第13話「帰ってきた帳簿」
大祭の翌朝。
目を覚ますと、体が鉛のように重かった。昨日の浄化で消耗した力が、まだ回復しきっていない。
けれど——左手の紋様は穏やかに光っている。温かく、安定した光。力を使い切ったのではない。分かち合ったから、こうして安定しているのだ。カイと。
マリーが朝食を運んできた。温かいスープと柔らかいパン。それに——蜂蜜の焼き菓子。
「カイ陛下からです。『体力を回復するために甘いものを多めに』と」
もう何度目だろう。けれど毎回、同じように胸が温かくなる。この人は忘れない。小さなことを、ずっと覚えていてくれる。
いつもの焼き菓子。母が砂糖壺を独占した話で笑った日から、毎日欠かさず届けてくれる。
窓の外を見た。帝都の街並みの向こうに、南部の丘陵地帯が見える。昨日まで枯れ野だったそこが——今朝は、うっすらと緑に覆われていた。真冬の緑。浄化が定着した証拠だ。
「エレノアさま。朝から帝都中が大騒ぎです。南部国境の商人が、水源が澄んだって。薬草園の芽が出たって。帝都の掲示鏡にも昨日の浄化の映像が映っていて——」
マリーの報告を聞きながら、焼き菓子を齧った。甘い。
報われた、と思った。
王国で五年間、誰にも見えない場所で積み上げてきた仕事。帳簿を整え、薬を作り、外交の草案を書き、リオンの失策を覆い隠し——そのすべてが無視された。
ここでは違う。私がやったことが、目に見える形で大地に刻まれた。
*
午前中、カイの執務室に呼ばれた。
「体調は」
「まだ少し疲れていますが、大丈夫です」
「無理をしないでください。——今日は、昨日お話しした件の詳細を」
カイが書類を一枚、机の上に広げた。帝国皇帝の署名入りの正式な文書だ。
「エレノア・ヴァルシュタイン嬢を、帝国薬草管理院の総監督官に任命する。加えて——帝国古代魔導研究所の顧問として、浄化の儀の継続的な管理を委嘱する。身分は帝国の正式な官吏とし、それに見合う俸給、住居、身分保障を付与する」
総監督官。顧問。正式な官吏。
「これは——客人としての待遇ではなく」
「はい。帝国の一員としての地位です。あなたの能力と実績に基づく、正当な任命です」
正当な任命。
五年間、リオンの婚約者として働いた仕事に、正式な肩書きは一つもなかった。俸給もなかった。功績はすべてリオンの名前で処理された。
ここでは——私の名前で。私の仕事として。正式に認められる。
「……受けさせていただきます」
声が震えた。けれど今度は、嬉しさの震えだった。
五年間。名前のない仕事。肩書きのない労働。功績のない献身。
今日、初めて——私の名前が、正式な文書に刻まれる。私の仕事が、私の仕事として認められる。
カイが頷いた。その表情がいつもより柔らかい。昨日、祭壇の前で見せた本当の笑顔の余韻が、まだ残っているようだった。
「それと——もう一つ」
カイが言いかけたとき、扉が叩かれた。ルーカスだった。表情が緊張している。
「陛下。帝国大使館経由で、荷物が届きました。——王国の前宰相、ベルクハイム卿からです」
カイとルーカスが目を見合わせた。
「中身は」
「帳簿です。一冊。——エレノア嬢が王国で管理していた国庫帳簿の写しだそうです」
「南部同盟との仲裁を引き受けた以上、王国の財務状況の把握は帝国にとっても必要です。——渡りに船かと」
*
その帳簿を手に取った瞬間、指先が記憶を蘇らせた。
自分の字だ。自分の分類体系。十年かけて作り上げた管理方式。
「……ベルクハイム卿が」
「大祭の前夜に、帝国大使館に持ち込んだようです。添え書きがあります」
ルーカスが一枚の便箋を差し出した。
『エレノア嬢。この帳簿は、あなたがお預けくださった写しです。王国では誰もこれを読めず、国庫は崩壊しつつあります。この帳簿が正しい場所に届くことを願い、老いた手でお届けいたします。——あなたを守れなかったことを、深くお詫び申し上げます。ベルクハイム』
喉の奥が熱くなった。
あの老宰相が——四十年の忠誠を捨てて、この帳簿を届けてくれた。
「エレノア嬢。この帳簿の内容を確認していただけますか」
カイの声が静かだった。
「もちろんです」
帳簿を開いた。私の分類体系。収入と支出を季節・地域・目的別に三次元で管理する方式。一見すると複雑に見えるが、規則を知っていれば一目で全体像がつかめる。
頁をめくる。指が止まった。
「……ここです」
「何が見えますか」
「国庫の支出に、記録されていない流出があります。私が管理していた時代にはなかった項目が——婚約破棄の後に追加されています」
さらに頁を追う。月ごとの変動。季節ごとの傾向。異常値の発生パターン。私の分類体系では、正常な支出と異常な支出が色分けのように浮かび上がる。五年間毎日この帳簿と向き合ってきた目には、違和感が即座に見えた。
「十二件。いえ——ここも不自然です。十四件。合計で——」
数字を追う。暗算する。五年間帳簿を管理してきた頭が、自動的に計算を始める。ゲルツ医師が横から覗き込んでいたが、計算の速さに口をつぐんだ。
「国庫の一割相当が、不明な出先に流れています。宛先は記載されていますが、この組織名には見覚えがありません。『南部復興援助会』『聖女基金』——私が在任中には存在しなかった項目です。おそらく——」
「架空の組織、ですか」
ルーカスが鋭い目で言った。
「断定はできません。けれど、私が管理していた頃にこの名前は存在しませんでした。婚約破棄の後に誰かが帳簿に手を加えた可能性があります」
カイが帳簿を覗き込んだ。肩が近い。紺色の瞳が、数字の列を追っている。
「……これを読み解けるのは、あなただけですか」
「私の分類体系は、独自のものです。王国の財務官は三人がかりで一週間かけても解読できなかったと聞いています」
カイの目がわずかに細くなった。
「つまり——あなたを追放したことで、王国は帳簿を読める唯一の人間を失い、国庫の不正を発見する手段も失った」
「……そうなります」
王国にいた頃は気づかなかった。私が作った分類体系そのものが——私を守る盾になっていたことに。誰にも読めない帳簿は、誰にも改竄できない帳簿だった。私がいる限り、不正は不可能だった。
私がいなくなった途端——誰かが手を加えた。
「この帳簿の写しがあれば、不正の全容を明らかにできます。時間をいただければ、分析してお渡しします」
「お願いします。——ただし」
カイが一歩引いた。
「今日は休んでください。帳簿の分析は明日以降で構いません。昨日の消耗が残っているはずです」
「でも——」
「エレノア」
名前を呼ばれて、言葉が止まった。カイの声が、いつもより少しだけ低い。
「あなたはいつも、自分より仕事を優先する。それは美点だけれど——時には、自分を大切にしてほしい」
リオンは「黙って働け」と言った。父は「結果を出せ」と言った。
この人は——「自分を大切にしてほしい」と言う。
「……わかりました。今日は休みます」
「それと」
カイが一瞬、何かを言いかけて——止めた。口を開き、閉じ、それからもう一度開く。
「……いえ。明日、話します」
ルーカスが背後で、ごく小さくため息をついた。何か知っている顔だった。
*
居室に戻り、帳簿を机に置いた。
この帳簿は、私の五年間そのものだ。毎月の収支を記録し、不整合を見つけ、修正案を作り、リオンの名前で提出する。誰にも気づかれず、誰にも感謝されず、ただ正確に管理し続けた五年間。
王国では——その仕事は「誰にでもできる」と言われた。
帝国では——「あなたにしかできない」と言われている。
同じ仕事なのに。違うのは、見る目を持つ人がいるかどうかだけだ。
ベルクハイムの添え書きをもう一度読んだ。『あなたを守れなかったことを、深くお詫び申し上げます』。
あの老宰相は、五年間ずっと見ていてくれたのだろう。私の仕事を。私の価値を。けれど、リオンの下では声を上げることができなかった。
今、ようやく——その声を、帳簿という形で届けてくれた。
「……ありがとうございます、ベルクハイム卿」
呟いた声は、小さかった。けれど、確かだった。
窓の外を見た。緑の丘が夕陽に染まっている。あの緑は、私とカイが蘇らせたものだ。
マリーがお茶を運んできた。
「エレノアさま。帝都の薬草商組合から、正式な取引依頼が届いています。浄化のおかげで南部の薬草が急速に回復しているそうで、品質管理の指導をお願いしたいと」
「……私に」
「はい。組合の会長さまが『この薬草を扱える方は、エレノア嬢をおいて他にいない』と」
また一つ、私の仕事が増える。嬉しい重さだった。
五年間、一人で背負い続けた重さとは——まったく、違う種類の重さだ。
*
その夜。
母の魔法書を開いた。大祭の浄化を終えた今、古代語はほぼ完全に読めるようになっている。
最後の頁。母の筆跡の下に、今まで読めなかった一文が浮かび上がった。
『三つの試練を越えた継承者よ。あなたは今、すべての力の器となった。けれど、力だけでは世界は変わらない。——あなたを必要とする者と共に歩みなさい。それが、母からの最後の願いです』
あなたを必要とする者と共に歩みなさい。
カイの顔が浮かんだ。
紺色の瞳。「もう一つ」と言いかけて止めた口。ルーカスのため息。
……まさか。
心臓が、大きく跳ねた。
そのとき、窓の外で伝書蝶が光った。マリーが受け取り、目を通す。
「エレノアさま。王国から——公式の書簡だそうです。宛先は帝国皇帝陛下ですが、内容はエレノアさまに関するもので——」
「内容は」
「国王陛下が——リオン殿下を王太子位から廃する手続きを開始したとのことです」
廃太子。
リオンが——王太子でなくなる。
あの舞踏会の大広間で「お前との婚約を破棄する」と言った男が、今度は自分自身が——王家から切り離される。
怒りはなかった。喜びも。ただ、胸の奥にあるのは——深い疲労感に似た、静かな感慨だった。
五年間。私はあの人の隣で、必死に国を支えていた。あの人が壊すものを修繕し、あの人が見落とすものを拾い、あの人が踏みにじるものを守っていた。
それがもう——必要なくなった。
窓辺の白百合が、夜風に静かに揺れていた。
因果は——巡る。




