榛色の真実1
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セシーリアはめっきりとオリビエの前に姿を見せなくなった。
季節は真夏を過ぎ、幾分かは過ごしやすくなりつつあったある爽やかな日の事である。
哲学者ファルドの講義が終わり、オリビエ達三人は昼食後の自由時間の使い道を話し合うべく噴水のそばに集まっていた。
「にしてもアホだな、お前は」
アンリオンの声に、マルケルスもまた大きく頷いた。
「なあオリビエ、もういい加減にセシーリアに謝れよ。セシーリアの奴、俺とアンリオンにまで冷たいんだ」
マルケルスがぼやくと、アンリオンが溜め息をついた。
「この間、神殿の前でセシーリアに声をかけたら、アイツ何て言ったと思う?『あら、今日はあの路地の怪しいお店に行かないの?いいえ、別に私は非難なんてしてないのよ。あなた達は男だし仕方ないわ。あ、そうだ!あのお店のセシーリアさんによろしくね』だと!ラティア帝国の王女の『よろしく』を売春婦に伝えられるかっ!」
アンリオンがセシーリアの声色を真似たのが思いの外良く似ていて、これにはさすがにオリビエも苦笑した。
「店のあの娘の名は、セシーリアじゃないんだ」
「知ってるさ、そんなことは!」
「だから謝れと言ってるんだ。お前、セシーリアに少しだけ似ているあの娘を、アイツの代わりにしたんだろ」
「…………」
「大体なぁ、なんでお前だけセシーリアに使用人みたいな口きいてるんだよ。アイツは王女だが、俺達は幼馴染みじゃないか」
「…………」
「好きなんだろ?セシーリアが」
噴水の前の石畳に寝転がり、空を見たままマルケルスはポツンと呟くように言った。
「いつまでもウジウジしてると、シーグルに盗られるぞ」
アンリオンがオリビエを肘で付くと、武術練習場を顎で指した。
オリビエがアンリオンの脇から眼下の練習場に眼をやると、シーグルがグラデス(短剣)を手に、一番隊の歩兵隊長に訓練を受けているところだった。
「なあ知ってるか?シーグルのグラデスの腕前が一段と上がってるのを。アイツ、柔術もやってるみたいだ。しかも弓の技術は近衛兵の弓矢隊長に匹敵する程だぜ?!」
「ああ……知ってる」
兄であるオリビエがそれを知らないわけがなかった。
16歳のシーグルにスティーダ(長剣)は体力的に無理だとしても、グラデスならそれほど重くなく扱いやすい。
それに弓矢に関していうなら、シーグルは先天的に優れていた。
弓を引く際に使う特別な筋肉の発達、すば抜けた集中力と思いきりの良さ。
近射であろうが遠射であろうが、よほどの強風でない限りシーグルが的を外すことはまずなかった。
オリビエは歩兵隊長相手にグラデスを付き出すシーグルを見つめながら思った。
『兄さんにセシーリアは渡さない!』
憎しみの光を宿しながらも泣き出しそうな顔でこちらを睨んだシーグル。
あれ以来、シーグルはオリビエにまとわり付かなくなった。いつも三人の後を付き回り、何でも真似したがっていたというのに。
今では独りで勉学に励み、独りで武術の腕を磨く。
……もしかしてシーグルは、本気でセシーリアを。
オリビエはシーグルの信念を感じ、知らず知らずのうちに奥歯を噛み締めた。
「うわあっ……!」
その時、小さな悲鳴が聞こえた。
歩兵隊長が、グラデスを突き出し懐に攻め込んできたシーグルの腕を脇に挟んで動けなくした直後、素早く彼のふくらはぎを自分の足で跳ね上げたのだ。
砂埃と共に、シーグルの身体が地に倒れた。
「クソッ……!」
シーグルの汗にまみれた身体を起こしながら、歩兵隊長は満足そうに笑った。
「シーグル。グラデスは接近戦で最も有効なだけに、相手との距離が近い。力に加えて俊敏さや狡さも必要になるんだ。グラデスだけに頼ると勝てない」
「はい、エリスさん」
「いいか。武器ばかりに頼らず、組み技も学べ。引き続き柔術の訓練は怠るな」
「はい。今日はありがとうございました」
胸の前で腕を組み敬意を表すと、シーグルは流れる汗を拭いながら歩兵隊長を見送る。
その様子を小高い噴水の広場から見ていた三人は、シーグルの息を詰めるような練習風景に眼を見張った。
「おい、アイツ一体どうしたんだよ」
「見ろよ、あの身体つき。ガキだとばかり思ってたのに」
「シーグル!!お前、すげぇな!」
アンリオンが声を張り上げてシーグルに手を振ると、弾かれたように顔を上げたシーグルが三人を捉えた。
途端にオリビエとシーグルの視線が絡む。
シーグル……。
瞬間、シーグルが白い歯を見せて三人に手を振り返した。
「油断してると追い越すからな!」
「生意気だな、お前!」
「百年早いぞ、シーグル!」
アンリオンとマルケルスが声をたてて笑った。
その時、
「シーグル!」
北側の入り口からセシーリアが馬に乗って練習場に入り、そのまま中央にいたシーグルの傍まで駆け寄った。
「セシーリア、どうしたの?」
シーグルが額の汗を拭いながらセシーリアを見上げて笑った。
「訓練終わったの?もし終わったならお昼を一緒に食べましょう」
「ああ」
「乗って」
「いいよ、セシーリアの服が汚れる。汗だくだし砂だらけなんだ。後で落ち合おう」
「だめ!一緒に行きたいの!いいから乗って!」
そんなセシーリアにシーグルが諦めたように苦笑した。
「……分かった」
馬の首元に移動したセシーリアから束ねた手綱を受け取ると、シーグルは左手でそれを持ち直し、鐙に足をかけて勢いよく馬にまたがった。
それからセシーリアを両腕に囲うようにして、手綱を引く。
「行こうか」
「うん」
「……おいおい……恋人同士か、あれは」
マルケルスが、仲良く馬に乗って練習場を後にした二人を見送りながら溜め息をついた。
「まあ、ウジウジしてる誰かさんよりはセシーリアに相応しいか」
冗談めかしてそう言ったアンリオンの言葉が、火種となりオリビエの胸に焦げ跡を作った。たちまちそこが燻り、どす黒い煙が身体中に充満する。
『油断してると追い越すからな!』
オリビエの心に、シーグルの言葉がいつまでも響いていた。
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「セシーリア様、なんですかこれは」
セシーリアの指導役として四年前から城に上がっているマリアが、幽霊でも見ているような顔でセシーリアの渡した布を見つめた。
「なんですかって、刺繍よ、刺繍!」
「雑巾の間違いでは?!」
……言ってくれるじゃないの。
ここ何日もかかって仕上げた刺繍を、雑巾と言ってのけるなんて。
セシーリアは完成したばかりの『雑巾』を破り捨てたい気持ちになりながら唇を引き結んだ。
一方マリアも王女相手だと理解はしていてもこの憤りを抑えることが出来ない。
セシーリアは、刺繍が下手すぎる。
ラティアの国花である薔薇の刺繍を教えたはずが、セシーリアの作り上げたものは薔薇には程遠く、百歩譲ったとしても到底花には見えなかった。
いや、花というよりはもはや血を拭き取った後の布にしか見えない。
その上彼女の指には無数の刺し傷が跡になっていた。さて、どうしたものか。
四年間も教えているのにまるで上達しないなんて。このままでは私、クビになるかも知れないわ。
マリアが深い溜め息をついた時、セシーリアが悪びれる様子もなくサラリと言った。
「ねえマリア。正直に言うけど刺繍なんて何の役にも立たないと思うのよ。まだ料理のがマシじゃない?」
料理……。この王女が、料理……。ブルッと身震いしてマリアは口を開いた。
「セシーリア様。貴女は王女ですよ?王女様が料理など……あり得ません」
「じゃあ剣術」
「貴女は軍人ではありません」
心底呆れ返っているマリアを見て、セシーリアは思った。
「……他国の王女は一体どうしているのかしら」
詩の朗読と、刺繍、それに歌を習っているの?
「少なくとも剣術も弓矢も格闘技もなさらないと思います」
「そうなの?!」
本気で驚いているセシーリアに、マリアは再び溜め息をついてから口を開いた。
「セシーリア様は女性なのですから、武術など習わなくてもいいのです。それはこの国の軍人の努め。貴女には護衛係が付いておいでになります。守られておくのがあなたの仕事なのです」
護衛係……。
セシーリアが公の場所に顔を出す際には、正式な護衛役が必ず傍に付いているが、普段はレイゲンが自分の息子であるオリビエをその役に命じていた。
『僕はあなたの護衛役です。それに、貴女の世話係でもある。今後はこのような振る舞いをなさるのは控えてください』
オリビエはこう言ったっけ。どうしているのだろう、オリビエは。
セシーリアはあれ以来……街の売春宿での一件以来、オリビエには会っていなかった。
マリアが帰っていった後、セシーリアは一人きりになった部屋で窓の外を見つめた。




