守護神ディーア《1》
「なんだと?!」
マルケルスが唸るように呟き、セシーリアは目を見開いた。
レイゲンの代わりにオリビエを人質に……?!
互いの顔を見つめ合ったオリビエとセシーリアを見据えて、カリムは僅かに両目を細めた。
……近い将来、必ずこのオリビエ・ドゥレイヴはイシード帝国……俺にとって目障りな存在になるだろう。
だが、敵ながら今ここで殺すのも惜しい。
どうせなら互いに心置きなく力をぶつけい、雌雄を決したい。
オリビエに苦い砂を食わせ、愛する女を奪うにはやはり戦しかないのだ。
「オリビエ。お前が人質になるなら父を解放しよう。返事次第ではラティアに未来はないぞ。兵を増やして国中を完膚なきまでに焼き尽くしてやる」
カリムはグッと唇を引き結ぶとオリビエを真正面から睨み付けた。
「……セシーリア……要求をのもう」
「オリビエ!」
離れそうになる腕を咄嗟に掴み、セシーリアはオリビエを見上げる。
そんなセシーリアにオリビエは顔を寄せて囁いた。
「父上をお救いするにはこれしか方法がない」
「だけど、それじゃ、」
オリビエが右手の平でセシーリアの頬に触れて少しだけ笑った。
「大丈夫だよ、セシーリア」
「だ、けど」
瞬く間にセシーリアの瞳に涙が浮かび、頬を伝った。
「オリビエ、オリビエ」
悲しみに声を震わすセシーリアに、オリビエは柔らかく笑った。
「絶対、このラティアに戻る」
「早くしないか、オリビエ」
カリムが苛ついて声を荒げた。
「マルケルス。セシーリアを支えてやってくれ」
マルケルスが蒼白な顔でオリビエに頷く。
「オリビエ……!」
別れを惜しむには短すぎる時間だった。
セシーリアもマルケルスも当のオリビエも、突然訪れたこの現実に抗うことも出来ない。
「早くこっちへ来い」
カリムが威圧的に叫び、オリビエが再びセシーリアを見つめた。
「……オリビエ……!」
「セシーリア」
「嫌よ、オリビエ」
悪い夢なら早く覚めてほしい。
誰でもいいからこんなものはただの夢だと、身体を揺り動かし目覚めさせてほしい。
その時だった。
一瞬、ほんの一瞬だけ、オリビエはセシーリアを抱き締めその唇に口付けた。
「愛してる、セシーリア。それから、強く生きろ」
オリビエ……!
歩き出したオリビエを見て、カリムは側近に頷いて見せた。
「レイゲン・ドゥレイヴを返してやれ!」
引きずるようにしてカリムの側近がレイゲンを中間距離まで運ぶと、そこで待っていたオリビエを拘束して引き返す。
「オリ……ビエ……!」
カリムが勝利感に満ちた笑い声を放つ。
その不快な声が地下通路に反響し、セシーリアは全身が裂けてしまいそうな思いがした。
力なく横たわるレイゲンの身体を、ヨルマが労るように鼻先で撫でると短く鳴いた。
「じゃあな、セシーリア王女。オリビエに会いたくばイシード帝国へ来られるがよい。俺の要求を飲むのも善し。あるいは……剣を携えて来るも善し」
ヨルマが牙を剥き出した。
「さらばだ!」
この悪夢が覚めることはなかった。
*****
「これから私は……どうすればいいの」
ラティア皇帝である父を亡くし、マルケルスの父ユリウス・ハーシアを殺され、挙げ句にオリビエを人質に取られてしまったのだ。
この状況にセシーリアは泣くしかなかった。
おまけに母である女王アイリスは行方不明である。
「泣くな!泣いたってどうにもならない」
焦げ臭い城内は、サージア兵を制圧したものの後始末に追われるラティア兵や慌ただしく作業に当たる使用人でごった返していた。
マルケルスは強い口調でセシーリアを諭すと、グッと空を睨んだ。
「泣いている暇なんかないぞ、セシーリア。使用人の責任者達と医療兵に生存者数を確認させろ。あと死傷者名簿の作成や葬儀の手配を指示するんだ。それから補償額の交渉、建物の修繕開始命令を出せ。それらと平行して今後の戦略会議。やることは山積みなんだ」
セシーリアはますます泣き出したい気分だった。
こんな事は今まで経験がなく、一体何処からどう手を着けていいかまるで分からないのだ。
「マルケルス……私には無理だわ」
「しっかりしろっ!俺が言ってる意味が分からないのか、お前は!」
振り向き様、叩き付けるように叫んだマルケルスの迫力に、セシーリアは大きく眼を見開いて息を飲んだ。
マルケルスが言ってる、意味。
『指示を出せ』
マルケルス……まさか、あなたは私に……!
ラティアの女王になれ、と。
信じられない思いで、セシーリアは強く光る黄金の瞳を見つめた。
「マルケルス……」
「軍議塔へ入る前、自分で言った言葉を忘れたのか?!今がその時だ、セシーリア」
セシーリアは胸を突かれて眼を見開いた。
それから、自らが発した言葉の重みにおののく。
『私はラティアの王女よ。いずれこの国を背負って立つ者。なら、今ここで逃げるわけにはいかないわ!』
今がその時。
私がこのラティアの女王になる時。
私が、私が。
でも……。
すぐに返事が出来ず、セシーリアは苦痛に頬を歪めた。
軍議塔に朝日が射し始めていた。
***
……来た。
守護神ディーアは天上界からセシーリアを見下ろした。
それからすぐにセシーリアの含む所を感じとり、小さく息をつくと玉座から立ち上がった。
さあ、行かなければ。
黄金のクレピスで編み上げた軍靴の踵をカツンと鳴らすと、ディーアは溶けるように姿を消した。
***
この一日前。
混乱に乗じて敵兵の隙を突くと、アイリス・ラティアは身を隠しつつ命からがら神殿へと辿り着いた。
「ラティアの守護神ディーアよ。どうか一生のお願いです。我が願いを叶えて下さい」
……アイリス……。
守護神ディーアは天界からこの状況を見るも、いても立ってもいられずハラハラしていたところだった。
最高神アンシャレクは人間の争いに神々が介入することを固く禁じている。
でなければやがてそれが神々同士の争いに発展しかねないからだ。
掟を破った神は冥界に千年封じられ、実際に罰を受けている。
アンシャレクの決め事は絶対なだけに、ディーアの仕事は人間から一方的に信仰され心の拠り所とされる事だけなのだった。
けれどだからといってディーアは何もしない神ではない。
このラティア帝国を愛しているし、なにより身も心も美しい女王……アイリス・ラティアを気に入っていた。
そんなアイリス・ラティアが、必死になってディーアへすがろうとしているのだ。
叶えてやらなければならない、ラティアの守護神として。
……けれど……もう時間がない。
何故なら、アイリスの命が間もなく尽きようとしているからだ。
人間の命が尽きると必ずイルテス神の使者が舞い降りる。
イルテスとは最高神アンシャレクから人間の魂の収集を任されている神で、命が尽きようとする者を見つけては使者に魂を抜かせて持ち帰らせる。
そのイルテスの使者がアイリス・ラティアにピタリとついてまわっている。
ディーアはイルテスの使者に向かってその美しい唇を開いた。
「イルテス神の使者よ。私はアイリス・ラティアと話がある。魂を狩り出すのは後にしろ」
「それは出来ませぬ。寿命が尽きたなら速やかに魂を出さねばならぬ決まり」
イルテスの使者は半透明の身体を空に揺らしながらこう答えた。
……融通の利かぬところはイルテス譲りか。
「所詮お前達はイルテス神の使者にすぎぬ。私と肩を並べられる身分ではない。慎め」
侮蔑の表情で見下ろすディーアにイルテスの使者は浅く笑った。
「これはこれは御気分を悪くめされたか。しかしまさに武神。その無骨な物言いは女神として雅さの欠片もない」
ぞんざいな眼差しで、イルテスの使者がディーアを見上げた。
元々、ディーアとイルテスは馬が合わない。
イルテスは争いを嫌い、軍神のディーアを野蛮な存在だと毛嫌いしていた。
人間が戦争を始めれば魂を抜き出すという仕事が増え、それをディーアのせいだと思っているのだ。
一方ディーアはイルテスを怠け者で意気地がなく、僅かな知識をひけらかす鼻持ちならない神だと軽蔑していた。
口が達者で周囲のものを言いくるめ、仕事は部下に任せきりなイルテスは、ディーアにとって癇に障る相手なのだ。
そんな神のたかが使者に口答えなどされるいわれはない。
ディーアはゆっくりと息を吸うと、一瞬で使者の前に降り立ち、真正面からその眼を見据えた。




