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二十

 三月下旬、午後七時。緩和ケア病棟、いわゆるホスピスの個室は、病院というよりは静謐なホテルのような趣だった。


 死を待つための場所として設えられたその部屋は、生活感を排除した無機質な壁紙と、高価な加湿器が吐き出す重い蒸気に満ちている。


「見ろよ、これ。昨日通販で届いたんだけど、最高にノイズが乗るんだ。次のライブ、これで世界中を雑音で塗り潰してやるか!」


 純也がエフェクターの箱をベッドの上に広げ、わざとらしいほど大きな声を出す。そのがさつな手の動きが、かえってこの部屋の異常な静寂を浮き彫りにしていた。


「純也、ここは個室とはいえ、廊下には他の患者さんもいる。少しは声を落とせ」


 明がネクタイの結び目を指で探りながら、眼鏡の奥の鋭い視線で純也を制した。だが、その手元が微かに震え、指先が白くなっているのを俺は見逃さなかった。


「いいじゃん、明くん。私、純也くんの出す音が、今一番生きてるって感じがして好きだよ」


 ベッドの上の陽菜が、ぶかぶかのパジャマの袖を揺らして微笑んだ。その頰は不気味なほど削げ落ち、顎のラインは皮を突き破らんばかりに鋭い。癌細胞はすでに肺と骨に根を張り、彼女の肉体を内側から無慈悲に食いつぶしていた。


「……陽菜の唇、乾燥してる。リップ塗るから、ちょっと動かないで」


 ベッドの脇にへばりついていた真奈が、陽菜の顎をそっと持ち上げた。指先に爪を立てるような強さで、彼女のひび割れた唇に薬用リップを滑らせる。


「次の曲は絶対バラード。私がとびきり暗くて、聴いたやつ全員が救われないような呪いの歌詞を書くから。陽菜はただ、綺麗に絶望して歌えばいいの」


「真奈は相変わらず趣味が悪いな! でも、俺のドラムでその絶望をぶち壊してやるよ」


「純也の脳みそが単細胞なだけ。……ね、陽菜。クレープ、また食べたいね」


「うん、食べたいな。……桜が咲いたらさ、みんなでまた河川敷行こうよ。今度は私の奢りで、一番高いトッピングのやつ」


 陽菜の掠れた声が、絶対に訪れない未来を提示する。


 誰も、すぐには返事ができなかった。転移した癌の影響で肺に水が溜まり、呼吸のたびに「ヒュー、ヒュー」という湿った擦過音が鳴る彼女が、次の春を歩けないことはここにいる全員が知っている。


「……おう、一番高いやつな。生クリーム増し増しで頼むわ。さっさと治して奢らせろよ」


「カロリー計算は俺がしてやる。また糖分の摂りすぎで倒れられても困るからな。……お前のボーカルがないと、うちのバンドは始まらない」


 純也が顔を逸らして吐き捨て、明が小さく頷く。真奈は陽菜の前髪を整えながら、泣きそうな顔を隠すように俯いた。

 

 俺は壁に背中を預けたまま、ただ黙って息を殺していた。くだらなくて、青臭くて、吐き気がするほど愛おしい。誰も彼もが、必死にいつもの「高校生」を演じている。そのいびつな空気が、胸の奥をキリキリと軋ませた。




 面会時間が終わり、三人が部屋を去っていった後。

 

 陽菜が微かな力で、俺の手招きをした。俺が耳を近づけると、熱っぽい吐息と共に、彼女は掠れた声で囁いた。


「……幹也くん。お願い。私をここから、連れ出して」


「陽菜、それは——」


「お願い。最後の一回だけでいい。患者じゃなくて、死にかけの可哀想な子じゃなくて……ただの女の子として、幹也くんとデートしたいの。星が見たい。……お願い」


 その瞳に宿った、狂気じみた生への渇望。俺は黙って頷き、部屋の隅にあった車椅子に彼女の軽い身体を移した。


 ナースステーションの死角を突いて、夜の廊下を慎重に進む。自動ドアの向こうに、自由と冬の夜気が見えた。だが、あと数メートルというところで、鋭い声が冷たい廊下に響き渡った。


「陽菜! 何してるの!」


 自動ドアから入ってきたのは、夜食を買いに行っていたらしい両親だった。コンビニのビニール袋が床に落ち、乾いた破裂音を立てる。


「あなた、この子を殺す気!? 幹也くん、あなたがそそのかしたの!?」

 

 血相を変えた母親が駆け寄り、俺を突き飛ばすような勢いで車椅子の前に立ち塞がった。


「違う! 私が頼んだの! お母さん、邪魔しないで!」


 陽菜が、掠れた声で必死に叫ぶ。


「邪魔って何よ! 今外に出たら、間違いなく死ぬのよ!? お医者様だって絶対安静だって言ってたじゃない! お母さんたちを置いていく気!?」


「どうせ死ぬもん! ここにいたら、ただの『102号室のガン患者』で終わりじゃん! 私、そんなの絶対に嫌だ!」


 陽菜は点滴の針の痕で黒ずんだ腕を振り回し、母親の手を乱暴に払いのけた。


「嫌だよ、お母さん……っ。私、幹也くんの彼女として死にたいの……。このままじゃ、私の人生、全部病院の消毒液の匂いで塗り潰されちゃう……!」


「そんなのどうだっていい!」


 母親の絶叫が、病棟の静寂を引き裂いた。


「ただの患者でも、管だらけの死体みたいになっても、どうだっていい! 息をしててくれればそれでいいの! 一秒でも長く生きててよ! お母さんから、陽菜を奪わないでよ……っ!」


 床に膝をつき、車椅子の泥除けにしがみついて泣き喚く大人の姿。俺の喉は完全に干からび、一歩も動けなかった。正解なんてない。ただ、娘の命の端切れにすがりつく母親の姿が網膜に焼き付き、胃液が込み上げてきそうだった。


「……よせ、母さん」


 背後から、低く掠れた声がした。


 立ち尽くしていた父親が、ゆっくりと歩み寄り、泣き崩れる妻の肩を抱き起こした。


「あなた……っ、でも、陽菜が」


「もう、止められない」

 

 父親は、充血した目で陽菜をまっすぐに見つめた。


「この子のこんな我が儘な顔、病気になってからずっと見てなかった。……ただの患者にしてたのは、俺たちの方だ」


 へたり込む母親を支えながら、父親が俺を見た。徹夜明けの目。冷たくなった缶コーヒーと、濃い疲労の匂い。

 

 すれ違いざま、父親の大きくて分厚い手が、俺の肩を掴んだ。


「幹也くん」


「……はい」


「少しでも、痛がったらすぐに戻れ。……俺たちは、ここで待ってるから」

 

 肩の骨が砕けそうなほどの力。逃げ出したいほどの罪悪感が込み上げる。俺は今、この人たちから一番大切なものを奪おうとしている。


「お前は今、親から娘の最期を掠め取ろうとしてるんだ。……その命の重さ、絶対に忘れるなよ」

 

 その絶望的な手の重さに、俺は深く頭を下げることしかできなかった。


「……待って」

 

 母親がふらつく足で立ち上がり、個室の方へ走り出した。すぐに戻ってきたその手には、紙袋が握られていた。


「せめて、これ……着ていきなさい」

 

 いつか退院した時のためにと買っていたらしい、真新しいウールのコート。微かに香る新しい布とフローラル系の防虫剤の匂いが、死の匂いを一瞬だけ遠ざけた。

 

 陽菜の肩にそのコートが掛けられた直後、父親が夜の廊下の奥を鋭く睨みつけた。


「……行くなら、早く行け」

 

 親としての最後の未練を無理やり断ち切るような、血を吐くような響きだった。


「これだけ騒いじゃったんだ。じきに看護師たちがすっ飛んでくる。……行け!」


「……はい」

 

 俺は車椅子のグリップを強く握り直し、夜の闇へと続く自動ドアを潜り抜けた。

 



 タクシーで向かったのは、陽菜の自宅だった。

 

 誰もいない暗い自室はすっかり冷え切り、埃と、かつての彼女のシャンプーの匂いが微かに残っている。俺は、肩で息をする陽菜の車椅子を部屋の真ん中に止めた。


「……幹也くん。こっち見て」

 

 振り返ると、陽菜は母親が泣きながら着せてくれたコートを自ら床に落とし、パジャマのボタンを震える手で外していた。静かな衣擦れの音がして、彼女の服が足元に滑り落ちる。

 

 薄闇の中、下着姿になった彼女の身体が晒された。俺は息を呑んだ。

 

 肋骨が一本一本生々しく浮き出ている。胸元はひどく削げ落ち、レースの下着はサイズが合わず、隙間が空いていた。白い肌のあちこちには、無数の注射針の痕や痣が赤黒く変色してこびりついている。

 

 陽菜は、自分の細すぎる腕で身体を隠そうともしなかった。それどころか、俺の手首を掴み、自分の削げ落ちた胸の骨へと無理やり押し当てた。


「おい、陽菜……っ」


「逃げないで。ちゃんと触って。……気持ち悪いでしょ?」

 

 陽菜の目は、狂気を孕んだように爛々と黒く光っていた。


「綺麗な裸の思い出なんか、絶対に残してあげない。骨と皮だけの、気持ち悪くて死にかけの私の体。……これを、幹也くんの一生のトラウマにして」


「っ……」


「私以外の女の子の裸を見ようとするたびに、触れようとするたびに、この骨の冷たさと注射の痕を思い出して、吐き気がするくらい深く刻み込んで。……私だけを、特別にして」


 頭の芯が痺れた。陽菜は、自分が死んだ後の俺の未来まで、この冷たい骨の感触で縛り付けようとしている。狂っている。最高に醜くて、痛々しくて、頭がおかしくなるくらい、綺麗だった。


 俺は押し当てられた彼女の冷たい骨の感触を確かめ、そのまま彼女の細すぎる腰と背中に腕を回し、力強く抱き寄せた。


「……ああ。めちゃくちゃ冷たいし、痛いよ。……絶対忘れない。忘れてたまるか」


「……うん。忘れないで。絶対」


 俺のシャツを握りしめた陽菜の目から、ようやく子供のような大粒の涙が溢れ出した。


 


 しばらくその静かな熱を共有した後、俺はクローゼットの奥から冬のセーラー服を引っ張り出し、彼女の細い腕にゆっくりと袖を通させた。

 

 鏡の前に立った彼女の姿は、ひどくぶかぶかでお化けのように着られている。


「てへっ……変、だよね」

 

 陽菜がこちらを向いて笑おうとし、ボロボロと涙を溢れさせた。

 

 陽菜の家を出た俺たちは、タクシーを途中で降り、河川敷までの夜道をゆっくりと歩いた。

 

 冬の終わりの、刃物のように冷たい風。自動販売機の放つ無機質な蛍光灯の光が、二人の長い影をアスファルトに落としている。

 

 陽菜は俺の腕に体重のほとんどを預け、一歩進むごとに「ヒュー、ヒュッ」と苦しげな息を漏らしていた。俺のポケットの中で繋いだ彼女の左手は、どれだけ握りしめても全く温まらない。


「……こうやって歩いてるとさ」

 

 とっくにシャッターが閉まったクレープ屋の通りを抜けながら、陽菜が呟いた。


「明日も学校があって、純也くんがうるさくて、明くんが怒ってて……そういう、当たり前の明日が来るみたいだね」


「……ああ」

 

 途中の自動販売機で、一番温かいミルクティーの缶を買った。陽菜はそれを飲むことはできず、ただカイロ代わりに冷たい両手で包み込んだ。缶の熱は、彼女の命のようにすぐに奪われ、ぬるくなっていく。

 

 辿り着いたのは、深夜の河川敷。

 

 狂ったような強風が吹き荒れ、黒い桜の蕾がちぎれんばかりに揺さぶられている。


「……歌おう、陽菜。俺たちの歌を」

 

 俺は背負っていた古いクラシックギターを構えた。冷え切ったナイロン弦が指に食い込み、微かな血の味が滲む。

 

 不器用なアルペジオに乗せ、陽菜が歌い出す。だが、肺の機能はもう限界だった。サビの高音で声がひっくり返り、激しい咳き込みと共に、口元から赤黒い血がマフラーに散った。


「やだ……やだっ! なんで動かないの……っ! 息が、できない……っ」

 

 陽菜は泥だらけの指で、俺のコートの裾を必死に握りしめた。ミルクティーの缶が土の上に転がり、濁った液体がこぼれ出る。


「私、本当は死にたくない……! 悔しいよ、なんで私なの!? 明日も明後日も、幹也くんと一緒に下らないことで笑っていたいよ!」

 

 掠れた悲鳴が、風の音を引き裂く。


「純也くんが明日もドラム叩くのがむかつく! 明くんが来年卒業式に出るのがむかつく! 真奈が、私じゃない誰かに曲を書くのがむかつく……! みんなが明日を当たり前に生きるのが、むかつくの……っ!」


「幹也くんが、私じゃない誰かと大人になっていくなんて、絶対に許せない……っ!! いっそ、幹也くんのこと今ここで殺して、一緒に連れていきたい……っ!」

 

 泥を擦る細い指。血と鼻水に塗れた顔。

 

 視界が真っ赤に明滅した。

 

 ふざけんな。だったら生きろよ。俺を一人にするな。


「うるせえっ!!」

 

 俺は地面に這いつくばる彼女を力任せに引き起こし、ぶかぶかの制服越しに、折れそうな身体を抱きしめた。


「お前が死んだ後の世界で、俺にどうやって息をしろって言うんだよ……っ!」


 喉が裂けるほど喚きながら、ひび割れた唇に食らいついた。内臓を引き摺り出すような、死への恐怖を塗り潰すための獣のような噛み付き合い。


「全部俺の脳髄に焼き付けて、一生呪い殺してやる」

 

 俺がそう呻いた瞬間だった。陽菜の細い腕が俺の首に回り、彼女の歯が、俺の下唇に深く食い込んだ。


「痛っ……」

 

 血が噴き出すのがわかった。だが彼女は離さない。俺の下唇の肉を本気で食いちぎるような力で噛み締め、二人の口の中に、生温かくて強烈な血の鉄臭さが一気に充満した。

 

 狂ってる。でも、これでいい。これは、彼女が俺の身体に直接刻み込んだ、一生消えない物理的な呪いだ。

 

 ようやく彼女の力が抜け、乱暴な口づけが離れた。

 

 冷たい外気が二人の間を通り抜ける。俺の下唇からは赤黒い血が垂れていた。

 

 俺の血で唇を真っ赤に染めた陽菜は、泥だらけで強張っていた頰の筋肉を緩め、ふふっ、と笑った。


「……ほんと、さいあく」

 

 それは、自分の身勝手なエゴが俺に致命傷を与えたことを確信する、悪魔のように美しい微笑みだった。


「で、最高の……ひまつぶし、だったな……」


「……ずっと、呪ってあげるからね……」

 

 ヒュー、という微弱な音が途切れた。

 

 微笑みを浮かべたまま、彼女の瞼が静かに閉じる。俺の首に回っていた腕から完全に力が抜け、冷たい土の上へと滑り落ちた。


「陽菜……?」

 

 二十一グラム。人が死ぬ時に失われる魂の重さ。誰かが言った数字が頭をよぎる。

 嘘だ。そんな軽いわけがない。

 俺の腕の中にのしかかるこの肉塊は、世界中の何よりも重く、そして絶望的なまでに空っぽだった。

 

 冬の突風が吹き抜け、放り出されたギターの弦が哀鳴のように低く鳴る。俺の下唇の傷口が、冷たい風に触れて鋭く痛んだ。

 

 ……痛いよ、陽菜。お前のせいで、これから先、俺は血の味と、塩辛い味を感じるたびにお前を思い出すことになる。

 

 腕の中で永遠の眠りについた顔を見つめる。ぶかぶかの制服、泥だらけの頰。そして、俺の血で赤く染まったまま、自分勝手な呪いを残して満足げに微笑む唇。

 

 赤松陽菜は――最後の最後まで、間違いなく俺の“一等星”だった。


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