最終話「——けれど」
婚約の公示から一ヶ月が過ぎた。
帝国の朝は——変わらず、穏やかだった。
管理院の窓から中庭が見える。白百合が初夏の陽を浴びている。机の上には品質管理基準の改訂案。第三版。帝国全土五十二拠点からの運用報告を反映した修正点が、二十三項目。
朝の光が机の上に差し込む。インク壺の影が長く伸びる。この机で、毎朝仕事を始める。帝国に来てから——一日も欠かさずに。
けれど王国にいた頃とは、一つだけ違うことがある。
ここでは——「当たり前」と言われない。
「エレノア嬢。南部駐屯地から追加の報告が来ています。乾燥室の湿度管理について、改善提案が三件」
ゲルツ医師が報告書を持ってきた。
「確認します。——ゲルツ医師、第二拠点の在庫回転率は先月と比べて」
「七パーセント改善しました。あなたの基準を導入してから、廃棄率が半分以下になっています」
ゲルツ医師が頷いた。一ヶ月前、「令嬢に何ができる」と言った人。今は——同僚として、私の改訂案に赤を入れてくれる。提案があれば率直に言ってくれる。「ここは現場の実情に合わないのでは」と。
その率直さが——嬉しかった。王国では、私の仕事に意見をくれる人はいなかった。正確には——仕事の存在に気づいてくれる人が、いなかった。
「ゲルツ医師。この第三版は、私がいなくても運用できるように設計してあります」
「ええ。あなたはいつもそう言いますな。——けれどあなたがいたほうが、改訂の速度は三倍です」
笑った。いなくても回る仕組みを作ること。それが私の仕事だ。でも——いたほうが良いと言ってもらえる場所があること。それが、私の幸せだ。
*
帝国の外で——世界は動いていた。
ルドヴィク侯との条約が正式に締結された。南部同盟と王国の交易路が再開し、凍結されていた通行料の見直しが完了した。条約の前文には、仲裁に貢献した帝国への謝意と共に——一行だけ、私の名前が記されていると、ルーカスが教えてくれた。
三年間、リオンの名前で書いていた書簡。あの侯は、最初から筆の主が違うことに気づいていた。「あなたの書簡がなくなってから交渉は崩壊した」。あの一礼の重さを、私はまだ覚えている。
王国では、国王がベルクハイムを宰相に再登用した。正式な謝罪の上で。老宰相は一度は辞退したが、「この国を立て直すために」と受諾した。ベルクハイムが最初にしたことは、エレノアの帳簿体系を財務官全員に学ばせることだった。
ヘルムートが——あの帳簿を教科書にしている。
「毎月、ヘルムート殿から手紙が届くのですよ」
ルーカスが苦笑まじりに言った。
「帳簿の分類体系について質問が。——あなたに直接聞きたいと」
「返事を書きます」
五年間、一人で作った帳簿。今は——何人もの手で学ばれ、引き継がれている。もう「読めない帳簿」ではない。「読み継がれる帳簿」になった。
クレメント大司祭からも書簡が届いた。
『エレノア・ヴァルシュタイン嬢の名を、千年に一度の継承者として神殿の公式記録に刻みました。先代の継承者クラーラ・ヴァルシュタインの名の隣に。——四十年間祭壇に仕えてきた者として、この日を待っていたことを申し添えます』
母の名前の隣に、私の名前が刻まれた。
お母さま。——ようやく、あなたの隣に戻れました。あなたが遺してくれた魔法書の最後の願い通り、必要としてくれる人を見つけました。
*
王城の北塔。
リオンは——帳簿を読んでいた。
もう何度目かわからない。同じ頁を繰り返し開く。エレノアの筆跡。季節ごとの収支。欄外の注釈。薬草の仕入れ記録。外交文書の下書き。
毎日読む。読むたびに、新しい行に気づく。昨日見えなかった注釈が見える。冬の仕入れ価格の変動を見越した予算組み替え。南部の道路事情を考慮した輸送計画。王立薬局の在庫が切れないための三ヶ月先の発注。
五年間。一人で。誰にも感謝されずに。
余はその間、何をしていた。リリアーナの笑顔に満足し、取り巻きの追従に頷き、「余は王太子だ」と繰り返していた。そのすべてが——エレノアの帳簿の上に乗っていた。
もう「余は悪くない」とは言わない。言えなくなった。帳簿がすべてを語っている。数字は嘘をつかない。余がつけなかった帳簿の代わりに——数字が、真実を記録し続けていた。
窓の外の空を見た。帝国の方角。婚約の公示が大陸中に届いた。帝国皇帝カイ・ヴェルザンドと、エレノア・ヴァルシュタイン嬢の婚約。
余が「あの程度の女」と呼んだ人が——大陸最強の国の皇妃になる。余が「大した価値はない」と言った人の帳簿が——今、王国の財務官の教科書になっている。
「……すまなかった」
声に出した。誰にも届かない。北塔の石壁に吸い込まれて消える。
けれど——口にした。何度でも。帳簿の頁をめくるたびに。この言葉を、あの人に直接伝える日は——もう来ないだろう。それでも。
遅すぎた。何もかも。
*
ヴァルシュタイン公爵邸。
書斎の窓から、中庭が見える。
白百合の花壇が——復元されていた。
庭師に命じたのは、帝国から戻った翌日だった。妻が毎朝水をやり、娘が十年守り続けた花を。あの子のために壊した花壇を——元に戻した。
白百合は咲いている。けれど、娘は戻ってこない。
公爵は窓辺に立ち、花壇を見下ろした。花は同じでも、水をやる人間が違う。エレノアが育てていた頃は——もっと、生き生きとしていた気がする。
机の上に、帝国からの婚約公示の通達が置いてある。何度も読んだ。
娘が——皇妃になる。あの離れの棟に追いやった娘が。「失敗した駒」と呼んだ娘が。
「……エレノア」
呟いた。応える者はいない。
離れの棟は、今も空のままだった。あの暖炉の紋様だけが、かすかに光っているという庭師の報告を、公爵は聞き流した。
*
午後。
マリーが居室の片付けをしてくれていた。窓を拭き、花瓶の水を替え、机の上の書類を整える。帝国に来てから、マリーの手際はずっと良くなった。あの荒れた離れの棟で二人きりだった頃から——マリーも、成長した。
「エレノアさま。——いえ」
マリーが言い直した。
「陛下」
「マリー」
振り返った。
「私はエレノアです。あなたの前では——ずっと」
マリーの目が潤んだ。離れの棟から一緒に歩いてきた侍女。あの荒れた部屋で、「私が仕えるのはエレノアさまだけです」と言ってくれた人。暖炉の紋様を見つけた夜。帝国への馬車に同乗した朝。大祭の前に髪を整えてくれた手。名誉回復の書簡を開けた朝に、一緒に泣いてくれた目。
「マリー。覚えてる? 離れの棟で——私が泣けなかった夜」
「……はい。覚えています。あの夜——エレノアさまは、寝台に座ったまま、天井を見ていました。涙は一滴も出なくて。私——怖かったんです。泣いてくれたほうが、まだ安心できたのに」
「あの夜、あなたがいてくれたから——私は壊れなかった」
マリーが涙を拭いた。拭いても次が出る。
「エレノアさまが泣けなかったこと——ずっと、ずっと、心配でした」
「今は——泣けるようになった」
マリーが顔を上げた。
「嬉しいときは。カイが笑ってくれたときは。あなたが隣にいてくれるときは。——泣いてもいいと、思えるようになった」
マリーが——堪えきれずに泣いた。今度は悲しみではなく。安堵の涙だった。ずっと心配していた人が、ようやく泣けるようになったことへの——安堵。
私も——少しだけ、目が熱くなった。
*
夕暮れ。
管理院の仕事を終えて、中庭に出た。
カイが待っていた。また、迎えに来ている。毎日。
「今日は何をした」
「品質管理基準の第三版を仕上げました。改訂点が二十三項目」
「また改訂か」
「向上に終わりはありませんから」
カイが——笑った。口元がほんの少しだけ緩む、あの不器用な笑い方。皇帝の仮面の奥にある、素の顔。
帝国に来たばかりの頃、この人は笑わなかった。私の前で初めて笑ったのは、いつだっただろう。図書院で一緒に過ごした午後。古代神殿で浄化が成功した朝。帳簿の分析が終わった夜。
少しずつ、この人の表情が増えていった。私の前でだけ。
「エレノア。——帰ろう」
「はい」
手を取られた。歩きながら。自然に。もう、驚かない。この手の温かさは——私の日常だ。
中庭の白百合が、夕日に染まっている。
王国では、庭師が私の白百合を抜いた。ここでは——カイが、毎朝新しい花を届けてくれる。
*
居室に戻った。
窓辺に立った。白百合。夕日。遠くに見える帝都の屋根。
ここに来てから——どれだけの時間が過ぎただろう。
婚約破棄の夜。百人の前で断罪された。「余にふさわしい女ではなかった」。あの言葉を浴びて、大広間を一人で歩いて出た。涙が出なかった。泣けなかった。
父に叱責された。「なぜ婚約破棄を防げなかった」。私の心配は一言もなかった。
離れの棟に追いやられた。使用人に見下された。白百合の花壇は植え替えられた。私の場所が——一つずつ、消えていった。
それでも——泣けなかった。
「もう誰のためにも泣かない」
あの夜、そう決めた。
泣かないことが、私の強さだった。泣かないことが、私を支えていた。泣かなければ——壊れない。泣かなければ——立っていられる。
帝国に来た。カイが迎えてくれた。マリーが一緒に来てくれた。仕事を与えられ、能力を認められ、名前を呼ばれた。
それでも——泣けなかった。大祭で浄化が成功しても。帝国中に名前が広まっても。カイに告白されても。
泣いたら——何かが壊れると思っていた。泣いたら——また、あの夜に戻されると思っていた。
でも。
国王の書簡を開いたとき——泣いた。
五年間の自分のための涙だった。マリーが隣で泣いてくれた。カイが何も言わず、ただ隣にいてくれた。
カイに求婚されたとき——笑った。声を立てて、何の不安もなく。カイが「初めて見た」と目を見開いた。
泣かないことが強さだと思っていた。
でも——本当の強さは、泣いてもいい場所を見つけることだった。
泣かなくていい強さではなく——泣いてもいい安心を、私は手に入れた。
カイがいる。マリーがいる。ゲルツ医師がいる。ルーカスがいる。帝国がある。仕事がある。居場所がある。
もう——一人で帳簿を書く夜はない。
もう——誰にも見られない廊下を一人で歩く朝はない。
もう——「当たり前」と言われて飲み込む日々はない。
もう——泣けないふりをしなくていい。
カイが居室に入ってきた。報告書を一枚持っている。
「明日の外交会議の資料だ。——目を通してもらえるか」
「はい。確認します」
報告書を受け取る。指先が触れた。温かい。いつもの温度。この手が私を支えてくれた。膝が崩れたとき。帳簿を分析した夜。求婚の朝。
いつも——同じ温度だった。
「カイ」
「ああ」
「……ありがとう」
「何が」
「全部」
カイが少しだけ笑った。あの不器用な笑い方。皇帝の仮面の奥にある、私だけが知っている顔。
「こちらこそ」
短い言葉だった。それだけでよかった。この人は、短い言葉で——いつも、全部を伝えてくれる。
窓辺の白百合が、最後の夕日を受けて光った。
五年間、数字を合わせ続けた。誰にも感謝されなかった。でもあの数字は——嘘をつかなかった。数字が私を導いて、正しい場所に連れてきてくれた。
この場所に。この人の隣に。
捨てられた公爵令嬢は、もう誰のためにも泣かない。
——けれど今は、隣にいるこの人の前でだけ、泣いてもいいと思っている。




