第14話「もう一つのこと」
翌朝。カイの執務室に呼ばれた。
いつもの朝の報告——のはずだった。けれど、執務室に入った瞬間、空気が違った。
ルーカスがいない。
カイが一人で、窓際に立っていた。朝陽が差し込む執務室。机の上には書類がない。代わりに、二人分の茶器が並んでいた。
「……おはようございます」
「おはようございます。——座ってください」
向かい合って座った。カイが茶を注ぐ。皇帝が自分で茶を注ぐなど、と以前なら驚いただろう。けれどもう驚かない。この人は、こういう人だ。
「体調は」
「もう大丈夫です。昨日は——焼き菓子、ありがとうございました」
「……覚えていましたか」
「毎日届けてくださっているのに、忘れるわけがありません」
カイの手が、一瞬だけ止まった。茶杯を持つ指先が、わずかに強張る。
沈黙が落ちた。
この沈黙は——いつもの心地よい沈黙とは少し違った。カイの横顔に、見慣れない緊張があった。
「カイ。今日は——昨日の『もう一つ』を、聞いてもいいですか」
カイが私を見た。紺色の瞳に、覚悟のような光があった。
「……はい。話します」
茶杯を置いた。姿勢を正す。皇帝の顔ではなく、一人の人間の顔だった。
「エレノア。帝国に来てから、あなたは薬草管理院を立て直し、南部の疫病を解決し、浄化の儀を成功させました。帝国にとって、あなたは——掛け替えのない存在です」
「……ありがとうございます」
「けれど今日、話したいのは帝国のことではありません」
カイが一拍、間を置いた。
「私個人の——話です」
心臓が跳ねた。
「あなたが帝国に来たのは、盟約があったからです。クラーラ様との約束を果たすために、私はあなたを迎えに行った。最初は——それだけのつもりでした」
「……はい」
「けれど、あなたと過ごすうちに、盟約とは関係のない感情が——生まれました」
カイの声が、わずかに震えた。「死神」の異名を持つ皇帝の声が。
「図書院であなたが古代語の文献を夢中で読んでいるとき。薬草管理院で働きすぎて顔色が悪くなっているとき。南部の領民のために仲裁を提案してくれたとき。——あなたのことを考えない日が、なくなりました」
胸の奥が、音を立てて震えた。
「これは盟約の義務ではありません。皇帝の責任でもない。——私自身の感情です」
カイがまっすぐに私を見た。紺色の瞳が、揺れていた。強い人の、強い覚悟の揺れだった。
「エレノア。私は——あなたを、一人の女性として、大切に思っています」
——ああ。
やっぱり、そうだったんだ。
図書院で書類を一頁もめくれなかったこと。毎朝の焼き菓子。白百合を十年守り続けたこと。祭壇の前で手を繋いでくれたこと。「もっと笑えるようになるといい」と言ってくれたこと。
全部——全部、そういうことだったのだ。
涙が——出そうになった。嬉しさではない。怖さでもない。ただ、胸の奥に溜まっていたものが、一気にほどけていく感覚。五年間、誰にも大切にされなかった自分が——この人に、こんなふうに見てもらえていた。
「ただし」
カイが付け加えた。
「返事は急ぎません。あなたが望まないなら、今まで通りの関係を続けます。この感情があなたの負担になるなら——」
「カイ」
私の声が、カイの言葉を遮った。自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「私も——同じです」
カイの目が、見開かれた。
「いつからかはわかりません。中庭で外套をかけてくれた夜かもしれない。図書院で隣にいてくれた午後かもしれない。祭壇であなたの手を握った瞬間かもしれない。——けれど、今は、はっきりわかります」
声が震えた。けれど止まらなかった。
「あなたがいてくれるから、私はここにいられます。あなたが見てくれるから、私は自分の力を信じられます。——それは信頼だけでは説明がつかないと、もう、わかっています」
沈黙が落ちた。
朝陽が窓から差し込んで、二人の間の空気を金色に染めている。
カイが——笑った。大祭の日の、あの本当の笑顔。けれど今日のほうが——もっと、柔らかい。
「……ありがとうございます」
カイの声が震えていた。「死神」が。大陸最強の皇帝が。母の花を十年守り続けた人が。書類を一頁もめくれなかった人が。
「けれど一つ、条件があります」
私は言った。
カイが少し驚いた顔をした。
「あなたが好きだから——仕事をやめたり、甘えてばかりいたりはしません。薬草管理院の総監督官として、古代魔導研究所の顧問として、やるべきことがあります。私は——あなたの隣に立つなら、対等でいたい」
リオンの隣では、影だった。従順に微笑み、功績を譲り、自分を消していた。
もう、二度とそうはならない。
カイが、ゆっくりと頷いた。
「……それは、私が最も望んでいた答えです」
短い沈黙。窓の外で鳩が鳴いた。
「では——改めて。これからも、よろしくお願いします」
カイが右手を差し出した。大祭の日と同じ手。けれど今日のこの手は、盟約でも儀式でもない。
私は——その手を取った。
温かかった。いつもと同じ温度。けれど今日は——手のひらの感触が、全身に広がるように感じた。
扉の向こうから、ごく小さな歓声が聞こえた気がした。給仕の侍女だろうか。盗み聞きしていたのかもしれない。
……まあ、いいか。
*
執務室を出ると、廊下でルーカスが待っていた。いつもの無表情——のはずだが、口元がわずかに緩んでいる。
「……ルーカス。聞いていたでしょう」
「何のことでしょう。私はただ、廊下の点検を——」
「嘘が下手ですね」
ルーカスが咳払いをした。
「エレノア嬢。——一つだけ、申し上げてもよろしいですか」
「何ですか」
「陛下がご自分で菓子を選ばれた日から、こうなると思っておりました」
私は——笑った。声を上げて。帝国に来てから二度目の、本当の笑い。
*
午後。帳簿の分析に取りかかった。
カイへの感情が確かになったからといって、仕事は止まらない。むしろ——心が安定したことで、集中力が増していた。
帳簿の不正支出14件。架空組織「南部復興援助会」「聖女基金」への流出。
一件ずつ追う。日付。金額。承認者のサイン。
「……これは」
承認者の欄に、同じ名前が繰り返し出ている。フェルディナント伯爵——現宰相。そしてもう一つの名前。
リリアーナ・フォーセット。
「聖女基金」の受取人がリリアーナだった。聖女の名目で国庫から金を引き出し、個人の口座に流していた。
リリアーナは——ただの偽聖女ではなかった。国庫から横領していたのだ。聖女の仮面の裏で、国の金を私腹に流していた。あの計算高い瞳。あの完璧な涙。すべて——金のためだったのか。
「カイ。これを見てください」
カイを呼んだ。帳簿の該当箇所を示す。
カイの目が、鋭くなった。
「……フォーセット嬢が、国庫から直接引き出している」
「はい。聖女基金は架空です。この金はリリアーナ嬢個人に流れています。フェルディナント伯爵が承認者として署名しているということは——新宰相も共犯です」
カイが帳簿を閉じた。
「この証拠を、王国に——」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「王国に渡しても、握り潰されるだけです。フェルディナントが宰相である限り。この帳簿は——然るべきタイミングで、然るべき相手に渡すべきです」
「然るべき相手とは」
「国王陛下です。廃太子の手続きが進んでいるなら、国王は息子の失政の全容を知りたいはず。帳簿の不正がリリアーナとフェルディナントに繋がることが判明すれば——」
「王太子を庇う理由が、国王にもなくなる」
カイが静かに言った。
「賢明な判断です。——あなたに相談してよかった」
「……ありがとうございます。でも」
少し迷った。けれど、言うべきことだった。
「この帳簿の証拠を使って、リオンを断罪することは——私からは求めません。帳簿は事実を示すだけです。それをどう使うかは、王国の問題です」
カイが私を見た。長い視線だった。
「……あなたは、本当に——怨みでは動かないのですね」
「怨みで動けば、あの人たちと同じになります」
リオンは怨みと嫉妬で私を断罪した。リリアーナは計算と欲で国庫を食い荒らした。
私は——そうはならない。
カイが小さく頷いた。その紺色の瞳に浮かんでいるのは、敬意だった。
「帳簿は預かります。国王への提出は、廃太子の手続きと合わせて——最も効果的なタイミングで」
「お任せします」
*
夕方。居室の窓辺に座り、白百合を眺めていた。
今日、この人生で初めて——誰かに「好きだ」と言った。誰かから「大切だ」と言われた。
リオンとの婚約には、愛の告白はなかった。政略で決まり、義務で維持し、一方的に破棄された。五年間の関係に、「好き」という言葉は一度も交わされなかった。
今日、カイと交わした言葉は——全部、本物だった。
マリーがお茶を持ってきた。
「エレノアさま。今日はなんだか——お顔が違いますね」
「……そう?」
「はい。柔らかいです。とっても」
頬が熱くなった。
「マリー。あの……カイ陛下と——」
「聞きました。ルーカスさまから。——おめでとうございます、エレノアさま」
マリーの目に涙が浮かんでいた。この子は、いつも私のために泣いてくれる。悲しいときも、嬉しいときも。
「ありがとう、マリー。ここまで来られたのは——あなたがいてくれたからよ」
マリーが私の手を握った。あの離れの棟から、ずっと一緒にいてくれた手。
窓の外で、夕陽が緑の丘を照らしている。真冬に芽吹いた緑。私とカイが蘇らせた大地。
穏やかな夕暮れだった。
——その静けさを破ったのは、ルーカスの足音だった。
「エレノア嬢。——王国のヴァルシュタイン公爵から、陛下宛てに書簡が届きました」
父からの書簡。
「内容は——エレノア嬢に、王国への帰還を求めるものです。理由は——」
ルーカスが一拍、間を置いた。
「『娘の名誉回復のため、公爵家として正式に王国に迎え戻したい』と」
名誉回復。
今更。
花壇を壊し、離れに追いやり、勅令の場で一言も庇わなかった父が——今になって。
けれど動揺はなかった。もう、あの人に揺さぶられる自分はいない。
「……お断りします。私の居場所は、ここです」
静かに、けれど確かに——そう言い切れる自分がいた。




