2-1
穏やかな光が降り注ぐ中、籠を手にしたフィオナはいつもどおりに森の奥へ薬草を摘みに行く。静かな風が頬を撫で、耳をくすぐるのは草花たちの賑やかな声だ。今日も対話魔法を開きながら、彼らと朝の挨拶を交わし合った。
「おはよう、フィオナ」
ガサリと音を立てて斜め前に立つのは、リュミエルだ。相変わらず美しい顔で、金糸の様な髪を靡かせ笑みを称えている。
生きている間はここにいる、そうリュミエルが言ってから数週間が経っていた。その日以来、この妙なエルフは毎日現れるようになった。穏やかだった日常を脅かしているはずなのに、なぜか憎めない。
「リュミエル、おはよう」
フィオナは既にその美しさに慣れ始めている。いつの間にか自然な挨拶まで交わすようになり、何とも複雑な気分だ。
「草花たちは今日も元気に喋ってる?」
「いつもどおり、大騒ぎね」
「エルフがいるから?」
「そう。あなた、人間だけじゃなくて草花たちにも歓迎されるのね」
「人間はどうでもいいけど……自然に愛されてるのはいいね」
心底嬉しそうに笑うその顔に、フィオナは思わずくすりと声を漏らした。
フィオナは思いの外この状況を楽しんでいる自分に、少しの不安が過る。それでも、この心地よさに浸りたいと思ってしまう。草花と話すことも楽しいが、それを誰かと分かち合うことができるなんて、思いもしなかったのだから。
こうして草花との対話を隠さず、ありのままを話せる存在は母以来初めてだ。とは言え、母と話すときには周囲を気にして、誰にも聞かれないように気を配っていた。それにこんな風に明るく話題にするなんて、考えられなかった。それが今はどうだろう。
「どうしたの?」
押し黙ったフィオナの顔を、リュミエルが覗き込んだ。
「……なんでもない」
「そうは見えないけど。言いたくない?」
視線を彷徨わせたフィオナに、リュミエルが柔らかな笑みを浮かべた。
「話したいことがあるなら、何でも聞くよ。なにせ僕はエルフだからね。人間と違って何を聞いても驚かない」
フィオナはゆっくりリュミエルを見上げた。リュミエルは穏やかな笑みを浮かべ、続きを急かすでもなくただこちらを見つめている。
「母さんのことを思い出してたの」
「そう」
「あなたは、呪いについて何か知ってるの?」
「エルフの呪いで誰も愛せない人間がいるってことはね。それ以上深くは知らないよ」
フィオナは横たわった丸太に腰掛け、隣に座るようリュミエルを促した。
「この呪いは、最初に産まれた子にだけ受け継がれるの。呪いも祝福もどちらもね」
リュミエルは、フィオナの横に腰掛けながら口を開いた。
「先に男の子が産まれたらどうなるの?」
「不思議なことに、今まで必ず一人目は女の子なの」
「どうしてだろう」
「わからないけど……最初に呪いを受けた人の子供が、女の子だったからかも。リュミエルにもわからないの?」
「うん。僕も知らないことだ」
「そう。エルフに聞いたら分かるかと思ったけど……そうなのね」
「ごめん。呪いを掛けたエルフに聞いたら分かるかもしれないけど」
「そのエルフを知ってるの?」
リュミエルは曖昧な笑みを浮かべて黙り込んだ。
きっとリュミエルは呪いをかけたエルフを知っている。フィオナはそう思うが、なぜかそれ以上聞くことが出来ない。聞けばこの心地よさを失いそうだからなのか。それとも、リュミエルの瞳の奥に宿る影のせいなのか。
会話が途切れ、フィオナは視線を下に向けた。そのときリュミエルが小さく「そういえば」と呟く。背中の荷物を膝に置き、ごそごそと中を漁り始めた。
「どうしたの?」
フィオナは首を傾げてその様子を見守った。
「ちょっと待って、確か持ってきてたはず……ああ、あった!」
リュミエルが取り出したのは、古びた一冊の本だ。表紙には絵が描かれていて、少しだけ擦り切れている。
「その本は?」
「これは昔、僕の爺さんがくれたものなんだ。子供用の絵本なんだけどね」
「そんなに昔の物なの?」
「……実は、そうでもない。百五十年くらい前のかな」
「百五十年って、私たちからしたら随分昔よ」
「でも、その頃僕は百五十歳くらいだからね。エルフにしては若いけど、もう子供じゃなかったのに」
少しだけ拗ねたような言い方に、フィオナは目を瞬いた。
「絵本を貰ったのが恥ずかしいの?」
「……ちょっとね」
「エルフでもそういうことって気にするの?」
「さすがにちょっとは気にするよ!」
むきになって言い返したリュミエルに、フィオナは思わず笑いを漏らした。
「フィオナ、笑うなんてひどいよ」
「あははっ、ごめんなさい」
「……やっぱり見せるのは止めた」
「待って、違うから。子供じゃないのに絵本を貰ったのが可笑しかったんじゃないの。リュミエルの言い方が子供みたいでつい笑っちゃっただけだから」
リュミエルは一度頷くが、何かに気づいたようにはっとして、フィオナを軽く睨んだ。
「それって、結局僕が子供っぽいってこと?」
「そんなに気にすることなの?」
「僕の方が大分長く生きてるのに、なんだか納得いかない」
「変なところに拘るのね。いいじゃない、今のままの方が私は気楽に話せるから」
こんな下らない言い合いだって、いつぶりだろう。自分の思わず漏れた笑い声など、最後に聞いたのは何年前だったか。
「フィオナがそう言うならまあいいか」
どことなく不服そうな顔をしたリュミエルに、またしても笑いそうになって慌てて唇を結んだ。
絵本の表紙を軽く撫でたリュミエルは、ゆっくりページを捲る。フィオナはその手元をそっと覗き込んだ。
「文字は読めないけど……素敵な挿絵ね」
「ありがとう。これは、石になったお姫様の話なんだ」
「石に……」
リュミエルは、すっと息を吸い込むと、美しい声で絵本を読み始めた。
昔々、呪いで石になってしまったお姫様がいた。誰にもその呪いを解くことは出来ず、冷たい石のまま何十年も、何百年もの時を過ごす。お城の奥にそっと横たえられたそのお姫様は、いつしか人々から忘れ去られた存在になった。
あるとき一人の青年が現れた。心優しい青年は、寂しく横たわる石になったお姫様を見て、ひどく悲しんだ。青年はお姫様にそっと触れ、一雫の蒼き涙を零した。その涙は淡い水色の光を帯び、お姫様を包み込んだ。呪いの解けたお姫様は眩い光を帯び、暗く冷たいお城の奥から青年の元へと歩き出した。
穏やかな空気の中に響くリュミエルの声は、小鳥がさえずるのを止めて聞き入るほどに心地いい。目を閉じてそれに包まれていたフィオナは、さらさらと草が風になびく音に目を開いた。一瞬あとにごくりと喉を鳴らし、リュミエルを見上げた。
「これって……エルフの呪いと関係があるの?」
「僕にもわからないんだ。でも、爺さんがくれた本だからもしかしたら……」
「蒼き涙って、何かの比喩なのかしら?」
「どうかな。僕が泣いたらフィオナも試してみる?」
「やめておく」
フィオナは顔を顰めて首を横に振った。
「僕の涙じゃ嫌?」
眉を下げるリュミエルの様子にフィオナは目を瞬き、ふっと息を吐く。
「あははっ、違うわよ。もし試すとして、どうやって呪いが解けたか確かめるの?」
リュミエルは「あっ」と声を漏らし、口を閉じた。
「誰かを愛して石になって試すなんて、おかしな話でしょう」
「そうだね、ごめん」
リュミエルはしばらく考え込んでから、一つ頷いて言葉を続けた。
「でも……もし。もし、フィオナが誰かを愛して石になってしまったら、僕が試してあげるよ」
「石になった私に、涙を落してくれるの?」
「うん」
「期待しないでおく」
「どうして?」
「だって、その頃にはもうリュミエルは、エルフの里に帰ってるかも知れないでしょう?」
リュミエルはじっとりとした目でフィオナを睨んだ。
「僕は、君が生きてる間はここにいるって言ったじゃない。忘れたの?」
「でも……」
「エルフは噓を吐かない。だから、約束するよ」
「……分かった」
リュミエルは、一度下を向いてからフィオナに視線を戻した。
「それに、もしフィオナが居なくなったら。それが呪いのせいじゃなくても、僕はきっと悲しいと思う。だから約束なんかしなくても、涙の一雫くらいは落とすよ」
「そう……ありがとう」
フィオナは呟き俯いた。一人で生きて、孤独にここで終わるのだと思っていた。それを願っていた。けれど、誰かが自分の生きた時間を惜しんでくれるかも知れない。そう思うだけで、胸の奥がじわりと温かくなる。
「私、自分で思ってたよりもずっと……」
「ずっと、何?」
「ううん、何でもない」
「何だよ、気になるじゃない」
「ふふっ」
思ってたよりずっと——寂しかった。
思ってたよりずっと、誰かを求めていた。
けれど、それを口にするつもりは無い。伝えてはいけない。心を預けてしまえば、きっと母と同じ道を辿ることになる。今ならまだ大丈夫。でも、これ以上はいけない。フィオナは自分に言い聞かせ、淡い笑みで本音を隠した。
「さあ、休憩はおしまいにして、薬草を集めなくちゃ」
「僕も手伝うよ」
「そう言うけど、リュミエルはいつも邪魔してるじゃない」
「ひどいな! ……少しは役に立ってるでしょう?」
窺うような視線を向けるリュミエルに、少しだけ緩みそうな口元をぐっと堪えた。
「そうかしら? 草花に質問しては、私に通訳させてばっかりだけど」
「うっ、た、確かにそうかもしれない」
リュミエルは決まり悪そうに頬を掻く。
「まあ、いいわ。草花たちも、この辺じゃ絶対お目にかかれないエルフとお喋り出来て、楽しそうだし」
「そうなの?」
「そうよ。エルフって本当に自然に好かれるのね」
「でも、最初はフィオナに、気を付けてって忠告したんだよね?」
「最初はね。結局こうやって一緒にいるのを見たら、もう大丈夫って思ってるみたいよ」
肩を竦めたフィオナに、リュミエルはほっと息を吐いた。
「それはよかった。現れる度に気を付けて、なんて言われてたら流石に落ち込むからね」
「あなたでも落ち込むことってあるの?」
「フィオナは僕を何だと思ってるの?」
「打たれ強くてめげないエルフね」
「……確かに」
リュミエルは思い出したように言葉を止め、口の端を上げてフィオナを見下ろした。
「手を叩き落されても、冷たくされても、めげないからね」
フィオナはリュミエルを見上げて目を瞬いた後、罰が悪くなって下を向いた。
「あれは……悪かったわ」
「え?」
「だからっ。あれは酷かったと思うわ。だから……ごめんなさい」
「いやっ、謝らないで。あのときは、突然呪いの一族とか変なこと言っちゃったし。僕も悪かったんだ。ごめん」
視線を合わせて、ふっと同時に笑みを交わす。二人の間に流れる穏やかな空気が、自然と気持ちを軽くする。フィオナはリュミエルに合図を送り、草花との対話を開いた。
《フィオナ! もうすぐ雨が降る》
《いっぱい降るよっ》
「そう、ありがとう」
《川の近くにいた動物たちが移動してるって》
《森から動物たちが消えてるみたいだ》
「何かあったの?」
《動物と話せないから分からないよ》
《川上の草が、なんだかおかしいって言ってるみたい》
「そう。川は村の向こうだから、ここからじゃすぐには分からないのね」
大人しくフィオナの様子を見ていたリュミエルが、不思議そうな顔をした。
「フィオナ、何かあったの?」
「それが、よくわからないのよ。川上で何かがあるのかしら? 森の動物が移動してるみたい」
リュミエルは辺りを見回し、首を傾げた。
「そう。一緒に見にいってみる?」
「いいえ。これからひどい雨が降るみたいだから、早く帰らなきゃ」
「そっか。それなら尚更川は危ないね」
「ええ。リュミエルは雨の間どうするの?」
「僕は旅慣れたエルフだから、心配要らないよ」
リュミエルは一旦言葉を止めてから、思いついたように悪戯な笑み浮かべた。
「それとも、フィオナの家に招待してくれるの?」
「そんなわけないでしょうっ! もうっ」
くすくす声を漏らすリュミエルを睨むが、それでもまた明日と言ってしまう。熱くなった頬を誤魔化すように、身体の向きを変えた。背中ごしのリュミエルの笑い声に、緩みそうになる唇をきゅっと結んだ。
家に着いてすぐ、言われたとおり雨が降り始めた。屋根を叩きつける雨粒の音が妙に耳につく。フィオナは胸の奥がざわついて、落ち着かぬ夜を過ごした。




