5-4
見上げた空は、すぐにでも雨が降り出しそうな雲に覆われている。さっきまで日が差していたとは思えないほどだ。冬の天気は変わりやすく、強い風に悩まされながらの旅をしていた。
フィオナの石化は既に首まで進み、足だけでなく手さえも動かせなくなっていた。まるでリュミエルに会う前のように顔の表面が硬くなり、笑みを浮かべるのすら苦労する。食事はまったく受け付けなくなり、喉の渇きも感じられなくなった。口に含んでも、飲み込むことすらできない。
「ねえ、リュミエル。なんでこんなことになってるの」
「仕方ないでしょ」
フィオナは辛うじて動かせる目を下に向け、自分の着ぶくれした身体を見下ろした。
「これじゃあまるで、冬眠前のアナグマじゃない」
「だって、冬の寒さは僕でも堪えるんだから。フィオナが風邪でも引いたら大変でしょう?」
「もうっ。風邪なんて引かないってば。これじゃあ、アナグマの脂肪のほうがまだ役に立つわ」
「いいんだよ、見てて寒そうなのは僕が耐えられない。アナグマだって脂肪が必要なんだから、フィオナにも服は必要だよ」
肩をすくめようにも、動かせなくてもどかしい。それでもリュミエルの背に揺られるのは心地よくて、このままずっと旅をしていたいと思ってしまう。
「ねえ、まだ怒ってるの?」
「……別に、怒ってなんかないよ」
「私なら気にしてないから、そろそろ機嫌を直してよ」
黙り込んだリュミエルに、フィオナは「しょうがないなあ」と小さくため息を零した。
そもそもフィオナがこんなことになっているのは、少し前に立ち寄った町での出来事が原因だ。フィオナは遠ざかる景色を眺めながら、この事態のあらましを思い起こした。
『フィオナ、何か気になるものがあったら教えて』
『うん。ねえ、あんまり話しかけたらおかしいから、気を付けて』
『大丈夫だってば』
『でもリュミエル、石像に話しかけるおかしなエルフになっちゃう』
『フィオナはフィオナだよ』
少し怒ったように答えたリュミエルに、息を漏らして小さく笑った。と言っても、表情は変わらない。
しばらく町の中を歩いていると、一人の男が声を掛けてきた。
『あんた、珍しいものを持ってるじゃないか』
リュミエルは無視して通り過ぎようとするが、男が徐ろに手を伸ばし、フィオナの腕を摑んだ。
『随分精巧に出来てる石像があったもんだな。いくら払えば買えるんだ?』
『フィオナに触るなっ!』
素早い動きで距離を取ったリュミエルは、男を鋭く睨みつけた。男は驚いたように両掌をリュミエルに向けて上げ、悪びれもせずに答えた。
『ああ、悪かったよ。そんなに怒るなって。たかが石像じゃないか』
息を呑んだフィオナは、すぐに『リュミエル』と呼びかけた。リュミエルは身体をビクリと揺らしその場に留まったが、男が尻もちをついて目を見開いた。
『なっ、なっ、なんだっ、今のはっ? まさか、その石像が? のっ、呪い、呪いだっ』
背中越しにわなわなと震えているのに気付いて、フィオナは小さな声でもう一度リュミエルを呼んだ。『これ以上目立つのはだめ。行きましょう』と囁くと、拳を震わせたリュミエルは無言でその場を立ち去った。
怒りの籠もった強い足取りで向かったのは、女性用の服飾店だ。そこでフィオナの防寒具をこれでもかと買い漁り、その身体を椅子の背ごとぐるぐる巻きにしてしまった。曰く、フィオナが薄着だから石と間違えられた。それから、服を重ねればもう触れられたりしない、だそうだ。
しかしただ巻きつけただけの服では、不自然で解決していないように思えた。けれど、それを言ったらリュミエルは暗い顔をするだろう。フィオナは案外冷静に受けて止めている自分を意外に思う。輪廻の環に乗れないと知った時は、怖くてたまらなかった。リュミエルへの気持ちを認めて、石になることだって。なのに、実際こうなってみると、驚くほどに心は凪いでいる。
不思議に思う気持ちと、納得する思いが交錯する。ずっと誰かを求めていた欲求が満たされ、リュミエルという唯一の相手と気持ちが通じ合えた。フィオナの心の器は、それだけでもう一杯だ。不安など入る隙間は少しも無い。
ただ、リュミエルのことだけが心配だ。フィオナはもうすぐ塵になる。心穏やかに枯れるのが至高の幸せだと言っていたが、本当にそうなのだろうか。フィオナはそれを見守ることができない。魂すら消えたこの世界で、何もできることはないのだから。
これから人間にとっては途方もなく長い時間を、たった一人で枯れていくのだ。本当にそれでよかったのかと、自問自答することもある。それでも信じるしかない。リュミエルの涙で試してみたが、フィオナの呪いは解けなかったのだから。あの絵本のお姫様のようにはなれなかった。
「フィオナ、もうすぐ着くよ」
リュミエルの言葉に、フィオナはゆっくり辺りに視線を巡らせた。この森は、以前フィオナが住んでいた町のすぐ近くにある森だ。景色は変わらないような気もするが、既に香りを感じることはできなかった。今日は生憎の天気で、森もどんよりくすんで見える。
「アスクがいるのはどの辺りか分かる?」
リュミエルは背負ったフィオナを森の奥の方へ向け、自分も首を回して先を窺う。
「今の方向であってると思う」
「わかった。じゃあ、このまま進むよ」
「お願い」
後ろから流れてくる景色に、フィオナは心許なさを感じた。リュミエルの歩みは淀み無いのに、なぜか今は落ち着かない。微かに動く心臓の音も、今日はなんだか遠く聞こえる。
フィオナが最期に会いたいと願ったのは、あの優しいトネリコのアスクだった。旅の終わりに、エンバの種を届けた方がいいように思えた。それまで順調に足を進めていたリュミエルがふと立ち止まり、息を呑むような気配がした。
「リュミエル?」
フィオナの声に肩を揺らしたリュミエルは、躊躇うように顔だけ振り返った。
「どうしたの? アスクは見つかった?」
「フィオナ、アスクが……」
「私にも見せて」
リュミエルは一瞬身体を揺らすが、覚悟を決めたように背負ったフィオナをアスクに向けた。
「えっ……嘘っ」
そこにあったのは、アスクであったはずのトネリコの枯れ木だった。フィオナは対話魔法を開き、周囲の草花に語りかけようと思ったが、見渡す限り木ばかりだ。トネリコやニレのような大樹でなければ話すことは叶わず、冬に生えている草花はない。
「フィオナ……」
「アスクの側に降ろしてくれる?」
「わかった」
リュミエルは一度フィオナの乗った椅子を地面に降ろした。椅子ごと巻き付けていた防寒具を解いて地面に敷き、座ったままの姿勢で石になったフィオナをゆっくり抱え上げる。枯木となったアスクに寄りかかるようにして、そっとフィオナを服の上に降ろした。
「ありがとう、話しかけてみる」
フィオナは対話魔法を開いて呼びかけるが、アスクからは何も返ってはこない。枯木となったアスクは、揺らす枝葉も既に無い。
「やっぱり……だめだった」
「……うん」
リュミエルは、フィオナの横に座り込んだ。
「ねえ、リュミエル」
「なに?」
「連れてきてくれて、ありがとう」
「うん。……次は、どこに行こうか?」
フィオナは視線を落とし、小さく息を吐いた。その息に色はなく、リュミエルの口元に浮かぶ白い靄をじっと見つめた。
「ここで、お終い」
リュミエルがびくりと身体を揺らし、膝をついてフィオナの顔を覗き込んだ。
「どうして? 次に行きたい場所が思いつかない?」
「そうじゃない」
「ああ、それなら、僕はまだフィオナに見せたいところがあるんだ。春になったら花がいっぱい咲いてて、フィオナが対話魔法でたくさん話を」
「リュミエル」
フィオナはリュミエルの言葉を遮った。
「もうわかってるでしょう? ここが最期だって」
「いやだ、わからないよ。僕はもっとフィオナとっ」
「ありがとう、リュミエル。私だって本当はもっとずっと一緒にいたい。でも、もう時間がないの」
リュミエルは強く奥歯を噛みしめ、フィオナの膝に縋り付いた。
「呪いがなければ……爺さんの呪いさえなかったらっ!」
「リュミエル……あるものを無かったことにはできない。だから、受け入れるしかないじゃない。それにきっと呪いがなかったら、私たちは出会ってないでしょう?」
リュミエルはぐっと呻いて押し黙った。
「ねえ、リュミエル。穏やかに枯れるのが、エルフの至高の幸せだって言ったの、嘘じゃないよね?」
「嘘じゃないっ。エルフは嘘を吐かないって言ったじゃないか」
「うん……信じてる」
徐々に口の動きが悪くなってくる。リュミエルと話せる時間も、残り僅かだろう。ついさっきまで薄暗かった空が嘘のように晴れ、空が夕焼け色に染まっている。
「ねえ、リュミエル。手を繋いで」
リュミエルは小さく鼻をすすり、硬い石になったフィオナの手に自分の掌を重ねた。もう片方の手で、フィオナの頬を優しく包み込む。フィオナはほんのり胸が温かくなったように感じた。石になったフィオナが、その熱を感じることなどあるはずもないのに。それでも頬に触れた手からも、体温が伝わってくるような気がした。
「ねえ、笑っ……て、リュミエル。最期に……笑った、顔が……見たい」
リュミエルは一度くしゃりと顔を歪め、無理やりな笑顔を見せた。夕日の茜色に染まるリュミエルは、思っていたとおりに美しく、何よりも愛おしい。
「ありが……とう。愛……して……る」
「僕も、フィオナっ! 僕も愛してるっ」
その刹那、ぴしりと音を立ててフィオナが石になり動かなくなった。言葉を発せぬままリュミエルを見つめるフィオナは、その悲痛な叫びを聞いていた。
「フィオナっ、嘘だ、フィオナっ。嫌だっ! お願いだから……フィオナを連れていかないでっ」
リュミエルの叫び声が徐々に遠くなっていく。目の前でフィオナを思って泣き崩れるリュミエルの姿に、もはや声を掛けることすら叶わない。最期に笑った顔が見たいと言ったのに、リュミエルは酷く泣いている。穏やかに枯れることが至高の幸せだと言ったのに、ちっともそうは見えない。
本当にフィオナの選択は間違っていなかったのだろうか。悲しみに暮れるリュミエルの姿に、気持ちが大きく揺れ動く。けれど、もうこの結末を変えることはできない。フィオナの魂は救われずに消えるし、リュミエルは枯れてしまう。
徐々に視界が狭くなり、固定された世界を深い闇が侵食してくる。フィオナに縋り泣き続けるリュミエルに、手を伸ばしたくなるがもう届くこともない。未だ悲痛な叫びを上げるリュミエルのことを誰か助けてと、いつか見た星に強く願った。その願いが叶うかどうかもわからぬままに、ついにフィオナの世界は静かに閉じた。




