小さな恋《2》
ふたりを取り囲んだ男達はアデルとオリビエの健闘を称え、掌を打ち鳴らして歓喜した。
……終わった……よかった……!
全身の力が抜け、セシーリアにどっと疲労感が押し寄せる。今更気付いたが、緊張のあまり全身にビッショリと汗をかいていた。そのせいで、夜風に吹かれると夏の夜だというのに肌寒い。
「ハックシュン!……わっ!」
クシャミをひとつして一瞬閉じてしまった眼を開けると、練習場にいるオリビエと突然視線が絡んだ。
あ……!
オリビエは一瞬驚いた顔をしたものの、すぐにセシーリアから視線を反らすとアンリオンを見つめて弾けるように笑った。
……オリビエ……。
なんと遠いのだろう、オリビエは。それになんとバカなんだろう、私は。
セシーリアは手綱を引くと、もと来た方向へと馬の頭を返した。
オリビエが……あんなに強かったなんて。
オリビエは18歳だが、近衛兵の二番隊員であるアデルは20歳以上である筈だ。何故なら近衛兵隊には20歳以上の男性で厳しい試験に合格しないと入隊できないからだ。
普通の18歳の少年が、負けこそしたが近衛兵をあんな風に本気にさせるなんて。
考えれば考えるほど、セシーリアは眉を寄せた。
……じゃあ何故……オリビエはいつも私に勝てなかったの?
当然だが女で17歳のセシーリアは、アデルの足元にも及ばない。
なのにそんなセシーリアに、オリビエは毎回負けていた。肩で息を繰り返し、いつも地に膝をついては「参りました。セシーリア様には敵いません」と……。
そこまで考えた時、セシーリアは屈辱のあまり全身がカアッと熱くなった。
私は……オリビエを打ち負かしたと得意になっていた。なのに、なのに。オリビエは、私に勝てなかったのではない。『故意に勝たなかった』のだ。
セシーリアの全身が震えた。途端にオリビエの、榛色の瞳が脳裏に浮かぶ。
今すぐ『何故』と問い詰めたい気持ちと、その答えを聞くのが怖いと思う矛盾した胸の内に、セシーリアは戸惑い、泣き出したかった。
練習場のすぐ隣にある近衛兵の宿舎の前で馬を降りると、そこで待っていた近衛兵に手綱を渡し、腰のマントを外して返した。
「姫、宮殿までお送りします」
セシーリアの暗い表情に眉を寄せ、近衛兵は心配そうにそう言ったが、セシーリアは首を横に振った。
「大丈夫よ。散歩に出てきたの。だから歩いて帰るわ。馬をありがとう。マントも。嬉しかった。おやすみさい」
近衛兵はマントを受け取りながら、嬉しかったと言ったセシーリアを見つめた。
小さく形の良い輪郭に、知性を感じる額、通った鼻筋に大きな二重の印象的な瞳。そのマラカイトグリーンの瞳は一点の曇りもなく清々しく純粋で、誰もを魅了するほどに美しい。均整のとれたセシーリアの後ろ姿を見つめながら、近衛兵は思った。
この娘がラティアの姫で良かったと。
*****
「セシーリア様」
広く長い中庭をトボトボと歩き、一番大きなダビディアの樹のすぐ脇を通りすぎようとした時、小さな声と共に何者かがセシーリアの腕を掴んだ。
オリビエだった。
大回りしてセシーリアを待ち伏せしたオリビエが、乱れた息を整えながらダビディアの樹の陰に彼女を優しく引き込んだ。
「……なに」
セシーリアの表情は固く、その声は微かに震えていた。オリビエは身を屈めてそんなセシーリアの瞳を覗き込んだ。
「どうして練習場に?」
低くて優しい声がセシーリアの耳に届く。
「……別に」
オリビエの逞しい肩や筋肉の張った腕がセシーリアの間近にあり、その首から滴る汗が蜂蜜色の光に反射して流れた。たちまち鼓動が跳ね上がり、セシーリアは思わず顔を背けた。
「……離して。嘘つきは嫌いよ」
「セシーリア様」
徐々に感情を隠しきれなくなり、セシーリアは顔を歪めた。
「近衛兵相手にあんな風にスティーダを使いこなすなんて。お前は私をバカにしていたのね」
セシーリアの大きな瞳から涙がこぼれ、頬に一筋の線を描いた。
「僕はバカになど……」
「してるわ!いつもそう!お前は私を疎ましく思っているのでしょう?!ならもう護衛役も世話係にもなってもらわなくて結構よ!」
「セシーリア様」
「オリビエ。お前とはもう会いません」
「待ってください、セシーリア様!僕は……」
セシーリアは身を翻すと一気に走り出した。脇目もふらず宮殿を目指し、自室に飛び込むと寝台に突っ伏して泣いた。
あまりにも小さな恋が砕けて粉々になり、胸に突き刺さるようで、セシーリアは泣くより他にどうすることも出来なかったのだ。
******
「まあ、どうしたのです、セシーリア様。そんなに眼を真っ赤に腫らして」
アメリアは、セシーリアの部屋へ入るなり驚いて立ちすくんだ。
「……アメリア。私、朝食は要らないわ。お父様とお母様には少し熱っぽいだけだと伝えておいて。医者も必要ないからって」
寝台からアメリアを少しだけ見つめ、すぐに俯いたセシーリアに歩み寄ると、アメリアは床に膝をついて彼女の手をそっと握った。
アメリアにはセシーリアが何も言わずとも、この涙の理由が分かっていた。それは病弱であったセシーリアの母ラティア女王の代わりにセシーリアの傍を片時も離れず、身の回りの世話をし、育ててきたからこその業であった。
アメリアは確信していた。17歳になったセシーリアは、恋をしているのだと。我が子のように愛し、大切に育てたという事実を差し引いて見てもセシーリアは息を飲むほどに美しい。
整った顔にありがちな冷たさは微塵もなく、性格から滲み出る愛くるしさが、見るものを魅了してやまないのだ。
ついこの間まで子供だと思っていた身体はいつの間にか成長し、伸びやかな肢体は美しい。その上、絞り上げたようにくびれた腰は同性から見ると憧れであり、異性から見ると悩ましいものであるに違いなかった。
「アメリア。私の恋は始まりを迎えることなく終わってしまったの」
アメリアは悲しみに打ちひしがれているセシーリアを愛しく思いながら、優しく声をかけた。
「セシーリア様。人の想いというものは黙っていては伝わりません。ましてや男と女の想いは」
セシーリアはラユラと悲しみに揺れる瞳を少しだけ上げて、アメリアを見上げた。
「けれど、彼は私を嫌いみたい」
「その方は、ハッキリとそう仰られたのですか?」
セシーリアが力なく首を振った。
「でも、冷たいもの……」
「こんなにお美しいセシーリア様に簡単に愛を告げられる人間などこの国にはおりません。あなたを目の前にすると、同性ですら頬が染まってしまいます。元気を出してくださいませ。まだダメと決まったわけではありません」
アメリアは、それ以上の慰めの言葉が言えなかった。
一国の王女という立場上、セシーリアのこの恋が実を結ぶ見込みなどないからだ。
いずれセシーリアは国同士の潤滑油としての役割を果たすため、他国の第二以降の王子を婿に取るだろう。自由な恋が出来るのは今しかない。
だからと言ってほんのひとときでも通じ合えた恋の甘さを身体に刻み付ける事が、果たしてセシーリアにとって真の幸せかどうか、アメリアには分からなかった。
せめぎ合う心に答えを見出だせず押し黙るアメリアを見て、セシーリアはポツンと呟いた。
「ごめんなさい、アメリア。あなたを困らせてしまったわね。……分かっているの、自分の立場は」
アメリアは息を飲んでセシーリアを見つめた。
「セシーリア様……」
「初恋は実らないと言うわよね」
セシーリアが真っ赤な眼でフワリと笑った。
「お風呂に入ってくる。アメリア、もう大丈夫だから心配しないで。じゃあね」
アメリアは、部屋から出ていこうとするセシーリアの後ろ姿を見つめて思わず胸に手をやった。
あまりにも早い速度で大人へとならなければならない王女に、胸が痛んだのだ。




