神殿の丘には、帝国中から集まった人々が道を埋めていた。
マリーが私のドレスの裾を整えてくれる。帝国式の白い祭服。金の刺繍が左手の紋様と同じ意匠で施されている。カイが用意してくれたものだ。
「エレノアさま。綺麗です」
「ありがとう、マリー」
鏡を見た。王国にいた頃の自分とは、別人のようだった。頬にはうっすらと血色が戻り、目の下の隈は消えている。何より——目が違う。怯えも、疲弊も、諦めもない。
これから私は、母が遺してくれた力を使う。信じる者と手を繋いで。
*
神殿の石段を上ると、カイが祭壇の前に立っていた。
黒い正装。帝国皇帝の礼服だ。普段の軍装とは違う、荘厳な装い。けれど紺色の瞳はいつもと同じ、静かな光をたたえている。
「準備はいいですか」
「はい」
周囲には帝国の高官たち、ルーカス、ゲルツ医師、そして帝国中から集まった領民たちが見守っている。南部駐屯地から回復した兵士たちの姿もあった。
カイが祭壇の前で私に向き直った。
「第三の試練——絆。信じる者と手を繋ぎ、力を分かち合う」
カイの右手が差し出された。
五年間。リオンに差し出された手は——命令の手だった。「こちらに来い」「従え」「黙って隣に立て」。
カイの手は違う。「一緒に」と言っている手だ。
私は左手を伸ばした。紋様が金色に輝いている。
カイの手が、私の手を包んだ。
温かかった。あの中庭で外套をかけてくれた夜と同じ温度。図書院で同じ空間にいた午後の安心と同じ。
指を絡めた瞬間——祭壇が応えた。
*
光が爆発した。
金色の光が祭壇から噴き上がり、神殿全体を包み込む。柱の紋様が一斉に浮かび上がり、千年分の刻印が呼応するように輝く。
私の左手からカイの右手へ、力が流れる。同時に——カイの中から、何かが返ってくる。力ではない。意志だ。「あなたを一人にはしない」という、一つの揺るぎない意志。
二人の意志が重なった瞬間、光が変わった。金色に、淡い青が混じる。カイの色だ。
大地の声が聞こえる。今日は練習のときよりも遥かに鮮明に。帝国の南部国境一帯の土壌が——五十年間抱えていた傷が——声を上げている。
「聞こえます」
私は目を閉じた。手のひらを通じて、祭壇に意志を流す。
癒したい。この大地を。痛んでいるすべてを。
光が丘を越えた。練習のときは半径一里だった範囲が——十里を超えて広がっていく。帝国の南部国境全体に、金色と青の波紋が拡がっていく。
枯れた冬の大地に、緑が芽吹いた。
真冬の丘に、草が生え、花が咲き始めている。五十年間毒に蝕まれていた土壌が——蘇っている。
観衆からどよめきが起きた。歓声が上がる。兵士たちが膝をつく。ゲルツ医師が口を押さえている。
帝都の街からも見えているだろう。丘の上から広がる金色の光が、冬枯れの大地を染め変えていく様を。人々が通りに出て空を見上げているのが、光の向こうにぼんやりと見えた。
力がカイと私の間を循環している。一人で背負えば命を縮める力が、二人の間を巡ることで——安定している。母が一人で行った儀式を、私はカイと二人で行っている。
母の声が聞こえた気がした。「前を向きなさい」と。泣いてもいいけれど、泣き終わったら前を向きなさいと。
お母さま。私は今、前を向いています。あなたが守りたかったものを、私は——一人ではなく、二人で守っています。
消耗はある。視界が少し揺れる。けれど、カイの手が私の手をしっかりと握っている。その確かさが、意識を繋ぎ止めてくれる。
「……もう少し」
「無理はしないで」
「大丈夫。——あなたがいるから」
光が収束していく。波紋が大地に染み込み、定着していく。第三段階——力の定着。母が命を縮めた段階。
けれど今、その力はカイと分かち合われている。私一人の力ではない。二人の力だ。
最後の一滴まで、力を祭壇に刻み込んだ。
光が消えた。
静寂が落ちた。
それから——大歓声が丘を揺るがした。
*
膝が崩れかけた。カイの腕が、私を支えた。前と同じように。けれど今回は、カイの顔にも疲労の色があった。対価だ。力の一端がカイの身にも流れた。
「……大丈夫ですか」
カイに聞いた。支えられている側が、支えている側を心配する。おかしな構図だった。
カイが小さく笑った。初めて見る——本当の笑顔だった。
「大丈夫です。——素晴らしかった」
二人とも立ち上がれないまま、祭壇の前に座り込んでいた。見た目は格好悪いだろう。帝国の皇帝と、浄化の儀を終えた継承者が、石の地面に並んで座っている。
ルーカスが駆け寄ってきた。報告を始めようとして——一度、口を閉じた。「死神」の側近と呼ばれる男が、言葉を失っていた。
「陛下。南部国境から速報が入りました。——土壌検査の結果、重金属汚染の数値が九割以上低下しています。水源も浄化されています。五十年間の汚染が——一度の儀式で」
九割。
ゲルツ医師が横で膝をついた。
「エレノア嬢。南部の薬草園が——冬なのに、芽を出し始めています。これは——奇跡としか」
奇跡ではない。母が遺してくれた力と、カイが差し出してくれた手と、私自身が十年かけて積み上げてきた薬学の知識。その三つが合わさった結果だ。
「奇跡ではありません。ただ、痛んでいた場所を——治しただけです」
自分でも驚くほど穏やかに、そう言えた。
*
同じ日の同じ時刻——王国では。
王国神殿の大広間は、大勢の貴族と領民で埋まっていた。大祭の浄化の儀。聖女リリアーナ・フォーセットが、祭壇の前に立っている。
白い法衣。金の髪飾り。完璧な聖女の装い。
リオンが壇上の玉座から見守っている。フェルディナントが隣に立ち、取り巻きの貴族たちが周囲を固める。
リリアーナは笑顔を作った。完璧な笑顔。何百回も練習した笑顔。
祭壇に手を置いた。
詠唱を始めた。
——何も起きなかった。
光も、温かさも、風も、何もない。
石は冷たいままだった。
大広間が、ざわめき始めた。
「……聖女様?」
「浄化の光が……」
「何も起きていないのでは……」
リリアーナの指が震えた。もう一度、詠唱を繰り返す。声が上ずっている。
何も起きない。
三度目。四度目。
祭壇は——沈黙したままだった。
『偽りの者が触れれば、祭壇は沈黙する』
母の魔法書に書かれていた言葉。その通りになった。
大広間のざわめきが、大きくなっていく。貴族たちが顔を見合わせる。クレメント大司祭が壇上に進み出た。
「……浄化の儀は、不成立です」
大司祭の声が、静かに大広間に響いた。
リオンが立ち上がった。
「待て。リリアーナはまだ——」
「殿下。祭壇は応答しませんでした。四度の試行で一度も。——これは聖女の力が存在しないことを意味します」
大広間が静まり返った。
リリアーナの顔から、すべての表情が消えた。涙を浮かべる余裕すら、もうなかった。
「そんな……私は聖女で……殿下がそう認めて——」
「殿下の認定ではなく、祭壇の応答が聖女の証です。フォーセット嬢。——あなたは、聖女ではありません」
クレメント大司祭の宣言が、王国の大祭の大広間に落ちた。
リオンの顔が蒼白になった。取り巻きの貴族たちが、一歩、二歩と後ずさりし始めている。
フェルディナントが壁際で震えている。取り巻きの令嬢たちが、リリアーナから目を逸らした。あの舞踏会の夜、リオンの隣で「聖女リリアーナ様」と称えていた者たちが——今は視線を合わせようとしない。
掲示鏡に、この場面が映されているだろう。伝書蝶が大広間の窓から飛び立っていく。今夜中に、王都中が知る。聖女は——偽物だったと。
「馬鹿な——馬鹿な——余が選んだのだ——余が——」
リオンの声は、もう誰にも届いていなかった。
あの夜。あの大広間で、リオンは言った。「エレノア・ヴァルシュタイン。お前との婚約を破棄する」と。「リリアーナは聖女だ」と。
その同じ大広間で、その聖女が——祭壇に拒まれた。
*
帝国の古代神殿で、カイと並んで座ったまま、丘の下に広がる緑を見ていた。
真冬に芽吹いた草。咲き始めた花。蘇った大地。
隣を見ると、カイの手がまだ私の手に触れていた。儀式が終わってからも——離していなかった。
どちらも、そのことに気づいていなかった。いや——気づいていて、離さなかったのかもしれない。
ルーカスが報告書を持ってきた。表情はいつもに戻っていたが、声はまだ少し硬かった。
「陛下。王国の大祭の速報が入りました」
カイが目を向けた。
「リリアーナ・フォーセット嬢の浄化の儀は——不成立。四度の試行で祭壇は一度も応答せず。クレメント大司祭が聖女の資格不在を公式に宣言。——王太子リオン殿下は、退場されたとのことです」
退場。
あの大広間から——リオンが、退場した。
私があの大広間から退場した夜と、同じように。
怒りはなかった。悲しみも。ただ——胸の奥に、静かな痛みがあった。五年間の記憶が、遠い夢のように浮かんでは消える。
「……そうですか」
それだけ言った。
カイが私の顔を見た。何かを探るように。
「……怨みませんね。あなたは」
「怨んでも、何も戻りません。それよりも——」
丘の下に広がる緑を見た。蘇った大地。これから育つ薬草。救われる命。
「これからのことを、考えたいです」
カイが頷いた。繋いだままの手に、力がこもった。
「……エレノア。一つ、伝えたいことがあります」
「はい」
「大祭が終わった今——帝国として、あなたに正式な地位を用意したいと考えています。客人ではなく。帝国の一員として」
心臓が跳ねた。
「それは——」
「詳しくは明日。今日は——休んでください。あなたは十分すぎるほど、力を尽くしました」
カイが立ち上がり、私に手を差し出した。立ち上がるための手。
その手を取った。
もう迷わなかった。
——その夜。帝国の南部国境で、王国軍三百が撤退を開始した。大祭の浄化を成功させた帝国と事を構えることの愚を、現場指揮官が独断で判断したのだ。
リオンの命令を待たずに。
もう——王太子の命令に従う者は、減り始めていた。




