5-2
粗末な家に帰り着いたフィオナは、ほとんどもののなくなった部屋をぐるりと見回した。終の棲家と決めていたのに、想像もしない終わりになった。けれど、それを後悔はしていない。していないのだが。
「フィオナ、片付けはもうおしまい?」
「……うん。これで終わり」
「荷物も全部持った?」
「大丈夫。もう持ってても、あまり意味のないものばかりだし」
リュミエルは眉を下げ、小さく「そっか」と呟いた。フィオナは最後は手にした記録帖へ視線を落とし、ため息を吐いた。
「記録帖、村に置いていかないの?」
「うん」
フィオナはリュミエルを見上げ、曖昧に頷いた。心残りはこれだけだ。思いを振り切るように鞄にしまうと、リュミエルと手を繋いで扉を潜った。
「荷物、僕が持とうか? 記録帖は重いだろうし」
「自分で持てる間は持っていたいから」
握られた左手に、ほんの少し込められた力が伝わってくる。フィオナはリュミエルを見上げ、淡く微笑んだ。
足の運びが遅くなったフィオナに合わせてゆったりと、いつも二人で歩いた森の中を進んでいく。辿り着いたのはエンバの前だ。フィオナはリュミエルから手を離し、ニレの樹にそっと手を押し当てた。
「エンバ、色々ありがとう」
さわさわと風に揺れる樹は、今日は何も答えない。
「エンバ?」
「どうしたの?」
リュミエルが不思議そうな顔をして、フィオナとエンバを見比べた。
「答えてくれない。何でかな?」
リュミエルはしばらくエンバを見つめ、小さく頷いた。
「きっともう役目を終えたと思ってるんだ。ちょっと力が落ちてるみたいだし」
「そう。でも、聞こえてるかな?」
「フィオナの気持ちは届いてると思う」
フィオナは頷き、もう一度エンバに向き直る。そっと額を当て、感謝を込めて「さようなら」と呟いた。
再び手を取り歩き出した二人の後ろ姿を見送って、エンバはがさがさと枝を揺らす。青々としていた葉はあっという間に黄色くなり、はらはらと舞い落ちた。振り返らずに去っていくフィオナとリュミエルは、それに気づくことなくそのまま歩みを進めた。
「これからどこへ行くの?」
「僕がここへ来るまでの間に見てきた場所に行こう」
「どんな所か楽しみ」
村を迂回する進路を辿り、フィオナとリュミエルはまだ二人で歩いたことのない道へ踏み出していく。途中どこかの町で休憩を取りながら、ゆっくり進む旅路だ。最終的な目的地は決めていない。今まで終の棲家を見つけるためだけに旅してあの村に辿り着いたフィオナにとって、純粋に楽しむ旅は初めてだ。爪先が重いことを忘れてしまいそうなほど、心が浮き立つ。
しばらく二人で次の目的地について話していると、どこからかフィオナを呼ぶ声が聞こえてきた。
「誰かが呼んでる?」
きょろきょろと辺りを見回すフィオナに、リュミエルがそっと後ろを指差した。示された方に顔を向けたフィオナは、「あっ」と小さく声を漏らす。
「カイルっ!」
思い掛けず会えた顔に、フィオナはぱっと笑みを浮かべた。
「おーーーい、フィオナー!」
大きく手を振りながら近付いてくるカイルの姿に、フィオナはふっと心が軽くなる。追いついてきたカイルは、一瞬目を向けたリュミエルに釘付けになった。初対面では皆に同じ反応をされるリュミエルは、肩を竦めてやれやれといった様子だ。
「カイルっ」
「あっ……ああ、悪い」
目の前で手を振ると、カイルがはっと我に返った。袖で額の汗を拭ったあと、フィオナに視線を戻して気まずそうな表情を浮かべた。フィオナがちらりと見上げると、リュミエルは「いつものことだよ」と肩を竦めた。
「カイル、村へ行ったの?」
「ああ。フィネガンさんにフィオナが旅立ったって聞いて……」
「そう。カイルにも会いたかったから、ここで会えてよかった」
「俺もだ。前に頼まれてたものは……」
フィオナは眉を下げ、答えられずに口ごもった。
「いや、いいんだ。フィオナの顔が見られてよかった。旅の途中にまたどこかで会うかもしれないけどな」
明るく笑うカイルの様子に、フィオナはほっと息を吐く。すぐに鞄を開けると、中から記録帖を取り出した。
「あの、カイル。これ……」
「ん? なんだ?」
カイルは首を傾げてフィオナの手元を覗き込む。
「これは……フィオナの記録帖か?」
「うん。これ、カイルが持っててくれないかな?」
「いやっ、待て。そんな大切なものを何で俺なんかに?」
焦ったように両手を上げたカイルに、フィオナは小さな笑みを浮かべた。それからそっと記録帖の表紙を撫でて、笑みを複雑なものに変える。
「村に残すこともちょっとだけ考えたけど……やっぱり、カイルのほうがいいと思って」
「あそこでの暮らしは辛かったのか?」
「ううん、違うっ」
フィオナは慌てて首を大きく横に振った。
「そうじゃなくて。村に置いたら、狭いあの村の中でしか役に立てない。それに、私の残したものを使ってもらえるかもわからないし。でも、カイルなら商人だから。色んな所へ行くでしょ?」
カイルは納得したように頷き「なるほど」と呟いた。
「俺なら、それが一番役立つ場所を探せるって思ってくれたんだな?」
「うん」
「わかった。そういうことなら引き受けた。代金は……」
「いらないっ。これは私の生きた証だから。値段はつけられないし」
カイルは眉を下げ、何も言わずに口を閉じた。
「カイルがこれを誰かに売ってもいいし、売らずに持ち歩いて使ってくれてもいい。どうするかは任せるから」
フィオナは記録帖の表紙をじっと見つめてから、そっとカイルに差し出した。
「……わかった。俺の思う最善を見つけて、役に立てると約束する」
フィオナを真っ直ぐ見つめたカイルは、両手でしっかり記録帖を受け取った。
今まであった重みが去り、軽くなった掌が空っぽになってしまった。これでよかったのだと思う一方、自分の半身がもぎ取られたような苦しさが込み上げる。
「じゃあ、僕たちは行くよ。それ、ちゃんと役立てろよ」
カイルを一瞥したリュミエルは、フィオナを抱えてその場から音もなく消え去った。後に一人残されたカイルは、口を半分開いて呆然としている。しかし、その手にある重い記録帖から、手を放すことはなかった。
***
「リュミエルっ! いきなりびっくりするじゃないっ」
「あははっ。ごめんね、フィオナ」
音もなく降り立ったリュミエルは、抱えていたフィオナをそっと地面に降ろした。
「どうしていきなり木の上に?」
ふいっと顔を逸らしたリュミエルは、「フィオナが泣きそうだったから」と口を尖らせた。「泣きそうになんて……」なってない、と言いかけて口を閉じた。確かにあのままだったら泣いてしまったかも知れない。記録帖を手放したとき、それほどに胸が軋んだ。
「でも、急に人前で抱き上げるなんて、恥ずかしいからもうやめてっ」
「約束はできない」
リュミエルは少しだけ怒ったような顔をしたかと思うと、ふっと悪戯を思いついたような笑みを浮かべた。
「また誰かの前で泣きそうになったら、今度はもっと高くまで連れて行ってあげるよ」
呆気にとられたフィオナは、すぐに顔を赤くして「もうっ」と片手を振り上げた。叩く振りをしたフィオナの手を、リュミエルが軽く受け止める。笑い声を上げながら、支えるようにしっかりと握り直した。
「それにしても、村に置いてこなかったのはそういう理由だったんだ。僕は、フィオナはずっと記録帖を持っていたいのかと思ってた」
「うん。それも考えたけど……やっぱり、誰かの役に立ちたいって気持ちはなくならなかったから」
「そっか。フィオナが信じた人間なら、きっと上手く使ってくれるはずだよ」
「私もそう思う。カイルなら、きっと」
村に置いていくか迷ったのは本当のことだ。けれど、フィネガンの話を聞いて尚更村人に託すのはやめようと思ってしまった。
フィオナも村人たちも、あまりにも互いのことを知らなすぎた。それは、フィオナが先に線を引いたせいでもあり、その線を越えようとする大人もいなかったからだ。ブレナンや子供たちは飛び越えようとしたけれど、子供たちに託すには重すぎる。ブレナンも、そう思えるほど大切な人にはならなかった。
祝福と呪いのせいで心を開けなかった、確かにそれは本当のことだ。それでもフィネガンや村長のマロックのように、差し伸べる手を持った人が他にもいたのかもしれない。手を伸ばすことも、差し出すことも、互いに怠った結果が今だ。それはまるで、フィオナの祖先とリュミエルの祖父のような、互いを知ろうとしなかった末の悲劇のように思えて複雑な気持ちになる。
そんな風に分かり合うことのできなかった人たちへ、思いのこもった記録帖を託すことがどうしてもできなかったのだ。
「フィオナ、後悔してる?」
「えっ? 記録帖のこと?」
「……いろいろ」
フィオナは歩みを止めてリュミエルを真っ直ぐ見上げた。
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく」と答えたリュミエルは、眉を下げて口ごもった。はっとしたフィオナは、慌てて繋がれた手にもう片方の手を添えた。
「ごめんね、リュミエル。ずっと一人だったから、口に出すのを忘れてただけ。後悔したり落ち込んでたわけじゃないわ。村のことを考えてたの」
今互いを知ろうとしなかったのが悲劇だなどと考えながら、目の前の大切な相手に何も話さないだなんて。どれほど間抜けな話だろうか。これでは呪いの起源の二人と何も変わらない。少なくともフィオナは、リュミエルと共に生きようと思ったのだから。
「リュミエル。私はあなたに出会って、いろんなことに気付かされた。村の人たちが私を避けてた理由も知らなかったし、知ろうともしなかった。お互いの思いを伝え合うことの大切さだって」
小さく息を吐いたフィオナは、人生で一番の笑みを浮かべて「それに」と続けた。
「自分を受け止めてくれて、分かり合いたいと思える相手がいる。それがこんなにも幸せなことなんだって、初めて知ったわ。ありがとう、リュミエル」
リュミエルはぐっと呻き声を上げ、赤くなった目元を袖でごしごしと擦る。
「フィオナ、僕をどうしたいの」
「ふっ、あはは。いつもやられっぱなしは悔しいから、たまにはいいでしょ?」
「……僕をからかうと、後悔するのはフィオナだよ?」
赤い目のまま意地悪く笑うエルフに、フィオナの背筋がぞくりとする。
「リュミエル……なにをする気?」
不敵に笑ったリュミエルは、フィオナの手をそっと離した。嫌な予感に一歩後退るが、リュミエルは笑みを浮かべたままだ。
「しっかり口を閉じててね」
言うや否や、フィオナを抱え上げてあっという間に木の上に飛び上がる。フィオナは思わず小さく悲鳴を漏らすが、ぐっとこらえてリュミエルにしがみついた。
「あははっ、フィオナ。怖がらずに下を見てご覧よ」
微かに震えながら、リュミエルの首にしっかり巻き付けていた腕の力を、ほんの少し緩めた。眼下に広がるのは遠くなった森と、そこを通る一本の道。その先にはオレンジの屋根が並ぶ小さな町が見えた。いつの間にか木々を飛び越えて、森の上空に浮かんでいた。
「わあ、可愛い家が並んでる」
「そう言うと思った。あんまり長い時間は飛べないけど、フィオナの気が済むまで眺めてから降りよう」
「大丈夫なの?」
「エルフを甘く見ないで欲しいな。これくらいは何てことないよ」
フィオナはリュミエルを見つめて深く頷いた。
「こうやって私の家からも逃げたのね?」
決まり悪そうな顔をしたリュミエルは、目を逸らして何も答えない。
その仕草に笑いを漏らしながら、フィオナは改めて思う。村人たちとわかり合うことは出来なかった。心残りもないわけではない。けれど、リュミエルとは……きっと、こんな風に笑って最期を迎えたいと。




