第15話「沈みゆく船の上で」
王国の王城に、朝の鐘が鳴る。
廃太子の通告を受けてから三日。リオン・レグルスは執務室の玉座に深く腰かけ、目の前に積まれた書類の山を睨んでいた。
「——馬鹿げている」
誰もいない部屋で、低く吐き捨てた。
父王が廃太子の手続きを開始した。大祭での浄化の失敗、南部同盟との条約決裂、帝国への引き渡し要求——すべてが積み重なった結果だと、使者は告げた。
だが、余は間違っていない。
リリアーナは聖女だ。余がそう見出した。あの浄化の儀で祭壇が応えなかったのは——祭壇が古いからだ。整備を怠った神殿の責任だ。
南部交渉の決裂は宰相の怠慢だ。ベルクハイムが余の方針を妨害したから失敗した。フェルディナントに代えたのは正しい判断だった。
帝国がエレノアを囲っているのは、余の国力を削ぐための政治工作に過ぎない。あの女に大した価値はない。帝国は見る目がないのだ。
何一つ、余の過ちではない。
扉が叩かれた。フェルディナント伯爵——現宰相が、蒼白な顔で入ってきた。
「殿下。至急のご報告が——五件あります」
「五件。朝から五件も持ってくるな。重要なものだけにしろ」
「すべて重要です」
フェルディナントの声が微かに震えていた。以前のベルクハイムなら、この程度の報告で動じることはなかった。この男は違う。何を報告するにも顔が青い。
「一件目。国庫の件です。不明支出が三十八件から——五十一件に増えました」
「まだ合わないのか。帳簿が読めないなら新しく作り直せ」
「作り直しを試みていますが、過去の記録との整合が取れず——そもそも、エレノア嬢の分類体系が——」
「あの女の名前を出すな」
フェルディナントが口をつぐんだ。
五十一件の不明支出。その中に、自分が署名した「聖女基金」の支出が含まれていることを、フェルディナントは知っている。帳簿が読み解かれたら——自分の首が飛ぶ。
だから「読み解けない」ほうが都合がいい。
「二件目。南部国境の交易路ですが、通行料の三倍引き上げに加え、ルドヴィク侯が新たに——」
「南部はもういい。別の交易ルートを探せ」
「別のルートは存在しません。南部同盟を経由しない交易路は——」
「ないなら作れ。それが宰相の仕事だろう」
フェルディナントは一瞬、唇を噛んだ。交易路を「作る」。道路も宿場も関所もない山岳地帯に。それが物理的に不可能だということすら、この王太子は理解していない。
「三件目。王立薬局の在庫が限界です。先月から調合担当が三人辞めました。エレノア嬢の処方を再現できる者が——」
「また、あの女か」
リオンがテーブルを叩いた。茶杯が倒れ、琥珀色の液体が書類の山に染みた。
「聞くたびにあの女の名前が出るのはなぜだ。一人の女が抜けた程度で回らない国など、最初から脆弱だっただけだ。余のせいではない」
フェルディナントは濡れた書類を黙って拾い上げた。
一人の女が抜けた程度で——その「程度」が、帳簿と外交と薬局と浄化の儀と、国庫の管理を同時に担っていたのだということを、この男は知らない。知ろうとしない。
「四件目と五件目は——後ほどでよいですか」
「持ってくるな。余は今から父上に書簡を書く。廃太子の撤回を求める」
フェルディナントが退出した。
廊下に出た瞬間、冷たい汗が背中を伝った。廃太子の手続きが進めば、自分が承認した「聖女基金」の不正が調査対象になる。宰相の地位を失えば、証拠を隠す手段もなくなる。
——逃げるべきか。
その考えが頭をよぎったとき、廊下の向こうからリリアーナが歩いてきた。白い法衣はまだ着ている。大祭の後、大司祭から聖女の資格剥奪を言い渡されたが、リオンの命令で法衣だけは残されている。
「フェルディナント様。少しよろしいですか」
リリアーナの声は健気だった。王太子の前と同じ声。けれどその目は——冷たかった。
「……何でしょう」
「聖女基金の帳簿。あの帳簿の写しが、どこかに流出していないか確認していただけませんか」
フェルディナントの喉が鳴った。
「なぜ——そんなことを」
「ベルクハイム卿が王城を去った夜、帳簿を持ち出したという噂を聞きました。もし外部に渡っていたら——」
リリアーナの目が、フェルディナントを射抜いた。
「私たち二人とも、終わりです」
*
——その頃、私は帝国の薬草管理院で、新しい品質管理基準の最終案をゲルツ医師に説明していた。
「この基準を導入すれば、帝国全土の薬草の品質がさらに二割向上します。王国の南部領で実証済みの手法を——」
「エレノア嬢。これは帝国の医学史に残る改革ですよ」
ゲルツ医師が真剣な顔で言った。一ヶ月前、私を「令嬢に何ができる」と見ていた人の目が、今は同僚に——いや、指導者に向ける目になっている。
午後、カイが管理院を訪ねてきた。公務の合間だろう。
「進み具合は」
「順調です。来週には帝国全土の管理院に通達できます」
カイが頷いた。その横顔を見ると——まだ、少し照れくさい。告白から数日しか経っていないのだ。
「エレノア。——夕食を、一緒にどうかと思って」
皇帝が、食事の誘いに来た。わざわざ管理院まで。ゲルツ医師が聞こえないふりをしているのがわかる。
「……喜んで」
声が少し上ずったことは、気づかなかったことにしてもらおう。
*
王城の神殿。
クレメント大司祭は、祭壇の前で腕を組んでいた。
大祭で浄化が不成立となってから、神殿への参拝者が三割減った。領民の間に「聖女が偽物ではないか」という疑念が広がっている。
大司祭のもとには、各地の神官からの報告が積み上がっていた。浄化されなかった祭壇の前で祈りを捧げても効果がない、と訴える信者が増えている。
「——大司祭」
神官の一人が駆け込んできた。
「王太子殿下からの布告です。大祭の浄化は『成功した』と公式記録を修正するよう、命じておられます」
クレメントの眉が跳ね上がった。
「成功——あの場にいた全員が見ていた。祭壇は一度も光らなかった。それを成功と記録しろと?」
「殿下の仰せでは、『祭壇が応答しなかったのは整備不良が原因であり、リリアーナ嬢の力は問題ない。よって記録上は浄化成功とする』と」
大司祭の目が、静かに鋭くなった。
「……承れません。神殿の記録は事実に基づくものです。王太子の命令であっても、虚偽の記録は残せません」
神官が困惑した顔で退出した。
残された大司祭は、祭壇に手を置いた。冷たい石。大祭の日、リリアーナが何度触れても応えなかった石。
「——帝国では、祭壇が応えたそうだな」
呟いた。帝国の大祭で、追放された公爵令嬢が浄化を成功させた話は、もう大陸中に広まっている。真冬に大地が緑に覆われた奇跡。
大司祭は四十年間、この祭壇に仕えてきた。祭壇が応える声を、かつて一度だけ聞いたことがある。先代の継承者——クラーラ・ヴァルシュタインが浄化の儀を行った日だ。
あのときと同じ血が、帝国にいる。
そして王太子は、その事実を記録から消そうとしている。
*
リオンの書斎。
父王への書簡を書き終えたリオンは、封蝋を押しながらリリアーナを傍らに呼んだ。
「リリアーナ。心配するな。父上は余の言い分を聞けば、廃太子など撤回する」
「殿下……でも、大祭のことが——」
「大祭は神殿の不備だ。余はすでに記録の修正を命じた。公式には浄化は成功だ。問題ない」
リリアーナは頷いた。完璧な健気さで。
けれど——目の奥で、別の計算が走っていた。
廃太子が成立すれば、リオンは王子ですらなくなる。リオンの庇護がなくなれば、聖女基金の横領は隠し通せない。
「殿下。もし万が一、廃太子が覆らなかった場合——」
「覆らないということはない。余は王太子だ」
「ですが——」
「リリアーナ。余を信じろ。余はこの国の王になる男だ」
その言葉を聞いて、リリアーナの指先がかすかに震えた。
この男は——もう、王になれない。大祭の失敗も、南部交渉の決裂も、帝国との外交破綻も、すべてが廃太子の根拠として積み上がっている。
信じろ、と言われても——信じたところで、沈む船が浮かぶわけではない。
「……はい。信じています、殿下」
完璧な笑顔を作った。これが最後になるかもしれない笑顔を。
*
翌日。
リオンの書簡を受け取った国王——アルベルト三世は、老いた目でその文面を読み、静かにため息をついた。
「廃太子を撤回せよ、か」
隣に控えた王妃——リオンの母が、目を伏せたまま言った。
「陛下。あの子はまだ——」
「わかっている。だが、事実は動かせない」
国王は机の上に、別の書類を広げた。帝国経由で届いた報告書。南部国境の汚染浄化の記録。帝国の大祭で、追放したはずの公爵令嬢が千年に一度の浄化を成功させた詳細。
その隣に、ルドヴィク侯からの書簡。『条約の再開条件として、エレノア・ヴァルシュタイン嬢の復帰、またはそれに準ずる誠意を求める』。
さらにその隣に、各地の神殿からの報告。浄化不成立による信仰の動揺。参拝者の減少。
そして——今朝、クレメント大司祭から届いた密書。
『王太子殿下が、大祭の浄化記録を「成功」に改竄するよう命じてこられました。神殿はこの命令を拒否いたしました。あわせて、浄化の儀の前にリリアーナ嬢が祭具の配置を変更し、光の演出で浄化を偽装しようとした事実もご報告申し上げます』
国王は書簡を置いた。
「記録の改竄命令。浄化の偽装未遂。——これだけでも十分だが」
国王の視線が、机の端にもう一通、未開封の封書に移った。帝国皇帝カイ・ヴェルザンドからの親書。この朝、帝国大使が直接持参したものだ。
まだ開けていない。けれど——何が書かれているか、想像はついていた。
「調査官を出す。帳簿を含めて——王太子の在任中のすべてを洗い直す」
王妃の目から、涙がこぼれた。
*
——帝国の居室で、窓辺の白百合に水をやっていた。
ルーカスが報告書を持ってきた。
「エレノア嬢。帝国大使から連絡がありました。先ほど、陛下の親書を王国の国王に届けたとのことです」
「親書の内容は」
「帳簿の不正に関する概要と、エレノア嬢の分析結果の要約です。証拠の原本は、国王が正式に調査を開始した段階で提出する手筈になっています」
カイが、約束通り最適なタイミングを選んでくれた。廃太子の手続きと同時に証拠を届ける。国王が息子を庇う余地を、静かに、確実に塞いでいく。
「それと、もう一つ」
ルーカスの声が、わずかに柔らかくなった。
「ルドヴィク侯から返信がありました。帝国の仲裁を受け入れる用意がある、と。ただし条件があります」
「条件は」
「『交渉の席には、エレノア嬢に同席していただきたい』と」
三年間の書簡で築いた信頼が、まだ生きている。私の名前を覚えていてくれる人が——この大陸には、まだいる。
「……喜んでお受けします」
白百合が、朝の光を受けて静かに揺れていた。
*
王城の夜。
フェルディナントは自室で荷物をまとめていた。
最低限の金貨と着替え。宰相の印章は机に置いた。もう必要ない。
「明朝の馬車で——南部の港町まで行けば、そこから船で——」
呟きながら、手が止まった。
扉の外に——足音がした。一つではない。複数。
扉が開いた。立っていたのは、王城の近衛騎士三人と、その後ろに——灰色の外套を纏った男。
「宰相フェルディナント伯爵。国王陛下の命により、国庫帳簿に関する調査へのご協力をお願いいたします」
調査官だった。
フェルディナントの膝が、かくんと折れた。
「ま、待ってくれ——私は宰相だ。宰相に対してこのような——」
「国王陛下の勅命です。宰相の職位は、本日付で停止されました」
机の上に、開封されないまま残された五件目の報告書。ヘルムートが朝、持ってこようとした五件目。
それは——国王による調査官派遣の事前通知だった。
フェルディナントは、それを読まないまま、「持ってくるな」と言ったのだ。
*
同じ夜。
リリアーナ・フォーセットの私室に、取り巻きの令嬢が一人、駆け込んできた。
「リリアーナ様。大変です。フェルディナント伯爵が、調査官に——」
リリアーナの顔から、すべての色が消えた。
「……連行された?」
「いえ、まだ調査への協力を——ですが、帳簿を調べると——」
聖女基金。フェルディナントが署名した支出。リリアーナの名前が記された受取帳。
すべてが——繋がる。
「私の荷物を」
「え?」
「今夜中に、ここを出る。殿下には——」
リリアーナは一瞬、考えた。リオンに告げるか。告げれば、リオンは引き留めるだろう。「余が守る」と。けれど——沈む船の甲板で「守る」と言われても、溺れるだけだ。
「殿下には何も言わないで」
取り巻きの令嬢の目が、大きく見開かれた。
「リリアーナ様——殿下を置いて——」
「殿下のそばにいても、もう何も守れない。——あなたも逃げなさい」
冷たい声だった。計算し尽くされた涙も、健気な微笑みも、もう必要ない。仮面を脱いだリリアーナの目は——ただ、追い詰められた獣の目だった。
あの舞踏会の夜、エレノアの婚約を破棄させたとき。リリアーナはすべてが計画通りだと思っていた。邪魔な婚約者を排除し、王太子の寵愛を独占し、聖女の座から国庫の金を引き出す。完璧な計画だった——はずだった。
排除した相手が、自分よりも遥かに大きな存在だったことに気づいたのは、いつだっただろう。
祭壇が沈黙したとき。帳簿が読めないと知ったとき。帝国の皇帝があの女を迎えに来たとき。
——最初から、勝てる相手ではなかったのだ。
荷物をまとめる手が震えた。金貨と宝飾品を詰め込む。聖女の法衣は——脱ぎ捨てた。
けれどリリアーナは知らない。
王城の正門には、すでに国王の命で近衛騎士が配置されていることを。
城内の全員に——退去禁止令が出ていることを。
*
そしてリオンは——まだ、書斎にいた。
父王への書簡を書き直していた。三通目だ。「廃太子を撤回せよ」。言葉を変え、理由を変え、けれど中身は同じだった。自分は悪くない。すべて周囲の怠慢だ。
「フェルディナント。明朝、この書簡を——」
呼んでも、返事がない。
「フェルディナント!」
いない。宰相がいない。
廊下に出た。薄暗い回廊に、人の気配がなかった。
「誰かいないのか!」
声が反響した。石の壁に跳ね返り、空しく消えた。
ようやく一人の侍従が、おそるおそる近づいてきた。
「殿下。フェルディナント伯爵は——調査官と共におられます」
「調査官だと? 誰の命令だ」
「国王陛下の勅命です」
リオンの顔が歪んだ。
「父上が——余の宰相を——」
侍従が目を逸らした。言わなければならないことが、もう一つあった。
「殿下。リリアーナ嬢ですが——私室から、姿が見えなくなっています」
静寂が、夜の王城に落ちた。
宰相が調査官に拘束され、聖女が姿を消した夜。
リオンは一人、薄暗い廊下に立ちすくんでいた。
この廊下を——かつて、エレノアが一人で歩いていたことを、リオンは知らない。婚約破棄の夜、百を超える視線を背中に受けながら、涙も出ないまま、この石畳を踏んでいたことを。
あのとき、一人で大広間を去ったのはエレノアだった。
そして今——一人で残されたのは、リオンだった。
翌朝。国王の調査官が、リオンの執務室の扉を叩いた。




