第17話「数字は嘘をつかない」
二日後の朝、帝国大使の馬車が王城の正門をくぐった。
近衛騎士が敬礼する中、大使は灰色の鞄を一つだけ持っていた。中身は帳簿の原本写し五年分と、エレノア・ヴァルシュタイン嬢による分析報告書一通。
調査官グレゴールが正門で受け取った。鞄を開き、最初の頁をめくり——手を止めた。
三十年間、帳簿を見てきた男の目が、わずかに見開かれた。
分類の精度。記載の正確さ。月ごとの収支の整合。五年分の数字が、一行の狂いもなく並んでいる。
「……これを、一人で」
大使が頷いた。
「エレノア嬢が王城で管理されていた帳簿の原本です。帝国の公文書として正式に引き渡します」
グレゴールは帳簿を審問室に持ち帰り、中間報告書に添付された聖女基金の支出記録と照合を始めた。
三十分で終わった。
エレノアの帳簿には、聖女基金の支出が一件も記載されていなかった。当然だ。基金はエレノアが追放された後に設立された。エレノアの帳簿体系の外側に、まったく別の支出経路が作られていた。
だからこそ——エレノアの帳簿と突き合わせれば、何が「正規の支出」で何が「不正な追加」かが一目でわかる。
グレゴールは国庫帳簿の該当箇所に赤い印をつけていった。一件。二件。三件。聖女基金の四十七件すべてに、赤い印がついた。
財務官ヘルムートが隣で立ち会っていた。エレノアの帳簿を見た瞬間、その目が赤くなった。
「……エレノア嬢の字だ。この帳簿は——間違いなく、あの方のものです」
ヘルムートの指が、帳簿の頁を撫でるように触れた。
「毎月の月末に、この字で報告書が上がってきました。翌朝には必ず完成していた。あの方が何時に寝ていたのか——私は一度も聞いたことがありません」
「ヘルムート殿。この帳簿が使われていた期間中に、不明支出はありましたか」
「一件もありません。五年間——一件も。この帳簿がある限り、金貨は一枚たりとも行方不明にはなりませんでした」
グレゴールが報告書の最終頁にペンを走らせた。
『帝国より提出されたエレノア・ヴァルシュタイン嬢の帳簿原本と、国庫帳簿を照合した結果、聖女基金関連の四十七件はすべて同嬢の退去後に追加された不正支出であることが確認された。同嬢の管理期間中に不明支出は一件も存在しない。——調査官グレゴール・ハイゼンベルク』
*
——帝国の朝は、穏やかだった。
カイと中庭で朝食を取っていた。白百合が朝露に濡れている。
「帳簿は——届いた頃でしょうか」
「ああ。今朝には届いている」
カイが茶杯を置いた。
「あの帳簿を見れば、王国は何が起きていたか理解する。——あなたが何をしていたかも」
五年間。毎朝、毎晩、数字を合わせ続けた。誰にも感謝されず、誰にも見られず。でもあの数字は——嘘をつかない。私が何をしていたか、数字が語ってくれる。
「怖くはないか」
「いいえ。——数字は正しい場所に戻るだけですから」
カイが私を見た。短い沈黙の後、静かに言った。
「あなたが帝国に来てくれて——よかった」
その言葉の奥にあるものを、私はもう知っている。
*
正午。
国王アルベルト三世は、謁見の間にリオンを呼び出した。
広い部屋に、人は少なかった。国王と王妃。調査官グレゴール。近衛騎士四名。そして——クレメント大司祭。
リオンは二日間、自室に閉じ込められていた。髪は乱れ、顎には無精髭が生えている。けれどその目は——まだ、折れていなかった。
「父上。余を呼んだのは——廃太子の撤回ですか」
国王の目が、一瞬だけ閉じた。息子がまだ、撤回を信じている。
「リオン。今朝、帝国から帳簿が届いた」
「帳簿?」
「エレノア・ヴァルシュタイン嬢が五年間管理していた国庫帳簿の原本だ」
リオンの眉が跳ねた。
「なぜ帝国にあの女の帳簿が——」
「ベルクハイム前宰相が、退任前に写しを持ち出していた。それが帝国に渡り、エレノア嬢自身が分析した」
国王がグレゴールに目配せした。調査官が帳簿の束を机に広げた。
「殿下。こちらがエレノア嬢の帳簿です。五年間の国庫収支が記録されています」
リオンは帳簿を見た。
見慣れない——いや、見たことのない文字が並んでいた。整然とした筆跡。月ごとの区切り。勘定科目ごとの集計。欄外に書き込まれた注釈。
これが——エレノアの帳簿。
「この帳簿と、殿下の在任中の国庫帳簿を照合しました」
グレゴールが赤い印のついた帳簿を開いた。
「聖女基金の四十七件は、すべてエレノア嬢の退去後に追加された支出です。エレノア嬢の管理期間中に、不明支出は一件もありません」
リオンの目が、赤い印の列を追った。一件、二件、三件——四十七件。すべてに赤い印がついている。すべてが、エレノアがいなくなった後に生まれた穴だった。
「殿下がエレノア嬢の帳簿体系の引き継ぎを禁じた結果、新たな管理体制は構築されませんでした。その空白期に聖女基金が設立され、使途確認のないまま国庫歳入の一割が流出しました」
グレゴールの声は鉄のように平坦だった。
「フェルディナント伯爵は全面的に自供しています。商人ギルドの台帳は、聖女基金の支出と同日にリリアーナ嬢への宝飾品購入が十四件一致していることを示しています。クレメント大司祭は、浄化の偽装未遂と記録改竄命令を公的に証言しています」
証拠が、一つずつ積み上がった。帳簿。自供調書。商人ギルドの台帳。大司祭の証言。ヘルムートの証言。リオン自身の事情聴取記録。
六つの証拠。六つの異なる出所。六つが、すべて同じ結論を指していた。
クレメント大司祭が一歩前に出た。
「陛下。神殿として申し上げます。大祭の浄化の儀において、リリアーナ嬢は祭具の配置を変え、光の演出で浄化を偽装しようとしました。四度の試行すべてにおいて、祭壇は応えませんでした。聖女の力は——存在しません」
大司祭の声が、謁見の間に重く響いた。
「一方、帝国の大祭において、エレノア・ヴァルシュタイン嬢は大地の浄化を成し遂げました。神殿は、エレノア嬢を正統な継承者と認めております」
リオンの目が大きく見開かれた。エレノアが。あの——「大した価値はない」と言った女が。
「……違う」
リオンが呟いた。
「エレノアの帳簿が複雑すぎたのだ。あの女がまともな引き継ぎをしなかったから——」
「リオン」
国王の声が、静かに遮った。
「エレノア嬢は引き継ぎをしなかったのではない。お前が、引き継ぎを禁じたのだ。エレノア嬢の名前を口にすることすら許さなかった。——フェルディナントが証言している」
リオンの唇が震えた。
「あれは——あの女の名前を聞きたくなかっただけだ。帳簿とは関係ない」
「関係がある。引き継ぎを禁じたから帳簿は読めなくなり、読めない帳簿の裏で不正が行われた。すべてはお前の命令から始まっている」
リオンの顔から、色が消えた。
父王の声には怒りがなかった。裁定者の声だった。息子に向ける声ではなく——罪人に向ける声だった。
「リオン・レグルス。国庫管理の職務怠慢、聖女基金四十七件の無確認認可、公的記録の改竄命令、浄化の儀の偽装への関与。以上の罪状に基づき——王太子の位を剥奪する」
廃太子。
その言葉が、謁見の間に落ちた。王妃が目を伏せた。涙はもう枯れていた。
「王族の身分を停止し、王城北塔への幽閉を命じる。最終的な量刑は、帝国との外交協議および貴族議会の審議を経て決定する」
北塔。あそこは——罪を犯した王族が収容される場所だ。窓が一つしかない石の部屋。侍従も側仕えもいない。
リオンの膝が——折れた。
「父上——余は——余は悪くない——」
「リオン」
国王が、初めて声を震わせた。
「お前が捨てたのは——一人の女ではない。この国の帳簿と、外交と、薬と、神殿の信頼と、南部同盟との条約だ。エレノア嬢がこの五年間で積み上げたものを、お前はすべて捨てた」
国王がエレノアの帳簿を持ち上げた。五年分の厚み。一頁一頁に、エレノアの筆跡が刻まれている。
「この帳簿を見ろ。五年間、一行の狂いもない。——お前が『あの程度の女』と呼んだ人間の仕事だ」
リオンの目が、帳簿の頁に吸い寄せられた。
エレノアの筆跡。細く、正確で、迷いがない。毎月の収支。季節ごとの調整。外交関連の支出に添えられた注釈。薬草の仕入れ価格の比較表。
五年分。一日も欠けることなく。
「……これを——あの女が」
声が、かすれた。
「一人で?」
答えは帳簿の中にあった。すべての頁に、同じ筆跡。他の手は一つも入っていない。五年間、一人で、国庫のすべてを管理していた。
リオンの中で——何かが、軋んだ。
認めたくない。認めたら——自分がしたことのすべてが、取り返しのつかない過ちだったことになる。
だが帳簿は——嘘をつかない。
*
リリアーナが連行された。
近衛騎士に両腕を持たれ、謁見の間に引き立てられた。法衣はない。化粧も崩れている。男爵令嬢の、素の顔だった。
国王が罪状を読み上げた。
「リリアーナ・フォーセット。聖女の名を詐称し、聖女基金を通じて国庫から横領を行った罪。商人ギルドの台帳により、聖女基金の支出と同日の宝飾品購入が十四件確認されている。クレメント大司祭の証言により、浄化の儀の偽装未遂が確認されている。フェルディナント伯爵の自供により、基金の設立提案と使途決定がお前の主導であったことが確認されている」
リリアーナは——最後の賭けに出た。
「陛下。すべては殿下が——」
「殿下に責任がないとは言っていない。だが、お前に責任がないとも言っていない」
国王の目が、リリアーナを見据えた。
「聖女でもない者が聖女の名を騙り、国庫の金を私的に流用した。これは王太子の命令とは無関係の犯罪だ。殿下がいくら愚かでも——お前の手が金を受け取り、お前の署名が受取帳に残っている」
リリアーナの計算が、今度こそ完全に停止した。
リオンのせいにもできない。フェルディナントはすでに自供している。商人ギルドの台帳は外部の記録で改竄不能。大司祭の証言は神殿の公式見解。
すべての出口が——塞がれていた。
「リリアーナ・フォーセットの処分については、王国法に基づき後日正式に決定する。それまで城内の拘束を継続する」
リリアーナの足から力が抜けた。近衛騎士に支えられ——いや、引きずられるようにして、謁見の間を出た。
あの舞踏会の夜、同じ広間で、エレノアは一人で歩いて出ていった。百を超える視線を背中に受けながら。涙も出ないまま。誰にも支えられずに。
今——支えなしでは歩けないのは、リリアーナのほうだった。
*
リオンは——まだ床に膝をついていた。
帳簿が目の前にある。エレノアの筆跡が、頁の隅々にまで刻まれている。
五年間、一日も休まずに。誰にも感謝されずに。
「……余は」
呟きかけて、止まった。
認めるか。認めないか。この帳簿を見て——まだ「余は悪くない」と言えるか。
リオンの手が、帳簿の頁に触れた。
エレノアの字。冬の収支報告。欄外に、薬草の仕入れ先が変わった理由が三行で書かれていた。南部の道路が凍結したため迂回路を使い、輸送費が上がった。しかし品質を落とさないために、仕入れ先を変えずに予算を組み替えた。
こんな細部まで——一人で。
「殿下。北塔へ」
近衛騎士の声が聞こえた。
リオンは立ち上がった。帳簿から手を離すとき——指先が、最後の頁に触れた。
エレノアが王城を去った月の、最後の記録。収支が完璧に合っている。最終行の下に、余白がある。
余白だけが残っていた。エレノアが去った後、この帳簿に書き込む者は——もう、いなかった。
リオンは近衛騎士に連れられ、謁見の間を出た。
北塔への廊下を歩きながら——振り返らなかった。振り返れば、帳簿が見える。帳簿を見れば、数字が見える。数字を見れば——。
自分が何を捨てたか、認めなければならなくなる。
だからリオンは、まだ——振り返らなかった。
*
——その夜。
帝国の居室で、窓辺の白百合に水をやっていた。
ルーカスが扉を叩いた。
「エレノア嬢。王国の大使館から、書簡が届きました」
差出人を見た。
『王国国王アルベルト三世より、エレノア・ヴァルシュタイン嬢へ』
国王から——私に。
封蝋は王家の紋章。正式な書簡だ。
手が、わずかに震えた。怒りではない。恐れでもない。
五年間、数字を合わせ続けた手。帳簿を閉じることなく、毎日、毎日書き続けた手。その手が——今、王国からの書簡を持っている。
カイが居室に来た。書簡を見て、私の顔を見た。
「——開けるか」
「はい。でも——少しだけ、待ってください」
窓の外に、星が出ていた。
この書簡に何が書いてあるのか。謝罪か。名誉の回復か。あるいは——。
何が書かれていても、私はもう大丈夫だ。ここに、私の居場所がある。ここに、私を「あなたらしい」と言ってくれる人がいる。
でも——数字を正しい場所に戻したかった。それだけは、見届けたい。
封蝋に指をかけた。
——そこで、手が止まった。
明日にしよう。今夜は——この静かな夜を、もう少しだけ味わいたい。
「カイ。——明日、一緒に読んでくれますか」
カイが頷いた。静かに。確かに。
白百合が、夜風に揺れていた。
明日、この封を開ける。五年間の数字が——ようやく、正しい場所に戻る日が来る。
そしてリオンは、北塔の窓から同じ星空を見ていた。何もない部屋に、調査官が置いていった帳簿の写しだけがあった。
その帳簿を——まだ、開いていなかった。




