ラティアの薔薇《1》
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「オリビエ!魚を釣りにいきましょう!」
セシーリアの声に、オリビエはギクリとして息を飲んだ。
爽やかな風が城内を吹き抜け、宮殿の前の池の水面をキラキラと揺らしている。そんな光景を見る余裕などなく、オリビエは慌てて首を横に振った。その拍子に彼のサラリとした絹のような髪が揺れ、湿気を纏った唇にその数本が貼り付く。
「セシーリア様、ダメです。僕が父上に怒られてしまいます」
……本当にオリビエは面白くないわ。
自分の父親でありラティア帝国きっての軍師でもあるレイゲンの眼に、オリビエは怯えているのだ。
「オリビエ。レイゲンには私からちゃんと言ってあげるわ。それでお前も怒られなくてすむでしょう?」
「いえ、でも」
オリビエは勝ち気なマラカイトグリーンの瞳を直視できなくて、斜めに視線をそらした。
セシーリアは、まるで分かっていないんだ。それじゃダメなんだよ。
ラティア帝国に仕える父上が、皇帝陛下のひとり娘であるセシーリアに首を横に振るわけがない。
……けれどどうせ後で僕が叱られるんだ。セシーリアは僕に皺寄せが来るなんて微塵も予想していない。ああ、これを許してしまうと僕はまた父上にこう言われるんだ。
『オリビエ。お前はセシーリア姫の護衛係だ。そのお前が姫に振り回されてどうする?!これでは代々ラティア王家に仕える我がドゥレイヴ家の名折れだ』
父……レイゲン・ドゥレイヴは、いつもオリビエにこう言っては彼を一瞥する。
「ああ、もう!お前はいつもそうね!なんてナヨナヨしているのかしら!」
大袈裟に溜め息をつき、普段大きな眼をわざと細めてセシーリアがそう言うと、オリビエは突っ立ったままとうとう俯いてしまった。屈辱のあまり眼の縁を赤く染めて。その時、
「セシーリア、じゃあ俺と行こうよ!」
ジャリッという音が二人の後方からしたと思うと、ダビディアの樹が一際揺れた。
「まあ、シーグル!また木登り?」
「そ。ここからの眺めは格別だからね。そんな事よりセシーリア、俺と魚釣りに行こう!兄さんなんか放っておいて」
オリビエよりも少し濃い榛色の瞳が勝ち気な輝きに彩られていて、それがシーグルの無邪気さを物語っている。
「シーグル!お前はあっち行ってろ!」
シーグルの言葉にオリビエがムッとして口を開いた。
「そうね、シーグル。行きましょう」
「うん!セシーリア!」
「……待ってください、セシーリア様」
焦ってそう言ったオリビエを憮然とした顔で見ると、セシーリアは冷たく言い放った。
「オリビエは付いてこなくていいわよ。せいぜいレイゲンのご機嫌でもとっておけば?シーグル、行くわよ」
「うん、セシーリア」
取り付く島もない。
オリビエはポツンと中庭に取り残され、弟と王女の遠ざかる後ろ姿をただ見つめる事しか出来なかった。
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セシーリアは面白くなかった。……なぜオリビエはああなんだろう。いつも一歩引いた場所にいて、私を腫れ物のように扱う。いくらセシーリアが近づこうとしてもその分だけ下がり、オリビエは一定の距離を保ち続けているのだ。その縮まることのない距離が、セシーリアを悲しくさせる。
オリビエは……私が嫌いなのかしら……。
セシーリアは17歳オリビエは18歳である。
お互い物心が付く前から共に育ち、共に学んできた間柄である。
オリビエは物腰柔らかく、何事も一度自分の中で噛み砕き、理解してから行動する。だからいまだにセシーリアは、オリビエが取り乱すところや、感情に任せて何かを口走るのを聞いたことがなかった。
一方セシーリアはオリビエのそれとは真逆で、常に直感で行動していた。
「私よりもオリビエの方が王女に相応しいわね」
セシーリアは口に出してこう言うと、魚釣りに来た浅瀬を見つめた。
音をたてて石にぶつかりながら流れていく清らかな水を見つめていると、セシーリアの脳裏にオリビエの顔が浮かぶ。
オリビエはとても整った顔をしていて、その肢体は長くスラリとしていて伸びやかである。中性的な彼の顔立ちは、セシーリアよりも女っぽいかも知れなかった。
ああ、もう!
どうして私ばかりがこんなにモヤモヤしなきゃならないのかしら!
セシーリアは、馬宿の老番兵に借りた竿でバシッと水面を叩いた。
「うわっ!セシーリア!魚が逃げるじゃないか!今日は宮殿での夕飯はやめて、釣った魚を塩焼きにして食べる約束だろ?!」
オリビエの弟で今年16歳になったばかりのシーグルが、押し殺した声でセシーリアに文句を言うと、セシーリアはハッと我に返った。
「あ、ごめん。そうだったわ」
セシーリアはそう言うと、岩に飛び移りながら釣り場を変えるシーグルの背中を見つめた。
……オリビエとシーグルは兄弟だけど全然違う。オリビエは控えめで地味だが、シーグルは活発で天真爛漫だ。まだ精神的に幼いこともあり、ワガママも子供らしく可愛い。
「二人を足して二で割ると丁度いいんじゃないかしら」
浅瀬を流れる清流と風にあおられた木々の葉は、思いの外声をかき消す。それを知っているセシーリアは吐き捨てるようにそう言うと、大きく溜め息をついた。
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「まあ、姫様!また城を抜け出して河に行かれたのですか?!」
……なんでこんな所で女中長のメイヤと出会してしまうのかしら。
この狭い城門は、城内に勤務する使用人専用の門である。
城内に戻ってホッとした途端に見つかってしまうとは。
言い逃れできないこの状況にセシーリアがゴクッと喉を鳴らした瞬間、シーグルがメイヤに向かってニッコリと笑った。
「メイヤさんこそ、こんなところで何してるの?もしかして……門兵のうちの誰かに会いに来ていたりして……」
使用人専用の城門には、守衛兵が五人常駐している。
やだ、嘘でしょ?!メイヤといえばお堅く、浮いた話なんて聞いたことがない。チラリとシーグルを見ると、彼はこれで大丈夫と言わんばかりに得意気に畳み掛けた。
「父上が知れば、門兵の移動も……」
「バカを仰いますなーっ!!」
「……っ!!」
「……!!」
ビクッとしたセシーリアとシーグルを睨み付けて、メイヤは叫んだ。二人と仲の良い門兵達も同じくビクリと背筋を伸ばし、怒り狂うメイヤを張り付いたように見つめる。
「わ、わ、私はお二人の身を案じて申しているのでございます!城の北の川は流れがきついのですよ?!流されでもしたらどうするのです?!それに熊に遭遇する可能性もありますし、なにより誰か良からぬ者に狙われでもしたら……」
大きく息つぎをした後、メイヤは再び続けた。
「セシーリア様、あなた様はいずれこのラティア帝国をお継ぎになる身。それにシーグル様。あなたはセシーリア様を支える身でありましょう?!それなのに」
だめ、これは長くなるわ。もうこの辺で許してもらわないと。
セシーリアは、怒りを顕にして捲し立てているメイヤにギュッとしがみつくと彼女の耳元に口を寄せた。
「いつも心配してくれてありがとうメイヤ。大好きよ!」
「あらっ、まあ、セシーリア様……!」
言葉を失い、真ん丸な眼で突っ立っているメイヤの脇をすり抜けると、セシーリアはシーグルの腕を掴んだ。
「シーグル!走るわよ!」
「うん、セシーリア!」
二人は風のように走った。




