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第19話「あなたと歩む道」

 カイは——言葉を選んでいた。


「……今ではない」


「はい?」


「ここで話すつもりだったが——場所を変えたい。明日の朝、迎えに来る。一緒に来てほしい場所がある」


 皇帝が、わざわざ場所を選び直している。あの落ち着いた人が、言葉を言いかけてやめた。


「……わかりました」


 カイが頷いて、居室を出た。扉が閉まった後、白百合が風に揺れた。


 心臓がまだ速い。何を話すか——わかっている。わかっているのに、怖くはなかった。ただ——胸の奥が、温かかった。


   *


 翌朝。


 マリーが支度を手伝ってくれた。いつもより丁寧に髪を整えながら、マリーの手が震えていた。


「マリー。……何か聞いたの?」


「い、いえ! 何も! ただルーカス様が今朝、なぜかお花を——いえ、何でもありません!」


 何でもなくはない顔だった。マリーの目が赤い。泣いたのだろう。嬉しくて。


 中庭に出ると、カイが待っていた。馬車ではなく、徒歩で。


 隣に並んだ。春の朝の空気が澄んでいて、石畳に二人の足音だけが響いた。


「……歩いて行ける場所ですか?」


「ああ。宮殿の裏手にある」


 宮殿の裏手。あの場所だ。


 古代神殿。母が帝国と契約を結んだ祭壇がある場所。帝国に来た最初の日に、カイが紋様の意味を教えてくれた場所。浄化の練習で、大地の声を初めて聞いた場所。


 木々の間を抜ける小道を歩いた。カイは何も言わなかった。私も何も聞かなかった。沈黙が——不思議と心地よかった。この人との沈黙は、いつも安全だった。


 石段が見えた。朝の光が祭壇の周りに金色の模様を描いている。木漏れ日が石の上で踊っている。


「ここで話したかった」


 カイが言った。


「あなたの母上が、帝国と契約を結んだ場所で」


 祭壇の前に立った。千年前の石。冷たいはずの表面が——かすかに温かかった。左手の紋様が、淡く光っている。


「エレノア」


 カイが私の前に立った。正面から。逃げない目で。


 皇帝の目ではなかった。一人の男の目だった。


「帝国に来てもらったとき、私はあなたに仕事を依頼した。薬草管理院の再建と、古代魔導の研究。それが最初の約束だった」


「はい」


「あなたはその約束を果たした。管理院は十年の基盤を得た。品質管理基準は帝国全土に通達された。南部の汚染は浄化され、ルドヴィク侯との条約は再開した。——約束は、果たされた」


 カイの声が、わずかに低くなった。


「だから——次の約束を、あなたに求めたい」


 心臓が跳ねた。わかっている。わかっているのに——声が出ない。


「告白したとき、あなたは『対等でいたい』と言った。あの条件を——私は今も、最も大切にしている」


 カイの手が、私の手に触れた。


 温かかった。帝国に来た最初の日、古代神殿の石段で紋様の意味を教えてくれたとき。浄化の練習で膝が崩れたとき、支えてくれたとき。帳簿の分析が終わった夜、「あなたらしい」と笑ってくれたとき。


 いつもこの手は——温かかった。


「エレノア。対等な伴侶として——私の隣に立ってほしい」


 静かな声だった。


「皇妃としてではなく——まず、エレノアとして。あなたが望む仕事を続け、あなたが築いたものを守り、あなたの意志で生きる。その上で——私と、歩んでほしい」


 母の遺言が、頭の中で響いた。


『あなたを必要とする者と共に歩みなさい。それが母からの最後の願い』


 お母さま。——見つけました。


 必要としてくれる人を。必要とし返せる人を。対等に、尊重し合える人を。


 あの舞踏会の夜を思い出した。百人の前で婚約を破棄された夜。あのとき、リオンは言った。「余にふさわしい女ではなかった」。私の能力も、仕事も、人格も——何一つ見ないまま。


 今、目の前にいるこの人は——すべてを見た上で、隣に立ってほしいと言っている。


「カイ」


 声が震えた。今度は——止めなかった。


「……はい」


 一言だった。それだけでよかった。


 カイの目が——初めて、緩んだ。皇帝の仮面が外れた顔。笑うのが下手な人が、不器用に——笑っていた。


 その瞬間——祭壇が光った。


 足元から光が広がった。千年前の石が、金色に輝いている。左手の紋様が——カイの手と重なった場所から、光が放射状に伸びていく。


 祭壇に刻まれた古い碑文が浮かび上がった。古代語。母の魔法書と同じ文字。


『契約は更新される。継承者と守護者の盟約は、ここに新たに結ばれる』


 千年ぶりの光だった。


 継承者と帝国の盟約。それが今——私とカイの手の中で、更新された。


 大地の声が聞こえた。かすかに。温かく。祝福するように。大祭の日に聞いたのと同じ声。千年の大地が——この契約を認めている。


 光が収まった。祭壇は静かに眠りに戻った。


 けれど手は——まだ、つながっていた。離す理由がなかった。


   *


 古代神殿の入口に、人影があった。


 ルーカスが立っていた。その後ろにマリーがいた。さらに後ろに——ゲルツ医師が、深く頭を下げていた。


「陛下が白百合を枯らすなと命じた日から——十年、お待ちしておりました」


 ルーカスが言った。告白の日と同じように、カイの隣で見守ってきた者だけが知る記憶を口にして。それだけ言うと——深く、一礼した。顔を上げなかった。


 マリーは——もう泣いていた。声を殺して、肩を震わせて。離れの棟から一緒に歩いてきた侍女が、主人の幸福を、自分のことのように泣いている。


「エレノアさま——」


「マリー。ありがとう。あなたがいなかったら——私はここにいなかった」


 マリーが堪えきれずに駆け寄ってきた。私の手を取って、涙を拭かずに笑った。


 ゲルツ医師が顔を上げた。


「エレノア嬢。……いえ。これからは——」


「ゲルツ医師。まだ気が早いですよ」


 ゲルツ医師が照れたように咳払いをした。


 一ヶ月前、「令嬢に何ができる」と言った人が。今は——敬意と祝福を込めて、頭を下げている。


 カイがルーカスに視線を送った。ルーカスが小さく頷いた。


「陛下。婚約の公示は——」


「三日後に。帝国全土と王国、南部同盟に通達する」


 ルーカスが一礼して去った。ゲルツ医師も頭を下げて続いた。マリーは——なかなか離れなかった。最後に私の手をぎゅっと握って、笑顔のまま走っていった。


   *


 二人きりになった。


 古代神殿の石段に、並んで座った。朝の光が高くなり始めている。


「……カイ」


「ああ」


「対等でいたい、と言ったとき——断られると思いました」


「なぜ」


「皇帝に条件をつけるなど、普通は許されないから」


 カイが少しだけ笑った。


「あの条件は——私が最も望んでいた答えだった。前にも言っただろう」


 覚えている。告白の夜に、カイはそう言った。


「あなたが対等でいたいと言ったから——私はあなたを選んだ。私の判断に頷くだけの伴侶なら、必要ない。私が間違えたとき、止めてくれる人が必要だった」


「……私に、止められるでしょうか」


「もうやっている」


 カイの目が真っ直ぐだった。


「品質管理基準を作ったとき、私の提案した予算配分に異論を出しただろう。ルドヴィク侯との交渉で、私の外交方針に修正案を出しただろう。——あなたはすでに、対等に立っている」


 知らなかった。あれが——カイにとって、そういう意味を持っていたことを。私はただ、数字が合わない予算が我慢できなかっただけだった。侯への書簡の文面が不正確だったから、直しただけだった。


 それが——カイにとっては「対等」の証だった。


「リオンは、あなたの報告を退けた」


 カイの声が、静かに変わった。


「帳簿に書いてあった。『殿下にご報告済み。ご確認なし』。——あの男は、あなたの言葉を聞かなかった。だから失った」


「……カイ」


「私は聞く。あなたの言葉を——一つも聞き逃さない」


 胸の奥が——温かくなった。


 王国では、報告しても聞いてもらえなかった。意見を言えば「口出しするな」と退けられた。五年間、数字だけが私の味方だった。


 ここでは——声が、届く。


「もう一つ」


 カイが言った。


「あなたが泣きたいときは——泣いていい。もう、堪える必要はない」


 泣かないと決めていた。もう誰のためにも泣かないと。


 でも今——泣いてもいい場所がある。泣いても受け止めてくれる人がいる。


「……ありがとう」


 涙は出なかった。代わりに——笑った。心の底から、何の計算もなく。


 カイが目を見開いた。


「……初めて見た」


「何がですか」


「あなたが——そんなふうに笑うのを」


 言われて気づいた。帝国に来てから、微笑んだことはあった。安堵したことも、安心したこともあった。


 けれど——こんなふうに、何の不安もなく笑えたのは、いつ以来だろう。


   *


 王城の北塔。


 リオンは窓辺に座っていた。


 朝の光が、帝国の方角から差し込んでいる。遠い空の向こうに、一瞬だけ——光が見えた気がした。金色の、祭壇のような光。


 何の光かは、わからなかった。


 手元には、エレノアの帳簿の写しがある。もう何度も読んだ。読むたびに、同じ頁で手が止まる。


『殿下にご報告済み。ご確認なし』


 エレノアは——毎回、報告していた。余が聞かなかっただけだ。聞いていれば。一度でも、帳簿を見ていれば。あの細く正確な字を、一行でも読んでいれば。


 余の隣に立っていたのは、誰よりも有能な女だった。


 そして余は——その女の報告を「くだらない」と退け、聖女の嘘に笑い、国を壊した。


 窓の外を見た。帝国の方角。あの方が、今どうしているかは知らない。


 けれど、一つだけわかることがあった。


 余が捨てたものを——誰かが、正しく拾い上げた。


「……そうか」


 呟いた。それ以上は言えなかった。


   *


 古代神殿から帝国宮殿に戻る道。


 カイが私の手を取った。歩きながら。自然に。


 石段を下り、宮殿の中庭に入った。白百合が朝の光を受けて揺れている。帝国に来てから、私の部屋にはいつも白百合が活けてあった。カイがいつの間にか手配していた花。


 王国では、庭師が私の白百合を抜いていた。


 ここでは——白百合が、毎朝新しく咲いている。


「エレノア」


 カイが立ち止まった。中庭の真ん中で。白百合に囲まれて。


「——帰ろう」


 短い言葉だった。


 でも——「帰ろう」と言ってくれる人がいる場所が、家だ。


「はい」


 答えた。


 ここが——私の家だ。


 白百合が風に揺れた。朝の光が、二人の影を並べて地面に落としていた。


 同じ長さの、二つの影。対等に、並んで。


 これからは——この影のまま、歩いていく。

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