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窓を開けると、雨に濡れた草花が朝日を浴びてきらきらと輝いている。フィオナは湿った空気を胸いっぱいに吸い込み、そのままゆっくり吐き出した。
簡単に朝食を済ませ、一通りの家事を終えた。薬草を摘むための荷物を持って、いつもの様に家の扉を潜る。一歩外に足を踏み出すと、雨上がりの湿った草と土の匂いに包まれた。
森の奥へ足を進め、草花との対話魔法を開いた。傍から見れば、独り言を呟く怪しい女だ。しかし森の中で人に見られる心配はまずない――一人を除いて。
ガサリと音を立てて、今日もリュミエルは木の上からフィオナの斜め前に降り立つ。「おはよう、フィオナ」「リュミエル、おはよう」と、最早お決まりとなった挨拶を交わした。
フィオナは小さく笑みを浮かべ、草花との対話を続けた。リュミエルもまたいつもと変わらず、フィオナの様子を興味深げに見ている。記録帖を開けば、そこに綴られる文字を覗き込んだ。その内容に唸ったり、首を捻ったりと忙しない。
「昨日の雨は大丈夫だった?」
「心配してくれたんだ」
目を瞬いたリュミエルに、フィオナは息を呑む。薬草を摘む手をぴたりと止めて、急いで下を向いた。背中から照らしていた陽の光が遮られ、リュミエルに覗き込まれているような気がする。ぷつぷつと草を毟りながら、慌てて口を開いた。
「そ、そんなことない……ううん、ちょっとだけ」
リュミエルは音もたてずに、すぐ横にしゃがみ込んだ。フィオナは染まった頬を見られないように顔を伏せたまま、地面を無心で見つめた。
「ありがとう、フィオナ。昨日も言ったけど、僕はエルフだからね。どんな時でも自然の中で過ごすのは慣れてるから、大丈夫」
顔を上げることができずに俯き加減のまま、こっそりリュミエルを盗み見る。相変わらず美しいエルフは、日の光を浴びてきらきらと輝いていた。明るい笑顔が、今日は一層眩しく見える。慌てて視線を手元に戻すと、小さな声で「それならよかったわ」と呟いた。
摘める薬草が近くになくなり、別の場所へ移動する。今日は昨夜の大雨のせいで足元も悪く、気を抜くと転んでしまいそうだ。フィオナは慎重に足を進めた。エルフに見惚れてつまずくなんて、絶対にあってはならない。
リュミエルはいつもより軽い足取りで、フィオナの横について歩く。心なしか機嫌がよさそうだ。ちらりと見上げると目が合い、邪気の無い笑顔を返された。じわっと汗が滲み、慌てて視線を彷徨わせた。
そうしてしばらく歩いていると、突然草花たちが騒ぎ出す。
《フィオナっ! 子供》
「子供がどうしたの?」
《村の子供が森にいるっ》
「子供が森に? どこにいるの?」
《いつもの切り株の少し奥みたいっ》
「じゃあ、すぐ近くね」
《動かないって!》
フィオナはその言葉に顔を強張らせた。
「フィオナ、何かあった? 大丈夫?」
「ええ……いえ、子供が森に迷い込んだみたい。動かないって言ってるから、怪我してるのかもっ。急がなくちゃっ!」
フィオナは荷物を抱えて走り出した。リュミエルはその後を黙って追いかけてくる。いつもの切り株を通り越し、転ばぬように、けれど急いで進む。
《フィオナっ、こっち!》
草花たちの声が導く方へ向かうと、腰丈の草が生い茂る中に、何かが通った跡がある。倒れた草を辿っていくと、滑ったような靴跡を見つけた。慌ててその先の傾斜を覗き込むと、見覚えのある子供が倒れている。
「セーマスっ!」
今年七つになるやんちゃざかりの村の男の子だ。よく小さな傷を作っていて、傷薬をいつも持っていくのは彼らのためだ。しかし、いくらやんちゃとは言え森の、しかもこんな奥にまで足を踏み入れるとは、誰も思っていないだろう。特に昨夜は大雨だった。足元も悪く、かなり歩き辛かったはずだ。
急いで下に降りようとすると、ぐいっと腕を後ろに引かれた。と同時に、上から「待って」と声が落ちてきた。
「フィオナはここにいて、僕が行くから」
「でもっ」
返事も聞かずに、リュミエルはふわりと飛び上がった。斜面に足をつくこともなく、そのまま音を立てずに着地する。膝をつきそっとセーマスを抱え上げて、あっと言う間にフィオナの横に戻ってきた。
「気を失ってるみたいだね」
「見せてっ」
フィオナは慌ててセーマスの身体を確かめる。腕に傷があり、そこから出血していた。フィオナは急いで持っていたスカーフを当てて、圧迫する。
「僕が治癒魔法で止血するよ」
「駄目よっ。人間にエルフの治癒魔法は強すぎる。それも子供になんて」
「大丈夫、僕はうまく調整できるから」
「いいえ、駄目よっ。村の人のことは、私が……私がなんとかするわ」
「でも」
言い募るリュミエルの言葉を聞かずに、フィオナはセーマスの傷口に視線を落とした。リュミエルは黙ってそれを見下ろしている。
治癒魔法はエルフ特有のものだ。けれど、人間には効きすぎて毒にもなる。一方でリュミエルの言うとおり、扱いに長けているなら効果的だ。それも知っているが、頼りたくはない。
そんなことを考えている間にも、傷口からはどんどん血が流れてくる。押さえたスカーフは既に真紅に染まっていた。フィオナは唇を噛みしめ、徐に自分の腰に巻いていたベルトを解いた。セーマスの腕に巻き付けてから、落ちていた木の棒を絡ませる。そのままゆっくり回して絞めつけ固定した。しばらくすると出血は減ってくるが、完全には止まらない。額の汗を拭ったフィオナは、草花との対話魔法を開いた。
「ねえ、止血するならコスクの葉が一番よね?」
《そうだよ》
《コスクにフォーラの実を混ぜると早い》
「近くにある?」
《コスクはエルフの近くにいるよ》
《フォーラの実ならフィオナの足元に落ちてる》
フィオナは足元の実を拾ってから、リュミエルの立っている辺りに視線を巡らせた。目当てのコスクを引き抜き、肩に掛けた鞄の中から木皿を取り出す。一瞬で乾燥させてから小さなすりこぎですり潰し、フォーラの実をナイフで半分に割った。木皿に少量加えて押し潰すとツンとする匂いが漂う。程よく混ぜ合わせると、セーマスの傷口を顕にして慎重に塗り拡げた。
しばらくすると出血は収まり、ほっと胸を撫でおろした。ゆっくりベルトを外し顔色を窺うと、小さなうめき声と共にセーマスがうっすら目を開いた。
「あれ……フィオ……ナ……?」
「セーマスっ!」
「い、いたいっ。フィオナ、いたいよお……いたい、たすけて」
目を覚ましたセーマスは、顔を歪めてぽろぽろと涙を零した。
「セーマスっ! 今痛み止めをあげるから少しだけ待っててっ」
フィオナは草花たちを見回してから、必死に問いかけた。
「ねえ、みんなっ。ピアンにフォーラを混ぜたら痛みは止まる?」
《止まる》
《フィオナ、気を付けて》
《さっき使ったからちょっとだけ》
「分かった」
フィオナは鞄に常備してある、すり潰したピアンを取り出した。水魔法で木皿を清め、風魔法で乾かす。足元のフォーラの実を再び押し潰し、ほんの少しだけ木皿に取った。それにピアンを混ぜて水で薄める。
「セーマス、少し苦いと思うけど、頑張って飲める?」
セーマスは顔を歪めながら何度も頷いた。
「いい子ね」
セーマスの背中を支え、木皿をゆっくり口に添える。そのまま一口呑み込んだセーマスが、「にがっ、にがいよ、うう」とうめき声をあげた。
「セーマス、頑張って。これを飲んだら痛みが楽になるわ」
セーマスは一度唇を引き結ぶが、ごくりと喉を鳴らしてから再び木皿に口を付けた。顔を顰めつつも全てを飲み干した後、こほこほと小さく咳き込む。しばらく涙を零していたが、やがて落ち着きを取り戻した。
「痛みは引いてきた?」
「うん。もうあんまりいたくない」
「そう、よかった」
フィオナは草花に「みんな、ありがとう」と呟いてから対話を閉じた。
それまで静かに見守っていたリュミエルが、フィオナの横にしゃがみ込んでセーマスを見下ろした。
「どうしてこんな所に子供が?」
リュミエルに気付いたセーマスは、目を皿のようにして口をぽかんと開いたまま固まってしまう。
「リュミエル、それは傷が治ってからでいいわ」
「村に戻ってからじゃ、もう話を聞けないんじゃない?」
「……でも」
「こんな森の奥まで一人で来るなんて、普通じゃないんだよね?」
「そうね」
「今ならさっきの止血も痛み止めも効いてるし、大丈夫じゃない?」
フィオナは逡巡しながらセーマスの様子をそっと窺った。
「駄目よ、リュミエル。あなたに見惚れちゃってて話せそうもないわ」
「……そうだね。少ししたら正気に戻るだろうから、そしたら聞いてみようか」
リュミエルはセーマスにちらと視線を向け、小さく肩を竦めた。すぐに小さな身体に腕を回し、まるで羽でも持つかのようにふわりと片手で持ち上げた。
「おチビちゃん。しっかり捕まらないと落ちちゃうぞ」
腕にセーマスを座らせるようにして抱き上げたリュミエルは、揶揄うようにその頬をつんと突いた。その表情は一見柔らかいが、フィオナに向けるより少し冷たさが滲むように見える。フィオナの視線に気付いたリュミエルが、いつもの顔で笑う。「行こうか」と聞き心地のいい声が、森の空気を静かに揺らした。
セーマスは怪我をしていない右手で、リュミエルの服をぎゅっと掴んでいた。左腕には、フィオナが大きめの布をしっかり巻いてやる。リュミエルは何も持っていないかのように軽い足取りで、村への道を進んだ。しばらくするとリュミエルに慣れてきたセーマスが、森の中をきょろきょろと見回し始めた。
「おチビちゃん、君は森が珍しいの?」
「うん」
「セーマスが森に入ったのは、今日が初めてかしら?」
「そうだよ。とうさんも、かあさんも、あぶないからダメって」
「でもチビちゃん、一人で森にいたよね」
セーマスは目を瞬いた後に、あっと声をあげて下を向いた。
「セーマス、怒ってるんじゃないわ。危ないってわかっててどうして森にいたのか、教えて欲しいだけよ」
セーマスは迷うように、フィオナとリュミエルを交互に見比べた。リュミエルは小さく肩を竦め、首を傾げた。
「僕は別になんでもいいんだけど……フィオナが困るのが嫌なだけ」
「リュミエルっ」
「本当のことだよ。僕は人間に興味はないからね」
フィオナはため息を吐き、小さく頭を左右に振った。その様子を見ていたセーマスがぽつりと呟く。
「フィオナは、ぼくがもりにいたら、こまる?」
「大丈夫よ。それより、森の奥は危ないから、セーマスが心配なだけ」
「……ごめんなさい」
フィオナは目を細め、小さく笑みを浮かべた。セーマスは少し俯き、逡巡してから口を開く。
「……おじさんたちが、もりにはいってたから」
「おじさんたち?」
「うん。……コーマックおじさんと、グレアムおじさん」
「二人が森に入るのを見たの?」
「うん」
森に村人が入ることはほとんどない。一体なぜか考えてみるが、フィオナには何も思い浮かばなかった。
「チビちゃんは、そのおじさんたちを追いかけて森に入ったってわけ?」
「そうだよ」
「おじさんたちも、あんな森の奥まで入ったの?」
「わかんない……はいってすぐに、どこかにいっちゃった」
「ふうん、見失ったのか。それで、どうしてチビちゃんは帰らなかったんだ?」
セーマスは気まずそうに視線を彷徨わせ、少し間を置き口を開いた。
「……もっとおくにいったら、フィオナがいるかなって」
「えっ?」
考え事から引き戻されたフィオナは、セーマスを見上げて目を瞬いた。
「私に会いに?」
「……うん。でも、とちゅうでリスがいて」
「夢中になっちゃったのね?」
「うん」
セーマスはきまり悪そうに下を向いた。その頭をそっと撫でながら、フィオナは複雑な笑みを浮かべた。
「そう。話してくれてありがとう。……でもね、セーマス。もう森に一人で入って来ちゃ駄目よ。入る時は、ちゃんとお父さんとお母さんと一緒にね」
「……うん。ごめんなさい」
「わかってくれたならいいの」
柔らかに微笑むフィオナに、セーマスは口を引き結び、少しだけ泣きそうな顔をした。




