第2話・ルール
第2話・ルール
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「千門ホテル」――初雪は自信たっぷりにその名を口にした。
オレはすでに聞いていたが、他の二人にとっては初めての単語らしい。
「怪異って何ですの?魔物の一種?それに千門ホテルがこのダンジョンの名前なの?もっと詳しく説明しなさいよ!」
アイリスが困惑した様子で身を乗り出す。一方、隣のファティラは「千門ホテル」という単語に何か思い当たるように、ぼんやりと口を開いた。
「……ああ~、きみたちはあの『噂が現実に影響する』地球の住人か……話すだけで疲れた……」
「おや?キミもボクたちの世界のことを知っているのか?」
「……輪廻転生を司る転生の女神だから、世界の基本的なあらすじくらいは把握しているわ……地球シリーズの世界はたくさんあるから……今覚えているのは、戦乱の地球、宇宙時代の地球、礎が存在する地球、末世の地球、普通の地球……そして、きみたちの『噂が現実になる』地球……ふみゃー、がぶっ」
話の途中でファティラは勢いよくテーブルに突っ伏し、顔面から激突した。
「うわっ!?いきなりどうしたの!?」
「おい、大丈夫か!?急に倒れるなよ!」
オレは慌てて彼女を抱き起こした。鼻血がだらりと流れている。
神様の血も普通に赤い――いや、今はそんな感想を考えている場合じゃない、早く止めないと。
「初雪、鞄にハンカチあるか?」
「もちろん、レディーだからね。ほれ、持っていけ!」
「女神様、失礼します」
オレはハンカチで丁寧に鼻血を拭い、なんとか止血した。
「どうして急に倒れたんだ?体調悪いのか?」
心配して尋ねると、ファティラは眠たげな目をこちらに向けた。
「……きみは良い人間だな、好き。死んだ後、カルマの許す範囲で良い世界に転生させてあげる……わたしが倒れた原因は、単純に一気に話しすぎただけ。息が切れるの……」
「うわー、わたくしラランド王国では、そんなに身体が弱いのは病人と幼子だけだったわ……本当に女神様なの?」
「……わたしにもわからない……本来のわたしはすごかったぞ~。溜め息一つで多次元を揺るがすほど強く、他の神々より格が違う……でも、感情が薄くて怖がられて、魂の狭間に隔離され、転生の女神を任された……休むことなく魂を回し続ける機能を持っていたはずなのに……ここで目覚めたら、全部消えていた。無気力……」
「ふむふむ。その話が本当かどうかはさておき、大体『奪われたもの』と関係ありそうだな。後でまとめて説明するから、まずは千門ホテルの話に戻ろう」
*
先ほどの小さなトラブルが一段落すると、初雪は軽く咳払いをして説明を再開した。
「コホン、コホン。では再開するよ。怪異とは、簡単に言えば『噂から生まれた現象』のようなものだ。そしてこのホテルの噂は――」
――世界の狭間に一つのホテルが存在する。あそこはランダムに世界中から訪客を招き、無形のものを本人すら気づかぬまま奪う。もし戻りたいなら、もし奪われたものを取り戻したいなら、無数の扉の中から唯一の出口を探せ――
「え、それだけ?」
「なんか……妙に雑ですわね」
「……明確性が足りません」
それぞれの感想が飛び出す。初雪は苦笑しながら続けた。
「うん、初期に記録された文献を見ると、昔の千門ホテルはもっとカオスだったらしい。今の情報はボクたち解明者が脱出者たちから丁寧にインタビューして整理したものだ。ほら、このメモを見てくれ!」
初雪はノートをテーブルに置いた。
「この文字……読めませんわ。言葉で説明しなさいよ」
「……うん、同意」
「これはボクの考え不足だったな。助手くん、任せた!」
「オレが?まあいいけど……どれどれ」
オレはノートを読み上げながら、できるだけわかりやすく説明した。
――
ここの主な構成要素は以下の通りだ。
1.中央ロビー――死亡した時の復活ポイント。
2.無限に熱々の美食を提供する食堂。料理の種類は訪客によって変わるらしい。
3.浴場――入るたびにテーマが変わる大型混浴。男女の区別はなく、中に置かれたタオルを使え。
4.廊下――千の扉が並ぶ果てしない通路。
5.客室――間違った扉を開けると到達する特殊空間。部屋内の『課題』をクリアしないと廊下に戻れない。
ルール:
1.入った瞬間に一人一つ、無形のものを奪われる。脱出時に返却されるが、何を奪われたかは出るまでわからない。
2.視界の外に出したものは自動的に元の位置に戻る。
3.訪客の安全は保証される。死んでもロビーで完全復活。
4.出口の扉は毎回ランダム。全員が一度に死亡すると、出口の配置がリセットされる。
――
「ちなみに、今の千門ホテルは噂が噓をハマったの結果だぞ。ボクたちの努力の『弱体化バージョン』なんだ。本来の噂では扉の数は千ではなく無限で、『無限門ホテル』と呼ばれていたらしい。無限の扉から出口を探すなんて、ほぼ不可能な任務だったはずだよ」
「なら、されに数を減らしたなら良いすわねー」
アイリスの文句に、初雪は真面目な顔で頷いた。
「百門以下にすると普通のホテルと区別がつかなくなり、別の亜種怪異が生まれる可能性がある。今の千門が、噂のバランスを保った限界点らしい」
「あら、そう。仕方ないならわたくしも納得するわ」
「ついでに、今の最短脱出記録は五分。出口がたまたま001番で、最初の扉を開けたら普通に帰れたらしい。遅刻もせずに会社に出社したとか」
「運のいい奴はどこにでもいるわね……」
説明が終わると、テーブルに座る全員が改めて自分の置かれた状況を理解したみたい。
*
「それじゃあ、次は各自が何を奪われたか確認しよう。ボクは特に異常を感じないからわからない。だ~か~ら~、明確に影響を受けている助手くんから始めよう!」
初雪が人差し指でオレを指名した。
まあ、オレが一番重症なのは確かだ。仕方ない。
三人の視線が突き刺さる中、オレは口を開いた。
「はい。オレは自分に関する記憶がほとんど思い出せない。名前も家族も、過去の自分が何者だったかすら真っ白だ。自分の名前を考えようとしても、何も浮かばない……まるで最初から存在しなかったみたいに。」
「説明ありがとう。これはボクの推理だけど……自分に関する記憶が欠落している状況から考えると、もし『過去の記憶全部』が奪われたなら、知識や常識まで消えているはず。でもキミはそれらが残っている。だから、おそらく奪われたのは『経歴』や『自分自身の物語』に関わる部分ではないかと推測するよ。」
経歴……なんか納得できる。
オレはどうやって今の性格になったのか、持っている知識はいつ・どうやって学んだのか、心当たりが一切ない。
初雪の言う通り、つながるべき「過去」が消えたせいだ。
「反論はないみたいだね。では次、あそこの女神様ファティラ、キミは?」
初雪が名前を呼んでも反応がない。
「すっー……すっー……すっー……」
なぜなら彼女は椅子に座ったまま、再び夢の世界へ旅立っていた。
――いつの間に!
「ほら、起きてください。起きろって。あなたの番だよ。何か奪われたものに心当たりある?」
オレが肩を揺すると、ファティラはようやく重たげに瞼を半分だけ開けた。
「……ん……なに~?わたしの番?……失ったものは山ほどあるわよ。元気……あ、これは過労だからノーカウントね。神様なんて年中無休のサービス業みたいなものだし……破壊の力、体力、帰還の力……転生の女神としての力はほとんど使えなくなったわ。『転生の権能』と『カルマ裁きの権能』は対象がいないから試しようがないし……あ、ここでは死なないらしいから、仕事に必要ない~。ふふふ、ふはは~……ついにわたしの時代が来たわ。さらば、牢獄~」
……女神も大変だったんだな。
「ふむ。まとめて考えると、奪われたのは『女神としての力』だね?」
「……異議なし~……すごいね、人間はこんな貧弱な身体で生きてるの……わたしは呼吸するだけで精一杯……でも、意外と悪くないかも。勝手に動くも、ものが壊れないし……眠い……すっー……」
ファティラは同意するや否や、再び瞼を閉じて眠りに落ちた。
「……なんか彼女と話してると、自分の調子まで狂ってくるな。最後はアイリスちゃんだ。」
「誰がアイリス『ちゃん』ですの!馴れ馴れしいわね!わたくしたちは初対面でしょう、平民め。ちゃん付けは禁止よ!……わたくしはいつも通り完璧で、何も失っていないわ!」
そう言いながらも、彼女の表情は意外と悪くなさそうだ。
「へえ、ならボクと同じ、仲間だね!」
「もうー、軽気でわたくしの手を繋がないで!」
初雪が友好的に手を伸ばすと、アイリスは即座に振り払った。
「あら、振られちゃった。すごい力だな。」
「当然よ。わたくしラランド王国は個人の武力を重視するの。父上なんて単身でドラゴンを狩るわ。未熟者のわたくしでも、それなりの力は持っているの!そう、魔境の森で――」
アイリスが自慢話を始めた隙に、オレはこっそり初雪に囁いた。
「もしかして、わざと?」
「見破ったか、流石ボクの助手だな。あ、もしボクの演技が下手だったせいなら教えてくれない?本気で泣いちゃう自信あるから」
……まあ、あれは彼女らしいくないから、普通に気付いた。
「…………その顔見ればわかるから、何も言わないで。3日連続で泣けるぞ……。ゴホン、疑問に戻ろう。この前彼女がパニックになった時、一人でボクたちに立ち向かってきただろう?だから少し力自慢を試してみたんだけど……やあ、手はぷにぷになのに本当に力が強い。まだ痛いぞ――」
こそこそ話していると、アイリスの声が飛んできた。
「――おい、そこ!わたくしの話、ちゃんと聞いているの!?」
ヤバい。集中しすぎて全然聞いてなかった。
オレがどうしようか考えていると、初雪がすかさずフォローした。
「もちろん聞いていたわ。アイリスはすごいね。ボクの世界とは違うから実感はないけど、剣一本で魔境の森の覇者・毒竜を討伐したなんて、きっと相当な大偉業だ。この後の課題で戦闘が必要になったら、頼りにしてるよ。」
「ふふん、平民にしてはわたくしの偉大さを理解しているじゃない。王族は平民を守るのが当然だから、遠慮なくこのわたくしに頼りなさい!」
幸い、初雪の言葉でアイリスは上機嫌に戻った。
「ねえ、それを聞いた?」
「もっちーもっちー。耳から音で情報収集するのは基本だよ。そういうの、西園寺一族代々伝わる特製カレーを作るくらい簡単だ。」
「その比喩、簡単なのか難しいのかわからないですけど……あと、その特製カレーがすごく気になります。」
「うんうん、かなり美味しいぞ~。機会があったら作ってあげる。期待してくれ、助手くん!」
オレたちの会話を聞いたアイリスも興味津々で近づいてきた。
「『特製カレー』?なにそれ、わたくしが知らない料理?」
「うん、美味しいぞ~。その時一緒に食べよう!」
初雪の誘いに、アイリスは素直じゃない態度で返事した。
「へ、へい……まあ、わたくしの口に合うことを期待するわよ。」
こうして食堂での情報共有は和やかに終了した。
やっと、探索が始まる!
「すっー……すっー……すっー……」
「あ、女神様運びは助手くんに任せた!」
「まだオレかよ!?」
*
一番前に立つ西園寺初雪が、リーダーらしく堂々と道を先導しながら、鞄からノートを取り出して周囲の様子を素早く記録していく。
その後ろをアイリスが興味津々でキョロキョロと周囲を観察し、列の最後尾ではファティラをおんぶしたオレが続いていた。
彼女の身体から、なんとも言えないほど良い香りがふんわりと漂ってくる。小柄な体型相応の軽い体重と、ポカポカとした体温が背中に柔らかく伝わってきて、女神らしい心地よさに思わず意識するようになる。
「……もっと、揺り籠みたいに優しく揺らして~」
「その注文できる力が残されたなら、さっさと自分の足で歩けよ。」
「……やだー。もっと女神に甘やかして……やだ~」
オレとファティラの他愛もないやり取りをしながら、果てしなく続く廊下にたどり着いた。
ここは暗闇の中に吸い込まれそうな、無間地獄のようにどこまでも伸びる通路だった。
両側には同じような木製の扉が延々と並び、それを区別できるのは、黄金色の金属プレートに刻まれた番号だけだ。
「うんうん~、さあ、最初の冒険に行こう!」
「テンション上がりすぎですわ。もっと冷静に……そう、わたくしを見習いなさいわよ!」
「001」と記された扉の前に立つと、初雪はドアノブに手をかけた。
「一発で出口じゃないように……一発で出口じゃないように……」
「お前、本当に脱出する気あるのかよ……」
「もちろんあるさ……でも、これは未知の怪異がボクの髪と瞳の色が変わって以来、記憶にある初めての怪異遭遇だからね。どうしても、もっと探索したい気持ちが勝っちゃうんだよなぁ~」
そして、初雪が扉を開けた瞬間――
――光の渦がオレたちを強引に引きずり込んだ。
「これは、絶対に外れだぁぁぁっ!」
オレの絶叫とともに、全員が「001号室」へと吸い込まれた。背後の扉が自動的に重く閉ざされ、廊下は再び静寂を取り戻した。




