5-1
暖かな日差しを受けた森は、風に揺れる木漏れ日に彩られている。風は心地よくフィオナの頬を撫で、乾いた森の空気は清々しい。少し前までの重苦しさが嘘のようだ。
怪我が落ち着いたところで、フィオナは村へ行くことにした。呪いの影響で石化が始まり、既に足先が硬くなっている。とは言え、今ならまだ自力で歩くことができる程度だ。
「フィオナ、歩くのは辛くない? 僕が抱えてあげようか?」
「大丈夫。それに、抱えてもらうなんて恥ずかしくて絶対に嫌っ」
フィオナは赤くなった頬を誤魔化すように、ふいっと顔を反対側に向ける。その様子にリュミエルは小さく吹き出した。
「もうっ、どうして笑うの」
「だって、フィオナって相変わらず素直じゃないから」
「私は正直に嫌だって言ってるだけよっ」
フィオナは大きく足を踏み出し、しっかり地面を踏みしめた。いつもより強く蹴り出すと、硬くなり始めた爪先に慣れずに躓く。「あっ」と声を上げると同時に、リュミエルに支えられて踏み留まった。
「そんなに急いだら危ないよ」
「ごめんなさい。……ありがとう」
目を細めたリュミエルは、自然にフィオナの左手を取り歩き出す。「また転んだら危ないから」と言いながら嬉しそうに笑うリュミエルに、何も言えずに下を向いた。
握られた温かな手とは逆に、フィオナの爪先は冷たい石になり始めていた。ほんの少し怖くなって、繋いだ指に無意識に力が籠もる。ぎゅっと握り返され、おずおずとリュミエルを見上げた。柔らかな笑顔と視線が合い、ほっと小さく息を吐く。
いつも近付く度に足が重くなっていた村への道も、今日で最後と思えば違う意味で進みが鈍る。この道をリュミエルとこんな風に歩く日が来るなんて、思ってもみなかった。
徐々に大きくなってくる村の景色に、フィオナは目を細めて軽く笑みを浮かべた。色々なことがあったような気もするが、その色々はリュミエルが来たせいだ。それまでのフィオナは、静かで無難な生活を送っていたのだから。この村に辿り着いてから五年ほど、長かったような短かったような――そう思うのもリュミエルのせいだ。
独りで過ごす時間は途方もなく長く思え、掻き乱された時間はあっという間で。
「フィオナ、誰のところに行くの?」
突然話し掛けられて、考え事から引き戻されたフィオナはきょろきょろと辺りを見回した。いつの間に村の中まできていたのだろう。
「フィネガンさんに……」
「わかった」
フィオナに歩調を合わせたリュミエルは、迷うこと無くフィネガンの家を目指した。
「……ねえ」
「うん?」
「どうしてフィネガンさんの家を知ってるの?」
はたとして立ち止まったリュミエルは、一度空を見てから意味深な笑みを浮かべてフィオナを見下ろした。
「さあ?」
エルフは嘘をつかないが、隠し事はする。リュミエルは、これ以上聞いてもきっと答えないのだろうが、それもいいかとフィオナは肩を竦めた。フィオナの住む森に現れる前に、村の様子も見ていたのだろう。思い返せば草花と話すところを見られたときも、こう言っていた。
『森で話しながらいつも何か書いてるよね。あれは、記録帖?』
あのときは気にならなかったが、いつもと言ったのだからそういうことだ。
迷うこと無く辿り着いたフィネガンの家の前で、フィオナは立ち竦んで動けなくなった。何をしに来たのかと嫌がられたりはしないだろうか。きっと本当は優しい――それはフィオナの勘違いかもしれない。
扉の前で手を上げたり下げたりと悩むフィオナの左側から、大きな拳が現れた。躊躇うこと無く扉を叩くのは、もちろんリュミエルだ。
「えっ、ちょっと、リュミエルっ」
リュミエルは不思議そうな顔でフィオナを見下ろし、「ん?」と悪びれもせずに首を傾げた。
「こ、心の準備がまだ……」
フィオナが言い掛けたところで、ゆっくり扉が動き出す。杖をついて現れたフィネガンは、フィオナを見て眉を寄せ、隣のリュミエルを見て目を見開いた。
「こ、こんにちは、フィネガンさん。突然すみません」
「……ああ。今日は薬をもらう日だったか?」
眉を寄せたのは迷惑がられたわけではなかったのだと、フィオナは胸を撫で下ろした。
「いいえ……あの、実は私……」
フィオナは言い淀んで視線を彷徨わせた。勢いで来てしまった上に、心の準備も無いまま扉が開かれてしまった――リュミエルのせいで。果たして自分がいなくなることで、フィネガンは何か困るのだろうか。知らせる意味があるのだろうか。フィオナが逡巡している間に、リュミエルが口を開いた。
「ねえ、フィオナがいなくなったら、あなたは困る?」
フィオナはびくりと肩を揺らし、息を詰めてフィネガンを見つめた。フィネガンは一瞬呆けたようにリュミエルを見上げたが、すぐに我に返って怪訝な表情を浮かべた。
「……なんだ突然。あんたはエルフか」
「ねえ。困るの、困らないの、どっち?」
フィネガンは二人を交互に見比べてから、フィオナとしっかり視線を合わせた。
「困るに決まっとるだろ。いつも言ってるとおり、あんたの薬はよく効くんだ」
フィオナはくしゃりと顔を歪め、じわじわとせり上がってくる涙に慌てて俯き唇を引き結んだ。フィネガンはリュミエルを見上げ、険しい表情で咎めるように言った。
「どこかへ連れていく気か」
「フィオナは、エルフでも治せない病に侵された。これから先は僕と自由に生きるために、ここを去る」
フィネガンは息を呑み、フィオナの顔をまじまじと見つめた。やがて杖を持つ手を震わせ、片手で口を覆った。
「その若さで……本当にエルフでも治せんのか?」
「出来るならとっくにやってる」
「……そうだっ、命の種ならどうなんだ?」
いつになく声を大きくするフィネガンを、フィオナは呆然と眺めた。
「命の種でも駄目なんだ」
「……そうか。すまなかった」
リュミエルに掴みかからんばかりの勢いだったフィネガンは、視線を彷徨わせてから肩を落とした。その様子にふっと身体の力が抜け、フィオナは「ありがとうございます」と笑みを浮かべた。
「何の礼だ」
「ふふっ。心配してくれて、ありがとうございます」
「……余計なことを言って悪かった」
気まずそうに目を逸らすフィネガンに、フィオナはくすりと声を漏らす。
「本当に、感謝してます。村の皆に好かれてたわけじゃないけど……フィネガンさんはやっぱりいつも気遣ってくれてたんだって、よくわかりました」
「薬の対価を払うのは当然だ」
「よく効くって言ってくれたのも、嬉しかったです」
「本当のことを言ったまでだ」
胸の奥が温かくなり、これまで自分のしてきたことが間違いではなかったのだと感慨深く思った。小さく鼻をすすると、肩に掛けた鞄からフィネガンにいつも渡していた薬を取り出した。
「あの……これ、今作れるだけの薬を持ってきたんです。もしよかったら……」
「ああ、助かる」
フィネガンは大切そうにそれを受け取り、胸の前で抱えた。
「余ったらアイラさんにも……」
「あの婆さんには要らんだろ。全部儂がもらっておく」
フィオナはぷっと吹き出し、明るい笑い声を立てた。その様子をフィネガンは目を細めて見つめた。
「……村長のところにも行くのか?」
笑いを止めたフィオナは、少しの間を置いてから首を振る。
「ブレナンと顔を合わせ辛くて……」
「そうか。儂が話しておくから気にするな」
「ありがとうございます」
フィネガンは「ああ」と頷くと、躊躇いがちに口を開いた。
「……フィオナ。今まで名前も呼んでやれずに済まなかった」
フィオナは肩を揺らしてフィネガンを見つめた。同時にリュミエルが首を傾げて尋ねた。
「呼んでやれなかったって、どういうこと?」
「あんたが森に住むと村長の家を訪ねたあと、村人たちに薬草師を名前で呼ぶなと触れがでた」
「は? なんでそんなことっ」
声を荒らげそうになったリュミエルの手を、フィオナはぎゅっと握った。リュミエルはフィオナを見下ろし「ごめん」と小さく呟いた。
「村長は理由を話さなかったが……おそらく人目を避けてるあんたを気遣った末のことだ。村に住むでもなく馴染もうとしない余所者だ。何かあると思ったんだろう」
「そう……ですね。私は始めから、村に住むつもりはないと話しましたから」
「名前を呼んで互いに情が移るのを避けたんだろう。それを察する者もいれば、わからん者もいる。何も考えてなかったのは子供らと……ブレナンだけだな」
フィネガンはやれやれと言いたげに肩を竦めた。
「薬草師のフィオナ。あんたのことはずっと覚えておく」
フィオナはその言葉に息を呑んだ。今までの自分を認めてもらえたような気がして、胸の奥からじわじわと温かなものが湧き上がる。
「……フィネガンさん、色々と、ありがとうございました」
「礼を言うのはこっちだ」
握ったリュミエルの手に力を籠めて、フィオナはゆっくりと口を開いた。
「さようなら、フィネガンさん。お元気で」
「ああ。……いい旅を」
フィオナとリュミエルはフィネガンに別れを告げ、村の出口へ足を進めた。最後に村の姿を目に焼き付けようと振り返ると、小さな影に目を眇めた。
「フィオナーーーっ」
「フィオナ、まってーーー」
必死に呼びかけながら走ってくるのは、エイリンとシボーンだ。転びそうになりながら駆けてくる二人に、フィオナは思わず走り出しそうになる。そっとリュミエルに手を引かれ、慌てて足を引っ込めた。
「フィオナ、走っちゃ駄目だよ」
「うん、ごめん」
リュミエルと手を繋いだまま、エイリンとシボーンの方へ歩いていった。ぜえぜえと息を切らした二人は、胸に手を当てて苦しそうだ。フィオナはリュミエルと繋いだ手を解き、鞄から手巾を取り出した。腰を落としてそれぞれの額の汗を順に拭いてやる。
「二人共、そんなに急いでどうしたの?」
小さく咳き込んだエイリンが、言葉を途切れさせながら必死に答えた。
「フィオナがっ……いたから」
続きをシボーンが引き受けた。
「あそぼうって……おもって……」
フィオナは胸がぎゅっと締め付けられる。産まれた時から知っているこの可愛い子供たちとも、今日でお別れだ。
「おチビちゃんたち、フィオナは遊べないよ」
「リュミエルっ」
相変わらず子供にも冷たい口調のリュミエルに、フィオナは腰に手を当てて上目遣いで眉を顰める。肩を竦めたリュミエルは、やれやれと言った風にそっぽを向いた。
「フィオナ……あそべ……ないの?」
「もう……おうちに……かえっちゃう?」
息の整わぬまま、二人は必死に言葉を紡ぐ。しゃがみ込み目線を合わせたフィオナは、眉を下げて交互に見つめた。
「ごめんね。もう村にはこれないの。今日でお別れなのよ」
「えっ」
二人は息を呑み、これでもかと言わんばかりに大きく目を見開いた。
「なんで?」
「もうあえないの?」
しがみついてきた二人を抱きとめて、そのままぎゅっと腕を回した。いつもより高い体温に胸の奥が熱くなり、ゆっくり離せば身体がすっと冷めていく。
「ごめんね……エルフのお兄ちゃんと、旅に出るの」
「またあえる?」
「かえってくる?」
不安そうな二人に、フィオナは胸が潰れるような思いで声を絞り出した。
「もう会えないわ。……ごめんなさい」
二人の目には、みるみる内に大きな雫がたまり始める。途端にぽろりとこぼれ落ちた涙は、陽の光を反射してきらきらと輝きを放った。フィオナは二人の涙を拭い、鞄の中から爪紅を取り出した。
「二人に会えてよかった。これ、前から欲しがってた爪紅よ」
「ひっく、つ、つまべに?」
「うぅっく。つまめにってなあに?」
「ふふっ。お母さんの爪みたいに、素敵な色になるお薬よ」
二人は一瞬泣き止み、頬を染めて「うわあ」と嬉しそうな声を上げた。ずっと鞄の奥底で燻っていたものがあるべき場所へと渡ったことで、フィオナは背負う荷物がほんの少し軽くなったように思えた。




