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第18話「すべての借りは返される」

 翌朝。


 カイが約束通り、居室に来てくれた。


 窓辺の椅子に並んで座った。白百合が朝の光を受けている。昨夜から一晩、封蝋のまま机に置いてあった書簡を——手に取った。


「開けます」


 封蝋を割った。王家の紋章が二つに分かれる。


 便箋を広げた。国王の筆跡。整った、しかしどこか疲れを滲ませた字だった。


   *


 エレノア・ヴァルシュタイン嬢へ


 このたびの国庫帳簿に関する調査の結果、貴嬢が五年間にわたり王国の国庫を完璧に管理されていた事実が、公式に確認されました。


 貴嬢の退去後に発生した聖女基金による不正支出四十七件は、すべて貴嬢の管理体系の外に設けられたものであり、貴嬢の在任中に不明支出は一件も存在しなかったことを、調査官の報告書に基づき認定いたします。


 また、貴嬢に対して婚約破棄の場でかけられた罪状について——王家として、正式に撤回いたします。あの場での断罪に根拠はなく、王家の名において遺憾の意を表します。


 貴嬢の帳簿管理、薬学の知識、南部同盟との外交交渉への貢献は、いずれもこの国が正当に評価すべきものでした。それを怠り、追放という形で報いたことを——国王として、深くお詫び申し上げます。


 貴嬢の名誉回復を、王国として公示いたします。


 ——王国国王 アルベルト三世


   *


 読み終えた。


 手が震えていた。怒りではなかった。恐れでもなかった。


 五年間。毎朝、数字を合わせた。毎晩、帳簿を閉じた。誰にも感謝されず、誰にも気づかれず——それでも、一行たりとも手を抜かなかった。


 あの帳簿を見て「すごい」と言ったのは、帝国の人々だった。王国では——五年間、一度も言われなかった。「当然」だった。「婚約者なのだから当たり前」だった。


 それが——今、王国が認めている。遅すぎるほど遅い。でも——届いた。


 数字が、正しい場所に戻った。


「……カイ」


 声が、かすれた。


 カイが書簡を読み、静かに言った。


「遅すぎた。——だが、届いた」


 その言葉を聞いた瞬間——。


 目から、涙がこぼれた。


 泣かないと決めていた。もう誰のためにも泣かないと。でもこれは——誰かのための涙ではなかった。


 五年間の自分のための涙だった。


 マリーが入ってきて、私の顔を見て——声もなく泣き始めた。離れの棟から一緒に歩いてきた侍女が、主人より先に泣いている。


「エレノアさま——よかった——」


「マリー。ありがとう。ずっと——ありがとう」


 カイは何も言わなかった。ただ隣にいてくれた。それだけで十分だった。


   *


 同じ朝。


 王城の北塔で、リオンは壁に背をつけて座っていた。


 窓が一つだけの石の部屋。寝台と机と椅子。それだけの空間に、調査官が置いていった帳簿の写しが、机の上にあった。


 昨夜は開かなかった。今朝も——開かないつもりだった。


 けれど、することが何もない。誰も来ない。侍従もいない。命令を聞く者もいない。


 北塔には、静寂しかなかった。


 手が——帳簿に伸びた。


 最初の頁を開いた。


 エレノアの筆跡。五年前の四月。国庫収支の冒頭記録。「本年度の歳入見込みと勘定科目の再編について」。


 帳簿の構造が一目でわかるように、冒頭に概要が書かれていた。リオンが王太子として政務を始めた年だ。エレノアが婚約者として王城に入り、帳簿の管理を引き受けた年だ。


 頁をめくった。


 五年前の五月。六月。七月。季節ごとに収支が変わる。薬草の仕入れ価格が夏に下がり、冬に上がる。その変動を見越して、予算が組み替えられていた。


 欄外の注釈。「南部のルドヴィク侯より書簡あり。交易路の改修について事前協議を要望。殿下に報告済み」。


 殿下に報告済み。


 リオンは——覚えていなかった。そんな報告を受けた記憶がない。


 次の頁。「殿下にご報告したが、ご確認いただけず。ベルクハイム宰相経由で対応」。


 ご確認いただけず。


 リオンの手が止まった。


 次の頁にも。その次にも。「殿下にご報告済み」「ご確認なし」「宰相経由で処理」。


 エレノアは——毎回、報告していたのだ。リオンが聞かなかっただけだ。リオンが「くだらない」と退けただけだ。退けられても、エレノアは処理を止めなかった。宰相を経由して、一人で。


 薬草の処方メモが挟まれていた。王立薬局の在庫管理。調合の手順。品質の基準。すべてエレノアの字で書かれている。


 外交文書の下書きが貼り付けてあった。ルドヴィク侯への返書。丁寧で、正確で、侯の名前のスペルが一字も間違っていない。


 リオンは——侯の名前を間違えて書簡を送った。それがきっかけで、南部同盟との交渉が凍結した。


 エレノアなら、間違えなかった。


「……余は」


 声が出た。


「余は——何をしていたのだ」


 五年間。エレノアが帳簿を書いている間、余は何をしていた。リリアーナと庭を散歩していた。取り巻きと狩りに出かけていた。「余は王太子だ」と胸を張っていた。


 その足元で——エレノアが、一人で国を支えていた。


 帳簿の最後の頁を開いた。


 エレノアが王城を去った月。最終行。収支は完璧に合っている。


 最終行の下に、余白。エレノアの字は——そこで終わっていた。


 余白の白さが、リオンの目に焼きついた。


 この余白の後に——聖女基金が生まれた。この余白の後に——帳簿は誰にも読めなくなった。この余白の後に——国庫の一割が消えた。


 すべては——エレノアが去った後に起きたことだった。


 エレノアがいた五年間、帳簿は完璧だった。国庫は一枚の金貨も失わなかった。外交は滞りなく進んでいた。薬は足りていた。祭壇は応えていた——先代の継承者の血を引くエレノアが、王城にいたから。


 すべてが——あの一人の女の上に乗っていた。


 そしてその女を——余が捨てた。


「あの程度の女」。そう言った。「大した価値はない」。そう言った。帳簿が読めなくなったとき、「あの女の名前を出すな」と言った。


 帳簿の最終頁の余白が——答えだった。


 リオンの目から、涙がこぼれた。


 初めての涙だった。自分への憐れみではない。撤回を求める涙でもない。


 ようやく理解した、喪失への涙だった。


「……すまなかった」


 誰にも届かない。北塔の石壁に吸い込まれて消える声。


 遅すぎた。何もかも——遅すぎた。


   *


 三日後。


 帝国の管理院に、来客があった。


 ルーカスが報告に来た。


「エレノア嬢。ヴァルシュタイン公爵が帝都に到着しました。面会を求めておられます」


 父だった。


「……理由は」


「『娘を迎えに来た』と」


 迎えに来た。王国で廃太子が起き、名誉回復の公示が出た。今になって——迎えに来た。


「お会いになりますか」


 私は少し考えた。考える必要がないほど、答えは決まっていた。けれど——一度だけ、会おうと思った。


 管理院の応接室で、父と向かい合った。


 ヴァルシュタイン公爵は老けていた。数ヶ月前に帰還を求める書簡を送ってきたときの、威厳ある筆跡の裏にいた人間は——ただの疲れた老人だった。


 応接室に来る途中、父は管理院の廊下を通ったはずだ。壁に掲げられた品質管理基準の通達書。各地の薬草管理院からの報告書。そのすべてに、私の名前が記されている。


「エレノア。帝国での活躍は聞いている。——公爵家として、お前を正式に迎え戻したい」


「お父様。私の名誉は、王国が公的に回復しました。公爵家が迎え戻す必要はありません」


「だが、お前は公爵家の——」


「お父様」


 静かに遮った。


「婚約が破棄された夜、お父様は私を書斎に呼びました。『なぜ婚約破棄を防げなかった』と叱責しました。私の心配は——一言もありませんでした」


 父の目が揺れた。


「離れの棟に追いやり、使用人の態度が変わるのを放置しました。白百合の花壇を植え替え、リリアーナを招く準備をしました。私が何を感じていたか——一度も、聞いてくださいませんでした」


 父の唇が震えた。


「帝国の皇帝が迎えに来たとき、お父様は体裁を取り繕いました。娘のためではなく——公爵家の面目のために」


 私は立ち上がった。


「お父様。恨んではおりません。ただ——もう、あの家に戻ることはありません。私の居場所は、ここにあります」


 父の膝が、折れた。


 応接室の椅子から崩れ落ちるように——床に膝をついた。


「エレノア……すまなかった……」


 その声は——本物だった。計算でも体裁でもない、遅すぎた後悔の声だった。


 けれど、遅すぎた。


「さようなら、お父様。どうかお元気で」


 振り返らずに、応接室を出た。


   *


 同じ週。


 ルドヴィク侯との仲裁交渉が、帝国の外交院で行われた。


 私はカイの隣に座った。ルドヴィク侯と会うのは初めてだった。三年間、書簡だけでやり取りしてきた人だ。


「——エレノア・ヴァルシュタイン嬢ですか」


 侯の目が、私を見た。白髪の壮年。厳しい顔。しかしその目には——敬意があった。


「三年間の書簡は、すべてあなたの筆でしたか」


「はい」


「殿下の名義で届いていたが——文体が途中で変わったことがあった。あの雑な書簡は、殿下ご本人のものだったのですな」


 侯の口元に、苦い笑みが浮かんだ。


「あなたの書簡がなくなってから、交渉は崩壊した。名前を間違えた書簡が届いた日に——私は条約の凍結を決めた」


 リオンが名前を間違えた書簡。あの一通が、南部同盟との関係を壊した。エレノアなら——侯の名前を間違えることは、絶対になかった。三年間の書簡で、一度も。


「ヴァルシュタイン嬢。あなたが同席するなら——この交渉には応じます」


 仲裁は成立した。


 帝国の仲介で、南部同盟と王国の条約再開が合意された。交易路の再開。通行料の見直し。三年前に私が書いた草案を土台にして、すべてが動いた。


 交渉が終わり、侯が立ち上がる前に——私に向かって、深く一礼した。


「三年間、あなたの書簡だけが、この交渉を支えていた。——ようやく、筆の主にお会いできた」


 その一礼が——五年間の仕事のすべてを認めてくれた気がした。


   *


 王国では、最終的な処分が決定していた。


 リリアーナ・フォーセット。聖女詐称および国庫横領の罪。男爵家からの除籍。財産の没収。王都からの追放。


 フェルディナント伯爵。国庫不正への共犯。伯爵位の剥奪。領地の没収。三年間の蟄居。


 二人とも——かつてエレノアが一人で歩いた廊下を、今度は自分たちが歩いた。


 フェルディナントは審問室から出るとき、ヘルムートとすれ違った。かつての部下は一礼もしなかった。ただ——エレノアの帳簿を、胸に抱えていた。


 リリアーナは王城の正門から出された。近衛騎士に見送られ——いや、監視されながら。あの舞踏会で手に入れたものを、すべて失った姿で。


 門をくぐるとき、リリアーナは振り返った。


 王城の窓。かつて、ここからすべてを見下ろしていた。聖女の法衣を纏い、王太子の腕に手をかけ、国庫の金で飾った宝石を身につけて。


 今——何も残っていなかった。


   *


 ——帝国の夕暮れ。


 窓辺で白百合に水をやっていた。


 マリーが、もう一通の書簡を持ってきた。


「エレノアさま。王国から——もう一通、届いています。差出人は——王妃様です」


 王妃から。国王からの公的な書簡とは別の、私的な手紙。


 封を開けた。


 短い手紙だった。


   *


 エレノア嬢。


 あなたに対して王家が行ったことを、母として恥じています。


 息子を正しく導けなかったことを——深くお詫びします。


 あなたが帝国で幸せに過ごされていることを、願っています。


 ——王妃マルグリット


   *


 たった四行だった。


 でもこの手紙は——国王の公式な書簡よりも、重かった。


 権力でも外交でもなく。一人の母が、息子が傷つけた女性に向けて書いた言葉。


「……ありがとうございます」


 誰にともなく呟いた。


 窓の外で、夕日が沈んでいく。すべての借りが——返された。帳簿の数字が正しい場所に戻り、名誉が回復し、父が代償を知り、侯が信頼を確認し、偽聖女が裁かれた。


 五年間の因果が——清算された。


 もう、振り返るものはない。過去はすべて、正しい場所に収まった。


 これからは——前だけを見ていい。


 扉が叩かれた。カイだった。


「エレノア。——少し、時間をもらえるか」


「はい」


 カイが入ってきた。いつもより——少しだけ、表情が硬い。皇帝が緊張している。初めて見る顔だった。


「一つ、話したいことがある」


 その目を見て——私は、わかった。


 何を話すのか。


 心臓が、静かに速くなった。


「——聞かせてください」


 白百合が、夕日の最後の光を受けて揺れていた。

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