1-4
「あなた、まだ帰ってなかったの?」
「しばらくいるって言ったよね」
「森にいるのは仕方ないわ。でも、私に構わないで」
「どうして?」
「私は静かに過ごしたいって言ったじゃない。邪魔をしないで」
振り切るように身体の向きを変えるが、エルフから逃げられるはずもない。祝福のことを知られれば、どうなるのだろうか。人間相手ならお終いだが、エルフなら。いいや、何を考えているのかわからない分、逆に厄介かもしれない。
「フィオナは、草花たちと話せるんだよね?」
ぎゅっと拳を握り締め、答えあぐねて俯いた。カサリと葉を踏みしめる音が鳴り、リュミエルがゆっくりフィオナの前に歩いてきた。どうしようかと視線を彷徨わせていると、突然目の前にぬっとリュミエルの顔が現れた。
「ちょっ、ちょっとっ!」
覗き込むようにして腰を落としたリュミエルに、フィオナは数歩飛び退いた。心臓に手を当てると、破裂しそうな勢いで脈打っている。目を瞬いたリュミエルは、ふわりと口元に笑みを浮かべた。
「返事がないから具合でも悪いのかと思ったけど。元気そうだね?」
フィオナはうめき声を上げて、眉を寄せた。このエルフはどうも苦手だ。何をするか分からないし、静かに過ごしたいと思っているフィオナの心をざわつかせる。遠ざけようと思うのに、あんな風に無遠慮に顔を覗き込んでくるのだから。それをなぜか嫌だと思わないことにも、そわそわとした気分になる。
「ねえ、隠さなくてもいいよ。草花と話せるんでしょう?」
フィオナは大きくため息を吐き、「ええ」と呟くように答えた。
「やっぱりね。僕には隠さなくたっていいよ。エルフなんだから」
確かにエルフから与えられた祝福なのだから、隠す必要もないのかも知れない。そう思うと自然に肩の力が抜けて、緊張していた自分がバカバカしくなってきた。
「そうね、話せるわ。それがどうしたの?」
開き直るように答えると、リュミエルは目を瞬いた後に、声を立てて笑った。
「あはは。フィオナってやっぱり面白いね。それで僕の気を引こうとは思わないんだ」
「どうしてそんなことをする必要があるのよ」
「人間は皆、エルフと聞けば媚びてくるからだよ」
最後はどこか冷ややかな目をしたリュミエルに、フィオナは眉を寄せた。
「だけど、フィオナは最初から僕を避けてたよね。本当に面白いや」
一転明るくそう言ったリュミエルの目は、さっきまでの温度の低さが嘘のように輝いている。避けようとしたら、逆に興味を持たれてしまったようだ。それなら、見惚れてありがたがっておけばよかったのかと思う。かと言って今からそうできるかと言えば、できはしない。フィオナは苦い思いで目の前のエルフを眺めた。
「だって初対面で握手を求めて、手を叩き落とされるなんて! 今思い出しても新鮮だよ」
思わずと言った風に噴き出したリュミエルは、腹に手を当てて笑い出した。
「そんなに笑わなくてもいいじゃないっ」
「ごめんごめん。だって、僕のことあんなふうに扱うなんて。エルフにだってされたことないのに」
「迷惑なのは今も変わらないから、私は謝らないわよ」
「あははははっ。僕はそのほうが楽しいから、別に構わないよ」
心の底から愉快そうに笑うリュミエルに、フィオナはまたしても間違えたのかと頭を抱えた。今まで人を避けてきた分、よく思われようとすることが逆に難しい。それに今更そうしても、きっとリュミエルには通じないような気がする。なにせフィオナの予想とは違うことばかり言ってくるのだから。
ひとしきり笑い終えたリュミエルは、目尻の涙を拭ってからフィオナを見つめた。
「ねえ。いつも草花たちとどんな話をしてるのか、僕に聞かせてよ」
「どうして?」
「その祝福は、エルフにとってもちょっと特別なんだ。だからすごく興味がある」
「それなら、同じ祝福を持ってるエルフを探したらいいじゃない」
一瞬動きを止めたリュミエルは、視線を逸らした。どこか遠くを見つめて、やがて薄い笑みを浮かべた。
「持ってたエルフを知ってるけど、もう話せないんだ」
「どうして?」
「さあね」
笑みを浮かべたまま首を傾げたリュミエルに、なぜかそこから先を尋ねることができない。笑っているのにどこか陰りの滲むその目が、これ以上聞くなと言っているように見えた。突然空気が冷えたような気がして、フィオナはゾクリと身体を震わせた。
「森で話しながらいつも何か書いてるよね。あれは、記録帖?」
「ええ、そうよ」
「へえ。僕も見てみたいな」
「別に珍しくもないでしょう?」
「ただの記録帖ならね」
肩を竦めたリュミエルに、フィオナは首を傾げた。記録帖は薬草師なら誰でも持っている。人間を沢山見てきたエルフなら、きっと知っているはずだと思うのだが。
「フィオナの記録帖は、普通とちょっと違うでしょう?」
「どうしてそう思うの?」
口を開きかけたリュミエルは、そのまま固まってから何かを誤魔化すように視線を彷徨わせた。しばらく明後日の方を見ていたかと思うと、「まあ、なんとなく……ね」と頬を掻いた。さっきまでの冷たさはどこへ行ったのか、急に気安い雰囲気になってどうにも調子が狂う。
「あなたにとっては特に珍しいことなんて書いてないと思うけど」
首を傾げながら手にした記録帖を適当に開いてみせると、リュミエルが喜色を浮かべて覗き込む。勝手に奪い取りそうなものだと思ったが、意外にも手を出すこともなくただ見ているだけだ。
「そんなに面白い?」
「うん。もっとよく見せて貰ってもいい?」
「ええ、いいわよ」
今まで誰かにこれを見せたいと思ったことはなかった。薬草師にとって記録帖は大事な商売道具だが、フィオナにとってはそれだけではない。それなのに、リュミエルがあまりにも嬉しそうに手を伸ばすので、フィオナは躊躇いもなく渡してしまう。
「ありがとう」
人とは違う美しく長い指先が、記録帖を大事そうに受け取った。さっきまでのふざけていた態度とはまるで違い、真剣な眼差しを向けている。まるで宝物でも扱うかのように抱え、その場にゆっくり座り込んだ。フィオナも少し間を空けて、その隣に腰を下ろす。
「凄いね。僕も知らないことが書いてある」
「そうかしら……エルフのほうが詳しいんじゃないの?」
「普通の薬草師と比べたらそうだけど。フィオナの記録はエルフでも知らないことがいっぱいあるよ」
感心したように頷くリュミエルに、フィオナは口をむずむずとさせた。
「それに、マナを込めて書いてるよね」
フィオナの文字を傷ひとつない指がそっと辿っていく。細められた目が温かく、さっきまでの陰りがまるで嘘だったかのようだ。そわそわとした気分で身体を揺らしたフィオナは、その様子を見ていられずに視線を逸らした。「草花が教えてくれたことを書いただけよ」と言ってみるが、口元が緩みそうになって下を向く。
「祝福で草花と話せるからって、それをこうやって残そうと決めたのはフィオナでしょう? 僕はこれって凄いことだと思うよ。フィオナはもっと自慢したっていいくらいだ」
「も、もういいでしょう。返してっ!」
フィオナは慌てて記録帖を奪い返し、胸の前でぎゅっと抱え込んだ。褒められることに慣れていないせいか、さっきからむず痒くてたまらない。
その様子に目を細めたリュミエルは、「それにしても」と言葉を続けた。
「どうしてマナを込めてるの? 普通はただのインクで書くのに。こんなに手間をかけるなんて何の意味が?」
「だって、そうしたらずっと消えずに残るでしょう? いつか誰かの役に立つかも知れないじゃない」
「いつかって?」
その問いかけに、フィオナは口を開きかけてすぐに閉じた。今までこんなことを誰かに話したことなどない。なぜリュミエル相手だとこうも勝手に言葉が出てきてしまうのだろうか。
「いつかは、いつかよ。私が居なくなって、そのずっと先かしら」
「自分のためじゃなくて、誰かのためなの?」
不思議そうに見つめてくる目から、視線を逸らすことができない。それはエルフの美しさとは別の、純粋でいてどこか謎めいた眼差しだ。
「どうかしら。……いいえ、結局自分のためよ」
「どういうこと?」
フィオナは静かに息を吐き、微かに口の端を上げた。それはどこか皮肉めいていて、リュミエルの純粋さとはまるで真逆だ。
「私が産まれた意味を残せるかもしれないって思ったから。私の残したものが誰かの役に立てば、この世から消えても全てが失くなるわけじゃない。そう思いたいだけよ」
「ふうん。でも、それが誰かの役に立つなら、やっぱり他人のためじゃない?」
「孤独に生きて、ただ死ぬのが怖いだけ。それだけよ」
リュミエルは切なげな表情を浮かべて、記録帖に視線を落とした。ひとつ頷くと、フィオナを真っ直ぐに見つめた。
「フィオナはもう孤独じゃないよ」
「え?」
目を瞬いたフィオナに、リュミエルは柔らかな笑みを浮かべた。
「だって、僕と出会ったでしょう?」
目を皿のようにしたフィオナは、すぐに我に返って苦い笑みを浮かべた。
「あなたは、ずっとここにいるわけじゃないでしょう」
「君が生きてる間は、ここにいてもいいよ。だって僕らエルフは時間が沢山あるからね。そう……千年も二千年も生きる長寿だから!」
悪戯を思いついたような笑みを浮かべたリュミエルに、フィオナはむっとしたように言葉を返す。
「もうっ。からかわないでよ!」
「あははははっ。先に僕をからかったのは、フィオナでしょう?」
「私はからかってなんかないわ!」
カラッとした明るい声で笑うリュミエルに、フィオナの身体から自然と力が抜ける。
「エルフってみんなこんな風?」
「あはは。人間ってみんなフィオナみたい?」
フィオナが小さく唸り声を上げると、リュミエルは満面の笑みを浮かべて得意げだ。
「ねえ、祝福の話をもっとしてよ。草花たちと話すのは、楽しい?」
「そうね、楽しいわ」
「人間と話すより?」
「草花はいつでもみんな賑やかで楽しいわ。嘘は吐かないし、隠し事もしない」
意味深な笑みを浮かべたリュミエルが、「エルフと話すより?」とフィオナの顔を覗き込んだ。ぐっと息を呑んだフィオナは、慌てて横を向きながら「エルフは隠し事をするでしょう?」と答えた。
リュミエルは笑み浮かべたまま肩をすくめるが、その問いには答えなかった。
「どんな話をするの?」
「いろんなことを教えてくれるわ。どっちに行けば川があるとか、飲んでもいい水場とか。もすうぐ雨が降るとか、明日は晴れるとか」
「へえ、そんなことまでわかるんだ」
「そうね。それから、私にとって危険なものが近づいたときにも知らせてくれるわ」
「危険なもの? 今までそんなことがあったの?」
眉を寄せたリュミエルに、フィオナは頷いてから真剣な顔で答えた。
「ええ。狼や猪がいる方角を教えてくれたり」
一旦言葉を切ったフィオナは、口元を引き上げて続けた。
「妙なエルフがいるとかね」
リュミエルは目を瞬いた一瞬後に、思わずと言った風に噴き出した。
「ひどいよ、フィオナ。僕も獣と同じで危険なの?」
「そうよ。だって草花たちは、気をつけてって言ったもの」
ひとしきり笑ったリュミエルは、ふうっと息を吐き出した。
「祝福を持ってる人間が、まさか君みたいな子だったなんてね」
「どういう意味?」
訝しげに見上げると、リュミエルは静かな表情で答えた。
「別に……フィオナはいい子だねってことだよ」
肩を竦めて口の端を上げたリュミエルは、どこか遠くを見つめているようだ。いい子だなんて褒められているはずなのに、そうは聞こえない。それがなぜなのか、知りたいと思いつつも何も聞くことが出来ずに、ただその横顔を見上げた。




