5-3
夏の日差しを受けた湖面がキラキラと光りを放ち、その眩しさに目を細めた。春の肌寒さが去り、過ごしやすい季節がやってきた。空を飛んだ日からいくつもの町を越えて、ようやく辿り着いたのがこの湖だ。
フィオナは胸いっぱいに空気を吸い込み、湖面のきらめきに歓声をあげた。
「わあ、素敵。私、湖は初めて」
「フィオナならきっと気に入ってくれると思ってた」
「連れてきてくれてありがとう」
見上げた先のリュミエルに向かって浮かべた笑みは、浮き立つ心そのままだ。二人で過ごすようになってから、フィオナの表情は豊かになった。固まっていたものが全身から剥がれ落ち、ようやく人間らしさを取り戻したかのようだ。それとは裏腹に、足の石化は徐々に進んでいる。まだゆっくりなら歩けるが、もう少しすれば足首も動かせなくなるだろう。既に表面だけなら膝下まで硬くなり始めている。
「フィオナ、ボートに乗ってみない?」
「ボート?」
「うん。前に来たとき、管理人用のがあったんだ。今の時間ならまだ気付かれずに乗れるよ」
「乗ってみたいっ!」
フィオナは間髪入れずに答えた。リュミエルはくすくすと声を立てて笑うが、そんなことなどお構いなしだ。昔読んだ絵本で、主人公がボートに乗るものがあった。それに憧れたものだが、ついぞ機会に恵まれなかった。それが今叶うと思うと、フィオナは子供の頃のようにそわそわとする。
ゆっくり足を進めると、見えてきた小さな桟橋にはボートが繋がれていた。絵本で見たままの光景に、フィオナは思わず「凄い、夢みたい」と呟いた。それを見下ろしていたリュミエルが、満足げに口の端を上げた。
「乗り降りは危ないから、僕が運ぶよ」と言いながら、リュミエルがそっとフィオナを抱き上げた。とんと軽く地面から飛び上がると、まるで羽のように音もなくボートに着地した。
「危ないから立ち上がらないでね」
「うん、ありがとう」
フィオナは硬くなった足を曲げ、きょろきょろと辺りを見回す。
「魔法で進めてもいいけど……せっかくだからオールを使おうか」
フィオナは何度も頷き、リュミエルが漕ぎ出すのを食い入るように見つめた。自分でも漕いでみたいと思うが、足の踏ん張りが効かないので難しそうだ。それでも漕ぐ度進むボートの揺れに、心臓がとくとくと鳴り、笑みがこぼれた。
しばらく進んだところでリュミエルがボートを止め、周囲の景色を二人でじっくり眺めた。森に囲まれた湖は水面にその緑を映し出し、フィオナは想像していた以上の美しさに息を呑む。その刹那、光を反射した虹色の魚が飛び上がって、ぱしゃりと音を立てながら湖に飲み込まれた。驚いたフィオナは思わず身を乗り出し、慌ててボートの縁に捕まった。
いけないと思ったときには既に遅く、ボートがあっという間に傾いた。
「フィオナっ!」
ボートの中に水が流れ込み、みるみる内に魚のように湖に飲まれてしまいそうだ。フィオナはぎゅっと目を閉じて、水の冷たさに備えた。ところが、いくら待っても水がこない。恐る恐る瞼を開けると、目の前には服があった。ゆっくり顔を上げれば、フィオナを見下ろすリュミエルと目が合う。
「リュミエル?」
口の端を上げたリュミエルが、「下を見てご覧」と視線を落とした。目を瞬いたフィオナは喉を鳴らし、ゆっくり目線を下げた。すぐに「えっ」と声を立て、二人の足元を凝視した。それぞれの足を、固まった水が支えて危なげなく湖面に立っている。
「間に合ってよかった。まったくフィオナは僕を驚かせてばかりで、心臓が保たないよ」
「……ごめんなさい」
「あはは、冗談だよ。僕はフィオナと一緒にいると、毎日が楽しくてしかたない」
「私も……こんなに楽しい日が来るなんて、思ってもみなかった」
互いに目を合わせて同時に笑い合う。リュミエルは「そうだ」と呟き、フィオナの両手を取って少し間を空けた。
「フィオナ、折角だからここで踊ってみよう」
「踊るの? 私、踊りなんて……」
「どこかの村で、踊ってる人間を沢山見たよ。フィオナはああいうの、好きじゃない?」
フィオナは大きく首を横に振った。いくつかの村でも、最後の村でも。フィオナはいつも祭りの輪には入れなかった。ただ羨みながら、少し離れた場所から眺めていたのだ。
「いいなって思ってたけど……この足じゃ、もう……」
「フィオナ、今僕の魔法で立ってるって忘れちゃった? フィオナの思うままに動けば、ちゃんと水がついてくる。僕を信じて足を進めて」
リュミエルがフィオナの手を引くと、固くなった足が一歩前に出た。地面なら転んでしまうその動きも、水の上では滑らかだ。フィオナはリュミエルを見上げ、笑みを浮かべて明るい声で答えた。
「上手く踊れるかな?」
「大丈夫、ちゃんと合わせるから」
リュミエルの言葉に後押しされ、フィオナは自由に足を踏み出した。踊ったことなど一度もない。皆の様子をこっそり覗き見て、一人動きを真似したことがあるだけだった。
手を取りリュミエルと湖の上をくるくると回る。地面を歩くよりずっと軽い足が、思い通りに水面を滑る。動く度になびくスカートが、フィオナの笑い声を乗せた風に合わせて軽やかに舞う。
「ふふっ、踊るのってこんなに楽しかったんだ」
「あははっ、僕も知らなかった」
視線を合わせた二人は弾けたように笑いだす。静かな空気に二人の声が響き渡り、湖面を渡る風に乗って森の中へ溶けていった。輝く水の上で笑い合って踊り続ける二人を、森で囀る小鳥と、水面を跳ねる魚たちだけが見ていた。
***
薄紫色のカルーナと、黄色のハリエニシダのコントラストが大地を彩る。冷たくなってきた秋の風が頬を撫で、フィオナは大きなため息を吐いた。
「フィオナ、もう少し座りやすい椅子にしてもよかったんじゃない?」
「そんなことないってば、これで十分だから」
「そうかなあ……やっぱりもっといいやつにすればよかった」
「もうっ! リュミエルに任せたら王様が座るような椅子になっちゃうんだからっ」
フィオナの石化は膝上を超え、すでに足の付け根まで到達しそうなところまで進んでいた。既に自分で歩くことはできず、椅子に座って背負子のようにリュミエルに背負われている。
さっきから、椅子を変えようというリュミエルを説得するのに苦労していた。座り心地もすぐに分からなくなるのだから、これで十分だと言っているのに。リュミエルはまだ首を捻りながら「そうかなあ」などと呟いている。
これ以上立派な椅子にしたら、いくらエルフとは言え旅が辛くなるだろう。フィオナだけでも重いのに、その上そんな大仰な椅子など背負わせるわけにはいかない。固くなった足が自然に見えるように椅子を使うことにしたのだが、どうもリュミエルはフィオナに甘すぎるのだ。
未だに唸り声を上げるリュミエルに背負われながら、美しく彩られた大地を抜けていく。夕暮れも近づき、赤く染まり始めた空がどこか物悲しく映った。しばらくすると人々の声が近付いてきて、町についたようだと辺りを見回した。
「フィオナ、今日はこの町で休もう」
「……ねえ、なんだかやけに賑やかじゃない?」
「そう?」
フィオナの言葉に首を傾げたリュミエルが、ぐるりと町を見回した。見れば周囲の人々がぞろぞろとどこかへ移動している。
「あんたたち、余所から来たのかい? おかしな格好だね。怪我でもしてるのかい?」
声をかけられ右手に視線を向けると、一人の女性が不思議そうにフィオナを眺めていた。
「ええ。旅の途中なんです。私が怪我をして歩けないから背負って貰ってるのよ」
「ああ、そうかい。そりゃあ難儀だね。その様子じゃあ、今日が何の日か忘れたのかい?」
フィオナは小さく首を傾げ「ああっ」と声を上げる。
「魂迎の夜の二日目ね!」
「ああ、そうさ。今から集まって晩餐だ。この町は比較的裕福だからね。あんたたちもご馳走にありつけるさ」
「ありがとうございます」
リュミエルは後ろに首を回し、フィオナの方を振り返った。
「行ってみる?」
「……でも、さっきみたいにおかしく思われない?」
「僕がフードを外しておけば、皆フィオナのことには気付かないよ」
リュミエルはそう言って、被っていたフードをあっさり下ろした。人間に見惚れられるのに辟易して、近頃ずっと顔を隠していたのに。案の定気付いた人たちがリュミエルに釘付けになるが、話しかけてくる者はいなかった。
「それにしても、今日が魂迎の夜だったなんて……ついてるんだかついてないんだか」
肩を竦めたリュミエルに、フィオナは苦い笑みを浮かべた。
「明日のお祭りが終われば、もう暗い日々――闇の季節がくるんだね」
「……寒くなるから、もっと厚い防寒着も買わなくちゃ。ここの次はもう少し大きな町を目指そう」
「ふふっ。今持ってるので大丈夫だってば」
リュミエルは人々の集まるほうへ歩いていった。着いた先には篝火が焚かれ、人々は近くの大きな建物へと吸い込まれていく。それに紛れて入ろうとすると、一瞬フィオナを振り返った人たちは、すぐにリュミエルの顔を見上げてその場で固まった。惚けたように見上げたまま、フィオナのことは忘れてしまったようだ。リュミエルはなんてことない風に建物に入り、そのまま目立たぬ奥の方へ進んでいった。
屋内は暖かく、知らぬ内に冷えていた身体がじんわりと熱を取り戻す。とは言え、膝から下はもう冷たさも、暖かさも感じられない。それでもフィオナは周囲の賑やかさに目を細め、人々の様子を眺めた。輪の端の方にフィオナを降ろしたリュミエルは、再びフードを被って顔を隠した。
「なんだ、あんたら。そんな隅っこじゃ飲み食いするのも不便だろ。ほら、これを分けてやるから仲良くやりな」
既に酒の回った様子の男が、リュミエルに木の盆を差し出した。「どうも」と受け取ったリュミエルは、フィオナの横に座り込む。
「リュミエル、地べたに座ったら寒いんじゃない?」
「別に平気だよ。それよりほら、食べよう」
二人は分けてもらった酒と肉を頬張り、顔を見合わせ笑いあった。歩けなくなったフィオナはすぐに満腹になるが、それでも体の芯からぽかぽかと温かくなる。
そのまましばらく賑やかな人々の様子を眺め、二人はそっと建物を後にした。宴会もそろそろお開きになるようで、外では篝火を各家に配る準備が進められている。
「ねえ、リュミエル。魂迎の夜が何か知ってた?」
「……うん」
「そう」
フィオナは冷たくなった外の空気に、ぶるりと身体を震わせた。
「今日はあの世とこの世のつながる日。母さんはやっぱり私みたいに……ううん、私ほどじゃないけど、人から距離を取って暮らしてた」
「……」
「だから、あんな風に賑やかに迎えたことはなくて。なんとなく、魂が還ってくる日だってことは知ってたけど……」
「うん」
フィオナは小さく息を吐き、星の瞬き始めた空を見上げる。リュミエルはフィオナを背負ったままずんずんと歩いて町の外へ出てしまった。
「母さんが死んだ時、アスクに聞くまでずっと思ってた。いつか母さんと……魂迎の夜に会えるんだって。ずっと……そう思ってた」
「……やっぱりこんな日に町に寄るなんて、ついてなかったな」
「そんなことない。賑やかなあったかい所で、美味しいご馳走を味わえた。これから迎える冬の前に、贅沢ができたんだから」
リュミエルは黙ったまま歩き続ける。何も言わずに足を進めるリュミエルに、フィオナは小さく苦笑を漏らした。
「リュミエル、私は大丈夫だから」
フィオナを背負うリュミエルの肩が、ビクリと揺れる。
「まだちょっと怖いけど。でも、最期まであなたと過ごせるなら、私はそれだけでいいから」
「……」
「でも、ほんのちょっとだけ……いつかの魂迎の夜に、魂のままでいいから、またリュミエルと会えたらいいのにって……そんな弱音を吐いたら駄目かな?」
「駄目じゃない、駄目じゃないよっ。僕だって本当は……」
リュミエルは再び黙ったまま歩き続け、丘の上に辿り着いた。背中から椅子に座ったフィオナをそっと地面に降ろし、フードを下げて振り返った。
「リュミエル、泣いてる?」
「泣いてなんかっ」
そう言いかけた目元が、月明かりに照らされてきらりと光る。
「ふふっ、泣いてる」
「笑うなんてひどいじゃないか」
拗ねたように言うリュミエルに、フィオナはそっと両手を伸ばす。かがみ込んだリュミエルの頬に指を滑らせ、湿った肌を両手で包み込んだ。
「ごめんね、リュミエル。ずっと一緒にいられなくて……ごめんなさい」
リュミエルはくしゃりと顔を歪ませ、フィオナを強く抱きしめた。
「謝るのはエルフのほうなのに……ごめんね、フィオナ」
フィオナは小さく首を横に振る。リュミエルの頭をそっと撫で、金糸のような髪に指を通した。
「リュミエルが悪いわけじゃないでしょう。それに……叶わない希望を持って、誰とも心を通わせずに消えることを思ったら。私はやっと本当の意味で生きることが出来て、今が幸せ」
「フィオナっ」
フィオナの肩に顔を埋め、くぐもった声でリュミエルは泣き続ける。
「リュミエル、ありがとう」
リュミエルは何も答えず、小さく何度か頷いた。
頭上には幾千もの星が瞬いている。この数だけの魂が輪廻の環を巡るのだろうか。フィオナは見上げた空の星々に、リュミエルの穏やかに枯れるさまを、自分の代わりにずっと見守ってほしいと願わずにはいられなかった。
明日の三話+エピローグで完結になります。
21時台に時間を置いて順番に投稿予定です。




