ラティアの薔薇《2》
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「あっははははは!見た!?メイヤのあの顔!」
「見た見た!しかもさ、あんまり全速力で走ったものだから、俺の麻袋から魚の頭が飛び出してさ、後頭部に刺さるところだった!」
「あはははっ、バカよバカ!自分の釣った魚が頭に刺さるなんて」
植え込みの間を抜けながら、セシーリアはシーグルを振り返って笑った。
「先に馬宿に寄って竿を返しに行きましょう。それからザイルに炊事場を借りて魚を焼きましょ」
「うん」
その時、
「セシーリア様」
……オリビエだ。
今朝、仲違いしたダビディアの樹の傍に、オリビエが立っていた。
「なあに、オリビエ」
少し顎を上げてぞんざいな眼差しを向けるセシーリアを、オリビエは静かに見つめた。
「……少し話があります」
「なんだよ、兄さん!今から俺とセシーリアは魚を」
「シーグル。お前は黙っていろ。竿と魚を持って先に戻れ」
オリビエはシーグルを鋭い眼差しで射抜くように見ると、再びその瞳をセシーリアに移した。
「……分かりました」
シーグルにとって四歳年上の兄であるオリビエは、本気で怒らすと恐ろしい相手である。
「じゃあね、セシーリア。魚は……料理長に渡しておくよ」
シーグルが早足で去り、セシーリアとオリビエの間に寒々しい空気が漂う。それは夕暮れの頼りない明るさも手伝い、互いに奇妙な焦りを生んだ。
「……なに?」
「僕はあなたの護衛役です。それに貴女の世話係でもある。今後はこのような振る舞いをなさるのは控えてください」
オリビエは言い終えるや否や、唇を引き結んでセシーリアを見据えた。一方セシーリアは、オリビエのその言葉に笑いそうになった。
……護衛役?確かこの間グラデス(短剣)で剣術試合をした時、勝ったのは私だったじゃないの。そのもっと前の、スティーダ(長剣)の時も。
剣術も馬術もあと一手のところでいつもセシーリアはオリビエを打ち負かしてきた。それをどの口が言っているのかしら。
「頼りない護衛はただの足手まといよ。それに城の周りには五番隊以上の近衛兵が常に配置についてるじゃないの。だからこそ門兵も、私が川に行くのを許してくれているのよ。あなたがいなくても問題ないわ」
セシーリアはオリビエを真正面から見据えると、薄ら笑いを浮かべてこう言い放った。
確かにラティア帝国の王族の住み処であるこの城は、周囲を深い森と湖に囲まれた小高い山の上にあり安全性は高い。しかもその城壁は敵の侵略を許さぬ高さを誇っている。
だが。
オリビエはああ言えばこう返すであろうセシーリアを恨めしく思った。
「…………」
……ほら、何も言えないじゃないの。セシーリアは続けた。
「お父様はどうしてお前を護衛役に選ばれたのかしら。アンリオンかマルケルスのが男らしくて逞しいのに」
アンリオンとマルケルスもオリビエと同じく、セシーリアの父ラティア皇帝の側近の息子達である。
彼らにも兄弟はいるが、セシーリアとオリビエ、それにアンリオンとマルケルスはとりわけ仲が良かった。
「…………」
どうしてなにも言わないの。
何も言わないのに不満そうに榛色の瞳を真っ直ぐこちらに向けるオリビエを、セシーリアは腹立たしく思えた。
通った鼻筋、切り込んだような二重の眼。それに控え目だが軽薄さを感じさせない適度に厚みのある唇。
セシーリアはそんなオリビエの端正な顔を見つめているうちに、自分の鼓動が徐々に早くなるのを感じて唇を噛んだ。
悔しい……人の気も知らないで。
そう。オリビエは何も分かっていない。分かっているのはセシーリア本人だけだ。
セシーリアはとうにこの感情の名称を知っていた。何故ならこの感覚はセシーリアの愛読本である《星霜の彼方》で主人公の王女が、見目麗しい隣国の王子に抱いたそれと寸分違わなかったからだ。
王子に恋をした時の感覚を、本の中で王女はこう示していた。
『ああ、私は分かっているのです、この想いの正体を。あの方の眼差しや、ひとつひとつの仕草が全て私にとっては意味を持つようになってしまいました。あの方を想う時の私は、たったひとりで小さな小舟に乗り、大海原へ出てしまったような気になります。ある時は激しく心臓が脈打ち、またある時は温かいものに包まれ、フワフワと羽が生えたように浮きそうになります。そしてたちまちのうちにその心地よい感覚から、稲妻に撃たれでもしたかのように両手両膝をつき、打ちひしがれてしまうのです。この感覚は恋以外のなにものでもありません。イザボー、あなたは笑うかもしれませんが、どうしようもないのです。私の全ての感覚があの方へと向かっていってしまうのを、私は止める術を知らないのです』
……恋。そう、これは恋なのだ。私はオリビエに恋をしている。
今思えば、セシーリアはずっと前からオリビエを好きだった。
仲間を大切にする優しい性格、柔らかい物腰、そしてなによりいつでもセシーリアを真正面から受け止めてくれようとする態度。
最初セシーリアはそれを勘違いしていた。きっとオリビエも自分を好きだと。けれど次第にそれは違うと思い始めた。それはオリビエが何も語らないからだ。
だって恋って、相手を知りたいと思うのと同じくらい自分の事だって知ってもらいたい筈でしょう?でも、オリビエは……そうじゃない。
何一つとして、オリビエは自分というものをセシーリアに見せたりはしないのだ。彼はセシーリアを一国の王女としか見ておらず、常に礼儀正しく卒のない態度で接する。
……この先も?
この先も私とオリビエはこのままなのだろうか。じゃあ、私がこの想いをオリビエに告げたら?私の思いに気づいたら、オリビエは私を一人の女としてみてくれるのだろうか。
……いや……分からない、怖い。
「セシーリア様、お約束を。今後一切、僕を振りきって何処かへ行かれなどなさらないように」
オリビエの冷たい声がセシーリアを思考の旅から連れ戻した。
「断るわ」
「セシーリア様」
オリビエが榛色の瞳に僅かに苛立ちの光を浮かべた。セシーリアは、わざとそれを無視して言い放った。
「馬術も剣術もお前が私に敵うものは一つもない。全てにおいてお前が私の上をいくなら、何でも言うことを聞いて上げる。でも」
セシーリアは、一旦ここで言葉を切ってオリビエを見据えると、唇の端をグッと引き上げて続けた。
「私にお前が負けたなら……今後一切、私の行動に口を挟まないで」
「セシーリア様……」
セシーリアはオリビエの視線を断ち切るかのように踵を返し、その場を離れた。
縮まらないオリビエとの距離が、切なかったのだ。




