榛色の真実3
「きゃあっ!」
寸止めにも関わらず、セシーリアは大きく後ろに仰け反るとそのままひっくり返った。背中に激痛が走ったが、それどころではない。
「フッ……」
「あっ!」
慌てて起き上がろうとしたセシーリアのスティーダを、オリビエが踏みつけた。
「いっ……!」
セシーリアの手が、踏みつけられたスティーダと地面の間に挟まれてギリギリと痛む。
「参りましたか」
「…………」
オリビエの前髪が影を落とし、榛色の瞳がいつもより深い。
……悔しい。悔しい、悔しい!
仰向けに倒れ、唇を噛み締めたセシーリアを見下ろしていたオリビエが、ゆっくりと足をどけると身を屈めた。
「さあ、手を」
言いながらオリビエはスティーダを置くと、少し微笑んで手を差しのべた。その仕草はまるでどこかの国の王子のように優雅で、セシーリアは一瞬眼を見開いた。
……でも。一撃も入れないで負ける気はないわ。
セシーリアはゆっくりと手を伸ばし、オリビエの手を掴んだ。
……今だ。
「うっ……!」
セシーリアは立ち上がりながら、完全に油断しているオリビエの顔面に頭突きをし、素早く空いている手で彼の腹に拳を突き出した。
「降参なんて誰も言ってないわよ!」
やったわ!
「クソッ!」
「あっ!離してっ!」
振りほどこうとした手を痛いほど掴まれて、セシーリアは焦ってオリビエを見上げた。
「離さない!」
「きゃああっ!」
グイッと引き寄せられてオリビエの胸に抱かれたセシーリアは、フワリと浮くような感覚がして咄嗟に歯を食い縛り、眼を閉じた。
投げ飛ばされるのを想定し、身構えたセシーリアの耳にオリビエの声が届く。
「……セシーリア、眼を開けて」
「っ……!」
至近距離にオリビエの顔を見つけて、セシーリアはあからさまに息を飲んだ。
背中に広がる芝生の感覚と、自分に覆い被さるオリビエの熱い身体。
身はこれほどまでに近いのに、心は……。
「……離して」
「ダメだ」
眼の前のオリビエの瞳が切な気に揺れ、セシーリアはギュッと胸が痛んだ。
……オリビエが……私を好きならいいのに。でも、そうじゃない。オリビエには好きな人がいるもの。
「オリビエ。今すぐどきなさい。あの店のセシーリアさんが悲しむわよ」
セシーリアがグッと睨むと、オリビエは苦しげに顔を背けた。
「彼女の事はどうでもいい」
「……え?」
意味がわからず、セシーリアはマジマジとオリビエを見つめた。
「彼女はどうでもいい」
信じられなかった。オリビエがこんな事を言うなんて。
「最低だわ、オリビエ」
「最低でもいい」
吐き捨てるようにそう言うと、オリビエはセシーリアの髪を撫でた。
「この勝負はあなたの負けだ。これからは僕の傍を離れるのは許さない、セシーリア」
セシーリア様、じゃなくて……。
「君は僕に守られていればいい、これからずっと」
オリ……ビエ……。
オリビエの少しだけ傾けた男っぽい頬を、備え付けられている蝋燭のあかりと夕日が照らし、セシーリアの胸はどうしようもない程激しく脈打った。
その時、
「誰かいるのですか?」
薔薇園の世話係りであるラウラが、入り口から中に向かって声をかけた。
「…………」
「…………」
芝生に寝そべってセシーリアを抱き締めていたオリビエが、息を殺して視線だけを上げた。
「オリビ」
「シッ……」
……歩いて中まで入られたら、抱き合っているのがバレる。
「オリ……ッ……」
えっ?!
嘘……でしょ……?
なんの前触れも感じさせずに、セシーリアの唇がオリビエの唇で塞がれた。
驚いたセシーリアが掴まれていない片方の手でオリビエの胸を押すも、彼はビクともしない。
次第に頬がカアッと熱くなり、セシーリアは恥ずかしさのあまり眼を閉じた。
「空耳かしら。気のせいみたいね……」
ジャリッと土を踏みしめる音がして、ラウラが去っていく気配がした。
それなのにオリビエの口付けは終わる気配がない。
それどころかセシーリアの唇を味わうようにした後、それを舌で割り柔らかく舐めた。
たちまち深くなる口付け。
セシーリアの身体に経験したことのない、言い様のない感覚が走った。
徐々に全身が熱くなる。
怖くて、でもこの先に存在するものが知りたくて、セシーリアは思わずオリビエにしがみついた。
「……可愛い」
スッと離されたオリビエの唇から笑みが漏れ、その榛色の瞳が甘く瞬く。
「……セシーリアがうるさいから」
どうして……そんな顔をするの?
優しくて、温かくて切ない顔。なのに、あの暗い店のセシーリアにさんを『どうでもいい』などとと言う。愛してるって言いながら彼女を抱いていたのに、オリビエは何故私に口付けなんかするの?
……オリビエは、一体どうしてしまったのだろう。
「オリビエ……大丈夫?どうしてこんな事するの」
「大丈夫じゃない。君がいけないんだ。もう僕から離れるのは許さない。いいね、セシーリア」
オリビエが、大きな手でセシーリアの頬を包んだ。たちまちその心地よさが、セシーリアの胸を高鳴らせる。
ああ、なんと罪深いのだろう、私は。恋人の存在を知りながら、こんなこと。
でも、でも私は……やっぱり私は、オリビエが好きだ。この想いは止められない。オリビエが誰を愛していようと、私はこの想いを消すことなど出来ない。
セシーリアは観念したように眼を閉じると、ポツンと呟いた。
「……分かった。もうオリビエから離れない」
切なくて苦しいのに甘い幸せが身体を包み込み、セシーリアは経験のないこの思いに混乱した。
……怖い。怖いのに、どうすればいいのか分からない。
「オリビエ、私、怖い」
「貴女は恐れなくていい。ずっと僕が守るから。さあ、帰ろう。送るよ」
立ち上がったオリビエにゆっくりと手を引かれて、セシーリアは身を起こした。
「何故だ」
二人が薔薇園から出ようとした時、突然シーグルが現れた。
バラと蝋燭をふんだんに使って飾り立てられているオベリスクの脇に立つシーグルは神話の神のように雄々しく、セシーリアは後ろめたさで身体が震えた。
「……シーグル、あの」
「何故?」
「シーグル」
オリビエが諭すようにシーグルを呼んだ。
けれどシーグルは、まるでその声が聞こえていないようにセシーリアだけを見つめていた。
「俺じゃダメなの、セシーリア」
「シーグル、あのね」
「俺が子供だから?!」
「そうじゃないの、シーグル」
涼しげな眼差しでシーグルを見つめたオリビエが、落ち着いた口調でセシーリアの後に続いた。
「シーグル。父上からセシーリアの護衛を任されているのは僕だ」
微かに吹いた風に薔薇の香りが乗り、シーグルだけがその甘い風に顔を歪ませた。
「俺はセシーリアが好きだ」
オリビエよりも少しだけ濃い、シーグルの榛色の瞳が切な気に揺れた。
その綺麗な瞳にセシーリアの胸がキュッと軋む。
「……私も……シーグルが好きよ」
「その好きじゃない。種類が違う」
胸に拳を突き当てられたような衝撃に、セシーリアの言葉が詰まった。
「シーグル……」
「いいさ、今は」
シーグルが浅く笑った。
「……兄さん」
シーグルに呼ばれ、オリビエが僅かに顎を上げる。
「今はまだ、セシーリアを兄さんに預けておく。でも」
シーグルは一旦ここで言葉を切った後、再びゆっくりとした口調で囁くように告げた。
「いずれセシーリアは俺が守る。兄さんよりも強くなって」
……シーグル……!
目を見開いたオリビエを一瞥すると、シーグルは踵を返し身を翻した。
「その日まで……さよなら、セシーリア」
「……シーグル、待っ」
「セシーリア」
思わず後を追いそうになるセシーリアの腕を、オリビエがそっと掴んだ。
大人への道を急ごうとするシーグルの背中を、セシーリアは黙って見つめるしかなかった。
痛む胸を押さえて。




