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エピローグ

 生ぬるい春の風が、火葬場の煙突から吐き出される灰の匂いを、俺の鼻の奥にねじ込んでくる。

 

 待合室の隅。俺は俯いたまま、床の染みを睨んでいた。陽菜の両親に顔を上げることなんて、できなかった。あの夜、俺は親から娘の最期を強奪した強盗だった。剥き出しの執着で彼女を夜空の下に引きずり出して、命の端を削り切った。罵られても殴られても、当然だ。

 

 収骨が終わって、陽菜の父親が俺の前に立った。無言で、真っ白な陶器の器を差し出す。


「……持っていてやってくれ」

 

 地鳴りのような掠れた声。受け取った瞬間、手のひらに彼女の最後を焼き尽くした余熱がじわりと染みた。


 絶望的に軽い。“21グラム”どころじゃない。あの深夜の河川敷で俺の腕にのしかかってきた、空っぽの肉塊の重さに比べれば、ただの冗談だ。

 

 父親は何も言わなかった。でもその充血した目が、俺に突き刺さる。「あいつの全部をお前も背負え」。逃げ場のない託宣。俺はただ、器を抱きしめるしかなかった。

 

 桜の根元には屍体が埋まっている――昔の小説家が書いた言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。もし本当に、陽菜がこの満開の桜の下に埋まっていて、血肉が花びらを染めているなら。どんなにいいだろう。花びらを食いちぎって飲み込めば、俺はあいつの死を胃袋に永遠に閉じ込められるのに。


 俺は肩の花びらを払う気にもなれず、代わりに下唇を前歯で強く噛みちぎった。ビリッ。薄い皮が裂ける音が、脳髄に響く。

 

 唇の端から生温かいものが顎を伝う。鉄の味が舌に広がった瞬間、なぜかひどく安心した。消毒液の臭い、甘いシャンプー、そしてあの空っぽの骨の冷たさ。

 

 血を流している間だけは、あいつの致命傷に少しだけ近づける気がした。傷が塞がれば、彼女の輪郭が薄れてしまう。だから、絶対に治させない。この唇の裂け目を、俺の手で一生、生かしてやる。

 



 その夜、俺たちは純也の家の地下スタジオに集まっていた。

 

 誰も口を開かない。線香の残り香と、防音壁のカビと埃が息苦しい。換気扇の鈍いモーター音だけが、耳鳴りのように這い回る。誰もが息を潜め、その沈黙の重さに押し潰されそうになっていた。中央には、誰も立っていないマイクスタンドが一本、ただ置かれている。


「……ねえ、これからどうすんの」

 

 キーボードに突っ伏した真奈が、震える声で切り出した。白い指が鍵盤に爪を立てている。


「陽菜、いないんだよ。……なに鳴らせばいいの」


「……っ、俺、あの時もっと……いや、違う。今更何叩いても、もうあいつの背中には届かねえんだよ……」

 

 純也がスティックでスネアの端を叩く。嫌な金属音。その野性的な声は、ひどく怯えた子供のように震えていた。


「俺の音、あいつの命を一秒でも引き延ばせたのかよ。……こんなデカい音鳴らしてんのに、一番肝心なもん一つ守れねぇって、マジで何なんだよ……っ」


「……俺の理屈なんて、あいつの息の根ひとつ繋ぎ止める役にも立たなかった」

 

 明は黒いネクタイを乱暴に緩め、眼鏡を外して顔を覆う。端正な顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに崩れている。


「大学受かって、卒業して……やっとこれからだって時にさ。正論吐いて、まとめた気になって……滑稽だよな。一番苦しんでるあいつの前で、俺は結局、安全な場所から見下ろしてただけなんじゃないか……?」


「……馬鹿ね、あんたたち」


 真奈は冷たい声で吐き捨て、白くなるほど鍵盤に爪を立てた。その目には、涙と一緒に、歪んだ優越感のような共犯者の色が浮かんでいる。


「陽菜はね、綺麗に忘れられるくらいなら、一生あんたたちの胃の腑にへばりついて、息の根を止めてやりたいって思ってたのよ。……だから、私たちは狂ってあげなきゃいけないの。それが、あの子への一番の手向でしょ」


「……逃げ道なんて、最初から残してなかったんだな」


 俺は血の滲む唇を手の甲で拭い、声を殺して笑った。

 

 あいつの遺した身勝手なエゴが、肺の奥まで侵食していくのがわかる。俺たちの人生に、治らない後遺症として完全に根を下ろした瞬間だった。


「……なあ。一発、鳴らそうぜ」

 

 俺はアンプのスイッチを蹴り込む。


「あいつが俺たちの喉の奥に突っ込んでいったこの息苦しさ……全部、音にして吐き出そうぜ」

 

 純也が両手にスティックを握りしめる。次の瞬間、獣のような咆哮を上げてスネアを打ち鳴らした。いつも刻んでいた正確な裏打ちは消え失せ、タムとシンバルをデタラメに叩き回す。子供が床を叩き回るような乱打が、純也の無様な嗚咽そのものになった。

 

 明はボリュームを最大まで上げ、ベースの弦を指から血が噴き出すほど弾き削る。腹の底を這いずる重低音が、慟哭そのもの。

 

 真奈は鍵盤に顔を押し当て、複数の音を力任せに叩きつける。不協和音が電子の悲鳴となって地下室を劈く。

 

 誰も楽器を壊そうとはしなかった。どんなにデタラメに叩きつけても、弾き削っても、あいつと一緒に音を鳴らした分身だけは、無意識のうちに庇っていた。

 

 それが余計に惨めだった。音を鳴らせば鳴らすほど、真ん中に立つはずのボーカルの不在が、真っ黒な空洞となって地下室に響き渡る。俺たちの不協和音は、音の形をしたただの嗚咽だった。

 

 俺はディストーションを深く踏み込み、黒いエレキギターの弦を力任せに掻き鳴らす。

 

 陽菜、聴こえるか。これが、お前が俺たちに押し付けた最悪の置き土産だ。

 

 お前が遺した執念のおかげで、俺たちはもう、綺麗なメロディなんて弾けない。この痛みと不協和音を抱えて、生きていくしかない。

 

 音の暴力が止み、耳鳴りだけがこびりついた地下室には、汗と血と鉄の混じったむせ返るような匂いが充満していた。

 

 俺たちはコンクリートの床に崩れ落ち、ひゅー、ひゅーと、壊れた楽器のような不格好な息を繰り返している。仰向けの純也が血まみれの手を天井にかざし、掠れた声を絞り出した。


「……っは。なんだよこれ。マジでゴミみてぇな音」


「ああ。最悪だ」

 

 明が転がった眼鏡を拾い、袖で乱暴に拭きながら体を起こす。声に、わずかに理知的な響きが戻っている。


「……でも、やらなきゃ頭がおかしくなりそうだった」

 

 真奈は電源の入っていない白鍵を無音でなぞる。不快な不協和音の位置を見つけ、指の骨が軋むほど体重を乗せて押し込んだ。


「……作るから」

 

 鍵盤に額を擦り付けたまま、真奈が地を這うような掠れた声で言う。


「あいつがいなくなって悲しい、なんて綺麗な言葉で終わらせてたまるか。私たちの喉に詰まったこの泥みたいな息苦しさを……そのまま世界中に吐き出すような、血の味がする最低の曲。……あんたたち、やれる?」

 

 俺は指先の皮が剥け、血で赤黒くなった自分の手を見つめる。

 

 俺たちはみんな、あいつの我儘で致命傷を負った共犯者だ。でも、だからこそ、この傷痕を終わらせるわけにはいかない。


「……当たり前だろ」

 

 俺はふらつく足で立ち上がり、血と汗に塗れたギターを背負い直した。


「この先ずっと、この塞がらない傷口を、音にして世界中にこすりつけてやる」

 

 地下室の空気が、微かに変わった。希望なんていう生ぬるい光はない。ただ、あいつの不在という重い泥を、死ぬまで四人で胃袋に抱え込んでやろうという、仄暗い熱情だけが確かにそこに生きていた。


 


 一人スタジオを出ると、外はすっかり夜になっていた。

 

 春の生ぬるい風が、汗ばんだ身体の熱を奪っていく。駅前の通りを歩く。当たり前の明日を信じて笑う奴らの声が、ただの不快な雑音として鼓膜を滑り落ちる。

 

 綺麗事に塗れた陳腐な物語なら、遺された者はここで前を向くのだろう。悲しみを乗り越えれば、いつか救われるのだと。

 

 ふざけるな。絶望の下をどれだけ掘り返したところで、希望なんて落ちていない。下を向いて足元を漁っても、そこにあるのはお前が抉り取った真っ暗な空洞と、一生消えない生傷の痛みだけだ。

 

 光を焼き付けたいなら、人は下なんて見ない。首の骨が軋むほど、嫌でも上を向かされる。俺は澱んだ春の夜空を、憎々しいほど真っ直ぐに見上げた。

 

 そこには、ひときわ暴力的に鋭く光る星が一つ、へばりついていた。

 

 太陽のような強烈な光を直視したあとに残る、網膜の焼け焦げ。目を閉じても絶対に消えない、光の形をした治るはずのない後遺症。それが陽菜だった。

 

 俺は再び、下唇の傷跡を強く噛んだ。ズキリ。脳髄に響く痛みが、俺に「生きている」ことを教えてくれる。

 

 俺の人生という暇つぶしは、彼女が遺した致命傷を飼い殺しにするための、どこまでも残酷で贅沢な時間に変わった。俺は、その無機質な光の塊を真っ直ぐに見据え、氷のように冷たく呟く。


「……他の誰かに上書きなんて、絶対にさせない」


 陽菜が天国で嫉妬に狂い、羨ましがったところで、俺は絶対にこの傷を塞がない。俺たちは、この視界を奪うほどの強烈な一等星を、泥まみれの傷跡ごと世界に叩きつけて生きていくんだ。

 

 彼女の掠れた声と、骨の冷たさと、俺の唇に残したこの癒えない疵を、一秒たりとも逃がさないように。息が詰まるほど苦しくても、血まみれの指でギターを弾き続けてやる。

 

 だから陽菜は、そこで永遠に俺たちを見ていて欲しい。決して綺麗なだけの悲劇じゃない。みっともなくて、痛ましくて、どこまでも残酷な結末。

 

 けれど、俺の心の一番深いところで、あの醜くて愛おしい火傷の跡が、息ができなくなるほどの熱を放ち続けている。

 

 赤松陽菜。

 

 君は俺の視界を永遠に奪う――治るはずのない、“一等星”だ。


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