はじまりの樹
「まったく、仕方のないエルフだね」
フレイは呆れたようにそう言ったが、その眼差しはどこまでも温かだ。
「フィオナ、君の種を使わせてもらうよ。リュミエルのためだから、いいよね?」
フレイはフィオナの腰に吊るされたままの守り袋に手をかざした。硬く閉じられていた紐がするりと解けて、中からアスクとエンバの種が浮き上がってくる。フレイが両手を捧げると、二つの種がゆっくりその掌の中に収まった。そっと包みこんで額に当てると、種が淡く光りひとつに溶け合った。プレイが掌を傾けると、それはキラキラと輝きを放ちながらリュミエルに向かって落ちていく。
俯いた首の後ろに種が落ちると、すっと身体に吸い込まれていった。それまでうめき声を上げていたリュミエルが、ふうっと息を吐いて穏やかな顔つきになる。するとフィオナを抱えたまま、ふらふらと立ち上がった。
天を仰いだリュミエルの足が、あっという間に木の根になった。地面を突き破り、大地に広がっていく。身体もするすると伸び始め、瞬く間に細い一本の木になった。
「リュミエル、フィオナをそのまま連れて行く気?」
からかうように笑ったフレイは、ぐんぐん伸びていくリュミエルと共に空を舞った。地上から大分離れたところで、上への成長が止まる。
「フィオナ、君はまだそこにいるだろう? 幸い祝福を手放さなかったから、すぐに消えたりしなかったんだ」
リュミエルは幹を太くし始め、上に伸びる枝にも葉が茂っていった。
「どうしてエルフが祝福を与えたか、君たちは知らなかったよね」
眉を下げたフレイは、太くなったリュミエルの枝に腰掛けてため息を吐いた。
「それはね、彼の少しの良心だった。呪いで誰も愛せないなら孤独だろう? だから、せめて草花と話せるように、ってね。それが余計に人間を孤独にするなんて、考えつきもしなかったみたいだけど」
フレイが話す間にも、リュミエルはばきばきと音を立てながら、大きな樹へと姿を変えていく。
「フィオナ。リュミエルの隠しごとを許してやって。愛を失って穏やかに枯れるのが、エルフの至高の幸せ。これは、本当のことだよ」
フレイは幹をそっと撫でてから、複雑な笑みを浮かべた。
「だけど、呪いで別れが来るのは自然な別れじゃないから……裏切りで愛を失うのと同じなんだ。フィオナとの別れで苦しみながら枯れることを、リュミエルは最初からわかってた。それでもいいと思えるほど、君のことを愛してたんだ」
石になったフィオナは、静かにリュミエルの枝に抱え込まれていた。今にも動き出しそうに見えるが、瞬くことすらない。
「それに、フィオナに伝えてしまえばきっと、君は愛を告げてくれない。相応しくないなんて言いながら、本心ではリュミエルだって、フィオナに愛されたかったんだ。お祖父さんが苦しみながら枯れてるところを見てたのにね」
仕方のない奴だとでも言うように、フレイは口の端を上げてリュミエルの幹を軽く叩いた。
「そうだ、リュミエルの持っていた絵本。あれはね、リュミエルのお祖父さんの願いだったんだ」
フレイは下を覗き込み、「ああ、あった」と呟いた。すっと手を伸ばし、掌を地面に向けた。光の粒が集まったかと思うと、フレイの手の中に絵本が現れる。
「もし女が戻ってきたら呪いを解いてやろう。その子孫でも、誰か血を引く女が後悔してやってくればってね。だから最初に産まれて呪いを継ぐのは皆女の子だったんだ。身勝手で困ったエルフだね」
そう言いながらも、フレイはどこかそのエルフを憐れんでいるようにも見える。フレイは表紙を指で撫でると、軽く放り投げた。宙に浮いた絵本は、その場に漂っている。
「リュミエルがフィオナを連れて行くわけないし、もうこの本も用済みだね」
ふうっと息を吹きかけると、煙に巻かれるようにして本が消えた。それを見つめるフレイの視線は、言葉とは裏腹に少しの切なさが滲む。
「さて、まさかこれで終わりだなんて言わないよ。このままここを去ったら、僕はリュミエルに恨まれてちゃうからね。僕はエルフの神様だけど、この世界に生きる全てのものを愛しいと思ってるんだ」
成長を止めたリュミエルは、立派なトネリコの大木へと姿を変えていた。その枝に抱えたフィオナがいなければ、元がリュミエルだったのだとは分からないほどに。誰もこのトネリコを見て、エルフだったとは思わないだろう。
「リュミエル。ほら、一雫を落として」
フレイが幹を軽く叩くと、大きなトネリコの樹がさわさわと葉を揺らした。やがて一枚の葉が落ちてくる。風ひとつない穏やかな空を漂いながら、ゆっくりとフレイの掌に収まった。
「リュミエル、大体君は泣きすぎなんだよ。必要なのは一雫。それも、『蒼き涙を一雫』だ」
青々とした葉を両手で包んだフレイが、ふっと息をかけた。指の間から淡い水色の光が漏れ出して、やがて一雫の水になる。フレイは石になったフィオナの顔にそれを落とした。その目尻を辿る一筋の光は、まるでフィオナの流した涙のようだ。すると今度はフィオナの全身が、雫と同じ水色の光に包まれた。その光はフィオナの中心に集まると、身体からすっと浮き上がる。
「さあ、フィオナの魂は救われた。リュミエル、これでいい?」
トネリコの樹が、満足そうに葉擦れの音を立てた。まるでリュミエルが返事をしているかのようだ。
口の端を上げたフレイが、フィオナの額にそっと手を伸ばした。
「祝福はもう要らないね。それと、こんなところに置き去りじゃ、鳥に突かれてしまうかも。そんなことになったらリュミエルが悲しむから、こっちへおいで」
フレイの指先がフィオナの額に触れると、白い靄のようなものがフレイの手に吸い込まれた。それから幹に手を当てたフレイは、人一人が入れるほどの空洞を作った。手をかざしてフィオナを浮き上がらせると、穴の中にそっと収めた。
「魂はなくても、一緒にいたいと願っただろう? これで願いは叶えたよ」
フレイが穴を閉じると、言い聞かせるようにリュミエルの幹を軽く叩いた。
未だその場に浮いていたフィオナの魂は、躊躇うようにゆらゆらと揺れていた。フレイがそれを両手で掬い上げ、顔の前に掲げた。
「フィオナ、君はもう輪廻の環に乗れる。大地を旅してマナを蓄え、そのときがきたら次の生を受けるといい。そうして、ずっとずっと遠い先に、またここへ帰っておいで。輪廻の環を巡り巡って、いつか、きっと」
フレイが掌の中の光を押し出すと、ふわりと空へ浮き上がった。淡く水色に光る魂は、トネリコの周りを飛び回り、名残惜しそうに枝に止まった。それはまるで二人が寄り添っているかのようだ。しばらくそうして留まると、ゆっくりどこかへ飛んでいった。
いつの間にか日は沈み、空には幾千もの星が瞬いていた。それはどこか優しく、大地を見守っているようだった。穏やかな風が葉を揺らし、いつか来る日を待ちわびるかのように、トネリコはただ静かに佇んでいた。




