第16話「獣の牙は、もう折れている」
調査官の名は、グレゴール・ハイゼンベルクと言った。
灰色の外套。白髪混じりの短髪。表情は鉄のように動かない。三十年間、王家の不正調査を専門としてきた男だ。
翌朝——リオンの執務室の扉を開けたとき、返事はなかった。
リオンは玉座に座っていた。一晩、そこから動いていない。目の下に隈があり、髪は乱れている。けれど目は——まだ怒りに燃えていた。
「余は王太子だ。調査官ごときが、余の許可なく入室することは許されない」
「国王陛下の勅命は、王太子殿下の許可に優先いたします」
グレゴールは一礼もしなかった。
「父上は——余を試しているのだ。宰相を拘束し、余の覚悟を見ている。この調査に堂々と応じれば、廃太子は撤回される」
試されている。リオンは本気でそう信じていた。父は厳しいが公正な王だ。息子の覚悟を確かめたいのだ。そう信じなければ——自分が何の上に立っているのかわからなくなる。
「帳簿の保管場所をお教えください」
「聞いているのか。余は——」
「殿下。勅命です」
声は低く、平坦で、容赦がなかった。王太子の感情にも弁明にも、一切の関心がない声だ。
リオンは生まれて初めて、自分の言葉が何の力も持たない場所に立たされていた。
*
帳簿は地下書庫の奥に押し込まれていた。フェルディナントが「新しく作り直す」という名目で、旧帳簿を隠したのだ。エレノアが五年かけて組み上げた分類体系は、フェルディナントには読めなかった。読めないものは——奥にしまうしかなかった。
三十分後、帳簿を持ち帰ったグレゴールが頁をめくった。
「殿下。この帳簿に記された『聖女基金』について、ご説明を」
「リリアーナの活動を支えるための正当な支出だ。余が認可した」
「認可の根拠となる文書は」
「余が認可した。それが根拠だ」
グレゴールの目が、一瞬だけ細くなった。三十年のうちに何百人もの汚職官吏を裁いてきた男が、王太子に同じ台詞を聞いている。「余が認可した。それが根拠だ」。これは法的根拠ではない。ただの思い上がりだ。
「聖女基金の支出は四十七件。総額は国庫歳入の約一割に相当します。支出先の大半が確認不能。受取帳にはリリアーナ嬢の署名がありますが、使途報告が一件もありません」
国庫の一割。その数字が、ようやくリオンの耳に届いた。リリアーナが必要だと言ったから、余が許可した。何に使ったかは知らない。聖女の活動に必要だと言ったのだから、必要だったのだろう。
「殿下。認可印は支出の内容を確認した上で押されたものですか」
「……当然だ」
「では、内容をご存じですね」
沈黙が落ちた。知らない。何一つ知らない。リリアーナが「必要です」と微笑み、余が「わかった」と頷き、印を押した。それだけだ。中身を見たことは一度もない。
「……聖女が必要だと言ったのだ。余が一つ一つ確認する必要はない。それは信頼というものだ」
「国庫の一割を、使途確認なしに支出したことを、信頼とお呼びですか」
グレゴールの声に感情はなかった。だからこそ——刃のように正確だった。
*
同じ頃、別の審問室。
フェルディナントの顔は昨夜より更に白かった。逃亡に失敗し、宰相の印章は机に置いてきた。肩書きを失った男の顔は、ただの中年の伯爵だった。
「私は——殿下の命令で署名しただけです」
「命令書はありますか」
「口頭での指示でした」
「四十七件すべてが口頭指示ですか」
補佐官が書類を一枚、机に置いた。
「聖女基金から『祈りの祭具購入』名目で支出された三百金貨。同日に、リリアーナ嬢の私室に高級宝飾品が届けられた記録が商人ギルドの台帳にあります。同様の一致が十四件」
フェルディナントの目が泳いだ。商人ギルドの台帳。エレノアが管理していた帳簿とは別の帳簿。外部の記録。自分たちの手が届かない場所に、証拠が残っていた。
「……すべてを話します」
フェルディナントは——崩れた。
「リリアーナ嬢が基金の設立を殿下に提案しました。殿下は即座に認可された。金の使途はリリアーナ嬢が決定し、私が署名しました。使途の確認は——一度もしていません。殿下も、私も」
「ベルクハイム前宰相はこの基金を知っていましたか」
「知りませんでした。エレノア嬢が婚約破棄で王城を追われた後、帳簿の管理者が不在になりました。その空白期に設立されたのです」
「エレノア嬢の帳簿体系は、なぜ引き継がれなかったのですか」
フェルディナントは長く息を吐いた。
「殿下が——エレノア嬢の名前を出すことを禁じておられたからです。あの方のやり方を参照することも、記録を使うことも、許されませんでした」
引き継ぎを禁じた。
帳簿を作った人間の名を口にすることすら禁じた。だから帳簿は読めなくなり、読めない帳簿の裏で不正が行われ、不正を隠す必要すらなかった——誰も、元の帳簿を見ることができなかったのだから。
その一言が、国庫の混乱と不正の隠蔽を——完全に説明した。
審問室の外で、財務官ヘルムートが控えていた。補佐官に呼ばれ、帳簿の現状について証言を求められた。
「エレノア嬢が管理されていた頃の帳簿は——完璧でした。月末の収支報告は翌日に完成し、不明支出は一件もありませんでした。あの方が去られた後、私どもは帳簿を読むことすらできなくなりました」
「なぜですか」
「分類体系が高度すぎたのです。いえ——正確には、あの方の能力が高すぎたのです。帝国が正式に官吏として迎え入れたと聞いて、私は驚きませんでした」
補佐官の記録の筆が走った。国庫を一人で管理していた女性を追い出し、その名前を口にすることすら禁じた王太子。その空白を利用して国庫の金を吸い上げた偽聖女。署名だけを求められ、中身を見なかった宰相。
三人の愚行が、帳簿という一本の糸で繋がっている。
*
——帝国の管理院で、最後の通達書に署名を終えた。
帝国全土の薬草管理院五十二拠点に、私が作った品質管理基準が届く。
「エレノア嬢。これで帝国の薬草管理は、向こう十年の基盤が整います」
ゲルツ医師が深々と頭を下げた。一ヶ月前、「令嬢に何ができる」と渋い顔をしていた人が、今は同僚の目で見てくれる。
王国では、私が五年かけて作った帳簿を、誰も読めなくなっていた。ここでは——私が作った基準が、十年先まで生きる。
管理院を出ると、ルーカスが報告書を持って待っていた。
「国王から正式に調査開始の通知がありました。帳簿原本の提出を要請しています。陛下がすでに段取りをつけておられます——帝国の正式な外交文書として、原本の写しを引き渡す形式です」
分析者として。告発者ではなく。予定通りだった。怨みではなく、事実として。
中庭でカイが待っていた。また、わざわざ迎えに来ている。
「帳簿を分析したとき——辛くはなかったか」
五年間、毎日合わせた数字。眠れない夜も、誰にも認められない朝も、あの数字の中に染み込んでいた。それを——聖女基金という架空の箱で、誰かが吸い上げていた。
「辛くはありませんでした。ただ——数字が嘘をついているのが、我慢できなかった」
カイが、ほんの少しだけ笑った。「あなたらしい」
五年間。リオンは一度も「よくやった」とは言わなかった。カイは——一言で、報われる。
*
夕刻。リリアーナが動いた。
逃亡を封じられた一晩で、筋書きを組み上げていた。聖女基金はリオンが設立を命じた。金の使途もリオンが承認した。ならば——全部リオンの責任にできる。
泥船が沈むなら——その船体を掴んで、自分だけでも浮かぶ。
国王の間に通された。法衣を脱いだリリアーナを、近衛騎士は「どなた様でしょうか」と呼んだ。聖女の衣を纏わないリリアーナは——ただの男爵令嬢だった。
「陛下。聖女基金の金は——すべて殿下のご指示で使われました。私は受け取りの署名をしただけです。金がどこへ行ったのか——私は存じません」
計算された震え声。計算された目の伏せ方。あの舞踏会の夜、エレノアの前で見せた健気さと同じ技術だった。
だが国王は静かに言った。
「聖女基金の支出と同日に、お前の私室に宝飾品が届けられた記録が十四件ある。商人ギルドの台帳に残っている」
リリアーナの表情が凍った。
「クレメント大司祭からも報告を受けた。大祭の浄化の儀で、お前は祭具の配置を変え、光の演出で浄化を偽装しようとした。浄化は四度試み、四度とも祭壇は応えなかった」
「それは——祭壇が古くて——」
「先代の継承者——クラーラ・ヴァルシュタインが浄化を行ったときは、応えた」
エレノアの母の名が出た瞬間、リリアーナの顔から最後の色が消えた。
「聖女でもない者が聖女の名を騙り、国庫から金を引き出していた。——余にはもう、お前を庇う理由がない」
近衛騎士に引き立てられ、国王の間を出た。
計算が、すべて崩れていた。商人ギルドの台帳。大司祭の密書。帝国からの親書。すべてが——嘘を剥がすために、静かに、確実に揃えられていた。リリアーナが知らないうちに。リリアーナの手が届かない場所で。
あの舞踏会でエレノアの婚約を破棄させたとき、リリアーナはすべてが手に入ると思った。王太子の寵愛。聖女の座。国庫の金。そしてすべてを手に入れた。
手に入れたものの一つ一つが——エレノアという土台の上に乗っていたのだと、ようやく気づいた。帳簿も外交も薬もエレノアが支えていた。エレノアがいたから国が回り、国が回っていたから寵愛に価値があった。
土台を抜いた。そして——すべてが崩れた。
廊下を歩く足が、重かった。客間に戻るしかない。逃げることもできない。リオンを盾にすることもできない。計算で生きてきたリリアーナの計算が、初めて——何も弾き出さなかった。
*
夜。
リオンは監視の騎士の目を盗み、リリアーナの私室に向かった。
誰もいなかった。衣装棚が開け放たれ、宝飾品の箱は空になっている。聖女の法衣が——床に踏みつけるように落ちていた。
あの法衣を着せたのは余だ。大司祭が資格を取り消しても、余が「着ていろ」と命じた。それを——脱ぎ捨てた。踏みつけて。
リリアーナが自分を見捨てたのだと、リオンは初めて理解した。
「では——何のために、余はエレノアを捨てたのだ」
その問いが、初めてリオンの頭をかすめた。
だが——認めるわけにはいかない。認めたら、自分がしたことのすべてが、取り返しのつかない過ちだったことになる。エレノアを追い出した。ベルクハイムを更迭した。リリアーナを聖女にした。帳簿を禁じた。記録を改竄しようとした。一つ一つが、自分の手で積み上げた瓦礫だったと認めたら——。
リオンは走った。国王の間の扉を叩いた。
「父上! すべてはリリアーナが——いや、フェルディナントが——いや、エレノアの帳簿が複雑すぎたのです! あの女がまともな引き継ぎをしなかったから——」
叫びながら、リオンは自分でも気づいていなかった。責任の矛先が、一文ごとに別の人間に向かっていることを。リリアーナが悪い。いや、フェルディナントだ。いや、エレノアだ。誰かが悪い。自分以外の誰かが。
最後まで——他人のせいだった。
扉の向こうから、国王の声が漏れた。重く、疲れ果てた声だった。
「……リオン。明日の朝、調査官から中間報告を聞く。——今夜は、部屋に戻りなさい」
父の声は怒りではなかった。悲しみだった。
息子が最後の最後まで、自分の過ちを認められないことへの——悲しみだった。
その意味を、リオンは理解できなかった。
*
翌朝。王城で三つのことが静かに起きた。
一つ。クレメント大司祭が正式に調査への協力を申し出た。大祭の偽装未遂。記録改竄命令の拒否。四度の浄化失敗。すべてを公的に証言し、最後にこう述べた。
「帝国の大祭で浄化を成した継承者が——エレノア・ヴァルシュタイン嬢であることを、神殿は認めます」
二つ。調査官グレゴールが中間報告書をまとめ終えた。フェルディナントの自供調書。商人ギルドの台帳の写し。大司祭の証言記録。ヘルムートの帳簿証言。リオンの事情聴取記録。すべてが、一つの結論を指している。
国王はその報告書を受け取り、長い間、窓の外を見ていた。
王妃が隣に立っていた。涙はもう枯れていた。
「陛下……あの子は……」
「……余の息子だ。それは変わらない。だが——王太子ではいられない。もはや、庇う手段がない」
国王の手の中に、帝国皇帝カイからの親書があった。帳簿不正の概要と、エレノア・ヴァルシュタイン嬢による分析結果の要約。帝国が——わざわざ証拠を揃えて送ってきた。それは善意ではない。外交だ。王国の不正を知っていますよ、という静かな圧力だ。
そして三つ。帝国大使の馬車が、王国の王城に向けて出発した。
鞄の中には——エレノアが五年間つけ続けた帳簿の原本写しと、分析報告書が入っていた。エレノアの帳簿と聖女基金の支出を照合すれば——金がどこから抜かれ、誰の手に渡り、何に消えたかが、一目でわかる。
エレノアの帳簿は嘘をつかない。五年間、一度も。
リオンは暗い部屋で壁に背をつけたまま、呟いていた。
「……余は——王になるはずだった」
その声を、もう誰も聞いていなかった。
そしてリオンはまだ知らない。帝国の馬車が、あと二日で王城に届くことを。その馬車の中に——自分が「あの程度の女」と呼んだ人間が五年間積み上げた、一行の狂いもない数字が眠っていることを。




